太平洋戦争前にフィリピンへ渡った沖縄出身男性と現地の日系人女性との間に生まれたフィリピン残留日本人、冨里ゼナイダスミコさん(78)が25日、亡き父の古里・沖縄の地を初めて踏んだ。戦時中に父と離別したゼナイダさんは、うるま市津堅島への墓参りを強く希望していた。「ここに来られたのは亡き父からの贈り物。父の写真や墓を見ることができれば何も望むことはない」と涙を拭った。

親族の出迎えを受け笑顔を見せる冨里ゼナイダスミコさん(右)=25日午後4時半すぎ、那覇空港(金城健太撮影)

県産食材や各地域のスーパーフードとのコラボで、新たな味の展開が計画されている泡盛ベーグル(プルアラウンド提供)

親族の出迎えを受け涙を浮かべる冨里ゼナイダスミコさん(左から2人目)。右は弟の冨里利雄さん=25日午後4時半すぎ、那覇空港(金城健太撮影)

親族の出迎えを受け笑顔を見せる冨里ゼナイダスミコさん(右)=25日午後4時半すぎ、那覇空港(金城健太撮影)

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県産食材や各地域のスーパーフードとのコラボで、新たな味の展開が計画されている泡盛ベーグル(プルアラウンド提供) 親族の出迎えを受け涙を浮かべる冨里ゼナイダスミコさん(左から2人目)。右は弟の冨里利雄さん=25日午後4時半すぎ、那覇空港(金城健太撮影) 親族の出迎えを受け笑顔を見せる冨里ゼナイダスミコさん(右)=25日午後4時半すぎ、那覇空港(金城健太撮影)

 ゼナイダさんは津堅島出身の故冨里清繁さんと日系2世の女性の長女としてフィリピンで生まれた。太平洋戦争を機に清繁さんは日本へ強制帰国。母は間もなく亡くなり、幼くして残留孤児となった。

 戦後は親戚の家事手伝いで生活をつなぎ、ある日、伯母が保管していた母と自身の出生証明書を発見した。父が「冨里山戸」(清繁さんの幼名)、自身の日本名が「スミコ」であることを知った。

 フィリピン残留孤児の日本国籍取得を支援するNPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンターの調査で2007年、清繁さんが1996年に亡くなっていたことが分かった。

 沖縄の親族との初対面が実現したのは戦後70年の2015年。うるま市に住む異母弟の冨里利雄さん(71)が日本国籍を取得したゼナイダさんの存在を新聞報道で知り、同年9月にフィリピン・リサール州を訪れた。

 今年4月にも現地を訪問し、今回の来沖に向けて調整してきた利雄さん。この日、妻の春枝さんと那覇空港国際線の到着口でゼナイダさんを出迎え「津堅島では多くの親族が待っている。父の墓参りを終えたら本島観光に連れて行きたい」と再会を喜んだ。

 ゼナイダさんの孫でマニラから同行したイマリさん(17)は「おばあちゃんの願いがかなえられてうれしい」と笑顔。長旅の疲れを感じさせない元気な姿を見せたゼナイダさんは「父は79歳で亡くなったと聞いている。同じ年齢を迎える前に来られて感謝している」と語った。

 ゼナイダさんは26日に津堅島へ渡り、父の実家を訪問。29日にフィリピンへ帰国する。