日韓近代史資料集

韓国ニュー・ライトの応援+竹島問題

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文藝春秋が池内敏氏の新著『竹島―もうひとつの日韓関係史』について、実にいいかげんな紹介文を載せました。短いので全文引用させてもらいます。


 


池内敏『竹島』(中公新書)は、日韓両国の文献資料などをもとに、多面的に竹島を巡る歴史的事実を明らかにする。江戸時代、幕府が竹島を「異国の属島」とみなして渡海を禁じ破った者を死罪に処していたこと、1877年の太政官指令で「竹島外一島」が日本の版図外とされていたことなど、冷静に理解しておくべき日本側の「弱点」も。過熱しがちなこの問題だからこそ、しっかりと史実を知っておきたい。


(文芸春秋20164月号 p405「新書の窓」筆者は「川」とある。)


 


 


 これは一体何だろうか? これを書いた人は、竹島問題のことなどほぼ何も知らないようだ。


まず、江戸時代のことが説明されていて、これは見てのとおり天保竹島一件のことだが、幕府が「異国の属島」とみなして渡海を禁じ、それを破った者を死罪に処していたというその「竹島」は、いったい鬱陵島と現竹島のどちらのつもりで書いてあるのだろうか。この文脈からすれば現竹島のことだと思って書いてあるのは明らかだろう。つまり、筆者は江戸時代と明治時代では竹島という名前が鬱陵島から今の竹島に入れ替わったという基本的な事実も把握しないままものを言っているわけだ。そして、結局、読者に「幕府は今の竹島に渡った者を死罪にしたことがある」という著者(池内氏)も言っていない間違った理解を与えてしまった。


 


太政官指令については、筆者は問題となっているのは「竹島外一島」のうちの「外一島」だということを理解しておられるのか疑問がある。上の書き方から見れば、「竹島外一島」の「竹島」のことだと思っているようにしか見えない。まあ、これはさほど大きな問題ではないですが、それにしても、筆者は著者(池内氏)の言うことを真に受けて、太政官指令で今の竹島は日本の版図外と決定されたという俗説を文藝春秋の読者層に広めることに一役買ってしまった。確かに「しっかりと史実を知っておきたい」ものです。


 


 大体、池内さんがこの本で一番言いたかったのは終章「固有の領土とは何か」の部分だろうから、本を紹介するのならこの部分をこそ紹介すべきだったと思うのだが、終章を要約するのは難しかったんでしょうかね。




 


 


 



閉じる コメント(9)

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前著の高価な専門書と大手出版社から1000円弱で買える新書では、一般読者へ与える影響力が全然違います。文芸春秋2016年4月号<案の定、Gや(Chaamieyさんも)の懸念が当たりましたね。それと竹島問題は、他の領土の問題(北方・尖閣)と違って、(結果的に島名の入れ替わりなどがあって)参入障壁があります(笑)。したがって、竹島問題は、他の二つの問題より専門性が高いです。これはいいことなのか!?悪いことなのか!? (一部書き直しました)

2016/3/20(日) 午後 11:00 [ gku***** ] 返信する

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「参入障壁」はあるのでしょうが、竹島名称の入れ替わりも含めて外務省ホームページではけっこう分かりやすく解説されていますから、そういうものを読めば一応理解できると思うんですけどね。

それにしても、確かに新書の威力はありますね。池内新書はあちこちで好評です。文句言ってるのは私とコメンテーターの皆さんたちくらいでしょうね(笑)

2016/3/20(日) 午後 11:12 [ Chaamiey ] 返信する

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池内氏が地学雑誌200号のみを引用して(116ページ),地学雑誌210号に言及していないのはペテンに近いですよ。
それから,118ページから122ページまでの塚本説の否定は,読んで全然理解できない。滅茶苦茶と言っていい。
これは,池内氏が地図の混乱により竹島と松島の名称が入れ替わったことを明示しないで塚本説を否定しようとしているからですね。

2016/3/21(月) 午前 4:21 [ pur*cy*ka20*7 ] 返信する

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「中央政府レベルでは鬱陵島を江戸時代以来の名称たる竹島と呼び習わしていた明治初年の時期,民間では鬱陵島を竹島と呼んだり松島と呼んだり一定しなかった。」(121ページ)←陸軍参謀局(国土地理院の前身)が1875年に発行した亜細亜東部輿地図,海軍水路寮が1876年に発行した朝鮮東海岸図等でも既に鬱陵島=松島なんだから,これだって怪しい。鬱陵島=松島という地図は,江戸時代から発行されてますし。

2016/3/21(月) 午前 4:56 [ pur*cy*ka20*7 ] 返信する

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明治初年の時期には「中央政府レベルでは鬱陵島を江戸時代以来の名称たる竹島と呼び習わしていた」というのは立証できないでしょうね。「中央政府レベルでは・・・・・」の前には「明治10年太政官指令にも明らかなように、」という言葉もあります。太政官指令を間違って解釈しているために、それがほかの考察にも影響しているものと思われます。

2016/3/21(月) 午後 6:34 [ Chaamiey ] 返信する

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うわあ、池内氏ですら言ってないことを・・。困ったことに竹島=今領土問題が起きているそれと決めてかかった史料解説をしている本はわりとありますよ。中学生のころ手に取った世界各地の紛争解説本(タイトル失念)に竹島問題も載っていて数ページが割かれていましたが、似たようなことが書いていました。当時の私は「ふーんそんなものか」と特に疑問も持たずに読んでました。もっと江戸時代の竹島/松島=ウルルン島/現竹島、江戸時代末期~明治初期の竹島/松島=アルゴノート島/ウルルン島というのが知れわたって欲しいですね。

2016/3/21(月) 午後 7:17 [ h2b ] 返信する

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島名の変遷:竹島鬱陵島→(竹島とも松島とも)→松島。旧松島→(リャンコ島など)→新竹島(1905年)。h2bさんも触れていますが、単純に入れ替わったのではなく、(江戸時代末期~明治初期)の島名及びその位置の特定が混乱した時期を考慮すべきですよね。

ちょっとだけ勉強した人たち(主に一般の方)は、前近代の江戸時代は、鬱陵島は→竹島、いまの竹島は→松島だという知識だけはありますので、短絡的に考えて判断しがちです。さもありなんです(自分Gも最初はそう判断していました)。それは重大な誤解なのですが、その陥りやすい短絡的な誤解を、自分たちの根拠として利用する立場の人たちもいますので、議論が混乱しているように見えるのでしょう(笑)。実は議論は、混乱などしていないのですが。

2016/3/21(月) 午後 8:44 [ gku***** ] 返信する

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そうですね、「竹島」という名前は、(1)最初は鬱陵島のことであり、(2)アルゴノート島にジャンプし、(3)姿を消し、(4)今の竹島の名前として復活した。忍者みたいです。重要なことは、アルゴノートの時代があったということです。そして、それがいつまで続いたか、ということです。

2016/3/21(月) 午後 10:03 [ Chaamiey ] 返信する

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同様に、「松島」という名前は(1)最初は旧松島のことであり、(2)ダジュレー島にジャンプし、(3)鬱陵島は、天城艦の調査で”松島”に確定した。(4)↑(3)で竹島が姿を消したので、それまでこの島は正式島名(通称リャンコ島など)がなかったので、これを竹島と命名して復活(1905年)。

ですかね。この新竹島命名・編入時は、なぜ竹島名称が姿を消したのか!?検証されていません(隠岐島司乙庶第一五二号)。まぁー当時は、このことが戦後大問題になるとは、夢にも思わなかったのでしょうね。

2016/3/22(火) 午後 10:20 [ gku***** ] 返信する

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