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沖縄戦「捨て石では無かった日本の総力戦」

第32軍の参謀が軍人として「捨て石」となる覚悟を決めて発した言葉を戦後に悪用し、沖縄戦は政府の画策による捨て石作戦であったと流布する左翼。戦史を俯瞰して見ると沖縄戦は決して事前に企図された捨て石戦術ではなかった。

「沖縄は捨て石にされた」というのは結果論で、正確には「大本営の失策により捨て石と化してしまった」と言ったところだろうか。南西諸島方面防衛強化のために第32軍が創設されたのは昭和19年3月であり、それまで南西諸島の地上兵力は皆無に近かった事実を前提に沖縄戦について述べてみたい。

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あまり知られていないことだが、日本陸軍が沖縄本島に兵力を初めて配備したのは明治でも大正でもなく真珠湾攻撃の半年前の昭和15年10月。中城湾に100名規模の守備隊を置いたのが始まり。昭和16年9月6日に帝国国策遂行要領が決定されると中城湾要塞の要塞部隊の動員・臨時編成が下令された。

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沖縄守備隊の第32軍は、昭和19年3月22日、大本営直属の部隊として南西諸島防衛のため設立されたが、穀物がほとんど生産されない人口40万程の沖縄県に10万人規模の兵力展開をしたことにより、沖縄では食糧不足が発生する事態となった。政府がこの地域をどれだけ重要視していたか理解できる。

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平時に軍事力ゼロだった地域に大本営直轄軍10万人の投入の警備体制。なにが「見捨てられて捨て石」なのか自分にはさっぱり理解できないのだが、兵站を考えると1名6kgの補給として日量600トン。第9師団が転出したとはいえ、昭和20年に入るとほとんど途絶した補給体制であったことになる。

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大本営は米軍の侵攻先を「台湾」と見ていた。事実、米側では台湾侵攻作戦が昭和19年初頭の段階で米統合参謀本部で決定済みであった。侵攻先が台湾から沖縄に作戦変更されたのは同年10月。言うまでもないが、台湾も沖縄も等しく皇土であり、絶対に敵に侵攻させないというのが大本営の考えであった。

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「捨て石」という言葉を最初に使ったのは第32軍の長勇参謀長とされているが、その思いに至った直接原因は第10方面軍内での第32軍主力の第9師団の台湾転出決定と見ていいだろう。大本営は台湾侵攻の備えとしたのだが、本土からの代替師団の増備要請も却下されたことに失望したのかも知れない。

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第9師団の台湾転出命令は昭和19年11月17日、転出は年末に行われた。この時点で米軍は「台湾は通過、沖縄に上陸」と作戦を変更決定していた。この頃の日本南方海域周辺の制空、制海権は確保できておらず、本土からの増援部隊送出ができなかったことは常識として踏まえておきたい。

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第9師団は現役兵だけで構成された精鋭部隊で沖縄戦の主力になっていたかも知れないが、米側総兵力は54万人、上陸部隊は18万3000人、艦艇1500隻であり、第9師団が残置され、参戦していても2週間程度持久戦闘期間が伸びた程度であっただろうという戦史家もいるが実際の所はわからない。

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この陸軍精鋭の第9師団なのだが、皮肉なことに大戦中を通じて一度も敵と交戦していないのだ。長勇参謀長が「捨て石となる覚悟を決めて」発した言葉が戦後に左に悪用されて、あたかも当初から政府が捨て石としようと企図したような誤解を生んでいるのだが、自分は違うと考えている。

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捨て石論者は離島の沖縄県にどれだけの戦力を配置していれば満足なのか理解できないが、制海権・制空権が無く、補給が難しい状況下でさらに数個師団を増強して方面軍規模の編成をしていれば、戦う前に軍民共に餓死していた結果となる。戦争は兵隊だけで行う物ではないのだがバカ左翼には理解できない。

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【第10方面軍】司令部 台北 終戦時、この地域の第10方面軍だけで7個師団、10個旅団が健在であった。沖縄守備部隊兵力の4倍。沖縄地上戦で多大な損害を出したアメリカ軍が沖縄戦で得た教訓から日本本土での地上決戦を躊躇ったのは容易に想像できる。

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敗戦が誰の目からも濃厚となった昭和20年に1月「皇土、特に帝国本土の確保」を最重要視するように帝国陸海軍作戦大綱が出される。左は「ほら見てみろ」とこれを援用するのだが、この時点では日本全土の各都市は各地で焼け野原になっており、敗戦濃厚のこの時点ではあたり前の大綱内容である。

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沖縄戦が始まったのは昭和20年3月26日とされているが、3月13日深夜、大阪にはB-29爆撃機274機が襲来、深夜に3時間にわたる苛烈な爆撃が行われた。画像は直後の大阪・心斎橋、そごう大阪本店付近。この日の死者だけで3987名。戦争は沖縄だけで行われていたのではない。 ※株式会社そごう社史 1969年

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沖縄戦の始まる前の3月10日、神田駅付近上空から見た江東区方向。この日の空襲だけで死者10万人、被災者100万人と言われている。捨て石? 何が捨て石? この時点での日本は捨てるも拾うも無い状況。しつこいようだが戦争は沖縄だけで行われたのではなく総力戦であった。 ※米軍機による撮影

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時系列を追えば何もおかしくないのだが、そこをはぐらかす左の論調は何度も見てきた。「沖縄戦について所感を述べよ」と言われれば不本意だが以上に述べたことになるのだが、何度も言うが自分は沖縄で戦ったすべての先達日本国民への感謝の気持ちと哀悼の念だけを大切にしたい。

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戦艦大和には、沖縄女性のために美顔クリーム25万人分、メンスバンド(生理用品)15万人分までもが積載されていました。海上特攻と銘打って決死の覚悟で出港した大和にです。これでも沖縄は捨て石だったのでしょうか。左はともかく、ねじ曲げられた教育を受けた沖縄県民にも知って欲しい事実です。

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沖縄独立派の人間が国連で言いたい放題。日本は講和条約で沖縄をアメリカ合衆国の信託統治領とする同国の提案があれば同意するとしましたが、広義の無条件降伏であったのでそうなったのであり、国民も政府も沖縄を一度も植民地だと考えたことはない。

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もし日本が沖縄を植民地と考えていたのなら、当然沖縄を放棄して防衛線を鹿児島にしていた。大日本帝国陸海軍がなぜ総力で沖縄特攻防衛をしたのか、本土の17歳の少年がなぜ沖縄で特攻死しているのか、沖縄独立論者はもっと史実を勉強しなさい。

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沖縄地上戦には「日本ほぼ全県出身者の慰霊碑がある」と言われるように、日本各地の部隊が投入されていました。捨て石なら現地沖縄召集のみの守備隊を残し、当初から見捨てていたはずです。 ※太田実少将の昭和20年6月6日付け電文

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沖縄県民斯く戦えり。  県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを。 ※1945年6月13日 太田実少将は豊見城の海軍壕にて自決

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沖縄地上戦 本土出身戦没者77402名の慰霊碑が沖縄にあります。それが事実。戦後に左傾した人々や政党機関紙レベルの新聞に毒された人々の話もあるだろう。大いに語ればいい。自分は沖縄県民と共に77402名の本土出身者が亡くなっている事実のみを大切にする。それ以上でも以下でもない。

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沖縄地上戦には日本全国各地の出身兵が参戦し、多くの戦死者を出していることを後世に正しく伝えるべきです。県民も決死の覚悟で沖縄を死守しようとしたし、現地陸海軍将兵も同じ。大本営の作戦が非難されることがあっても、意図的な本土と沖縄の対立構図に悪用されるのは絶対におかしい。

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『沖縄で騒がれ出した「独立論」の正体』 仲新城誠(八重山日報編集長) 『月刊正論』 2015年4月号

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「沖縄作戦は攻撃側にとってもまことに高価なものだった。約13000名の米兵が戦死したが、その内3400名が海兵隊で4000名が海軍だった。艦隊における死傷者の大部分は日本機、主として特攻機により生じたものである」 アメリカ太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ

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沖縄戦でアメリカ側に発生した戦闘神経症患者は26211名。5倍の兵力で上陸作戦を実施したものの、沖縄守備部隊と沖縄県民の決死の猛反撃と航空特攻により精神に異常をきたしたアメリカ兵が続出した。日本軍への認識の変化は戦史でも確認できる。

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【戦闘神経症】症状としては、感覚麻痺、運動麻痺、涕泣、緘黙、パニック障害、精神錯乱、失禁など。機関銃を乱射する等の異常行動もみられる。 沖縄戦を経験した米陸軍小隊長が新兵に対して放った言葉 『「日本兵を大したことがない」なんて抜かす奴がいたら俺が撃ち殺してやる』 ※James H. Hallas

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菊水作戦で日本が撃破した連合国側の正規空母は次の通り。 イントレピッド フォーミダブル インドミタブル ヴィクトリアス バンカーヒル エンタープライズ 大戦末期、これらの空母が修理回航されず、本土が艦載機により攻撃されていたなら、その戦没者の子孫は現在に存在すらしていないことになる。

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1945年5月4日、沖縄戦初期の強襲作戦に投入されていた護衛空母「サンガモン」(Sangamon, CVE-26)に特攻機が突入。サンガモンは大破回航され終戦を迎えた。特攻という戦術が美化されることに自分は反対だが、この米空母の戦列離脱でどれだけの沖縄県民の命が救われたか、左は結果を語ろうとしない。

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帝国陸軍特攻「誠」第百十九飛行隊 このうち10人は18歳、19歳。4人は学徒出陣の大学生。 この1時間半後に彼らは沖縄の海に散華しました。 彼らが沖縄を死守するために命を投げ出したことを少しでも多くの人々に知っていただきたい。

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【義烈空挺隊】敵占領地の飛行場に強行着陸して破壊する特殊作戦部隊。沖縄へは昭和20年5月24日、第三独立飛行隊所属の12機の九七式重爆撃機が陸軍熊本健軍飛行場を出撃、嘉手納飛行場と読谷飛行場に攻撃を行ったが結果は12機中、1機突入成功、4機突入断念、7機被撃墜、168名中99名戦死であった。

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予想外の夜間強襲コマンド攻撃を受けた読谷飛行場は大混乱に陥ったことがアメリカ側戦史にも残されている。沖縄捨て石論者は動画を見て99名の戦死者に懺悔して欲しい。捨て石どころか、石を拾いに行った強行決死作戦であった。 ※義烈空挺隊強行着陸時の読谷飛行場の猛烈な対空砲火

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