ダ・ヴィンチ・恐山批判
熊の一件は正直どうでもいいし、詳細も知らない。また僕は、インターネットの皮肉屋さんなんか嫌いだし、ドグマティックで一面的な見方しかできないバカな活動家も同じくらい嫌いである。だから、本稿における僕の立場は、それらのうちのどちらに与するのでもない。
そういうことをまず断っておいた上で、僕は恐山を批判する。直截に動機を述べれば、好きな人がバカみたいなことを言っているのは、見ていて悲しいから批判する。もう幻滅したくないから批判する。ヌートン?のミニーちゃんの記事はたしかに面白かったし、かなり笑いました。
批判するのはこの投稿である。内容についての説明は不要なので割愛する(書いた本人はわかってるだろうし、これから書くことは恐山にだけ伝わればそれでいいから)。
恐山は言っている。
しかしながら、クマの射殺に苦言を呈している人たち(愛護クラスタ)がみな、クマの危険性を甘く見ているわけでもないだろう。今回の射殺について批判するとしても、論点はいくつかあるはずだ。
しかしそれは、かれらがクマの獰猛性を甘く見ていることとイコールではない。だから「自分で飼え」という応答は、皮肉としても芯を食っていない。
一見して明らかなように、これらは別に「クマの獰猛性を甘く見ている人間」が“まったく存在しない”と言っているわけではないし、また恐山はそんなこと証明していないし、さらに言えば証明しようと思ってもできることではない(恐山はツイート内ではなぜか「動物愛護派も「クマが危険」と承知しているのは明白なんだから〜」と言っているが、これは恐山の主観的な判断であって特に調査したわけでもなければ、根拠があるわけではない)。
さて、とすれば(クマの獰猛性を甘く見ているバカな人間は)「存在するかもしれないし、しないかもしれない」と見るのが妥当であって、であれば、インターネットの皮肉屋さんたちの言動を「皮肉としても芯を食っていない」とまで言い切ることはできないはずだ。繰り返しになるが、恐山は“とんでもないバカ”の不在を立証したわけではない。だから、インターネットの皮肉屋さんたちが、世界には“とんでもないバカ”が存在するかもしれず、リプライでのやり取りを見ているかもしれない、と想定して(念のために)例の皮肉を言うことは全く何らの問題もないし、皮肉屋さんたちによって想定された対象を考え合わせれば、バッチリ芯を食った皮肉であるとさえ言えるのだ。
ただし、もちろん以上のような指摘は恐山の論旨から考えれば些事だ。たぶん恐山が言いたいのは「批判者の知的水準を高めに見積もっておいた方が失礼がないし、議論として建設的だし、議論として建設的にならないにしても自分を利する場合が多いよ」ってことである。もっと噛み砕いて言うと、つまり、状況に対して皮肉が適切であるか/適切でないかってことは恐山にとってどうでもよく、ここでは端的に「皮肉とか喧嘩腰で議論に臨むのってどうなの?」ってことが言われているのだ。
なるほど「喧嘩腰にならないこと」とか「相手に対する敬意を忘れないこと」とか「皮肉を使わないこと」は、議論のルールとしてのみならず、凡庸な処世訓とかコミュニケーション術としてもなかなか説得力がある。話せばわかる人間は、当然のことながらーー話せばわかる。話せばわかる相手には、怒鳴ったり当て擦りをやったりするよりは、普通に懇切丁寧に説得した方が余計な感情(怒りとか)を喚起しないぶん誤解が少なく済む。以上、まったく自明である。そりゃそうだとしか言いようがない。
しかし、その「話せばわかる人間」は世の中にどれくらいいるのだろうか。恐山は言っている。
最近の私は、どんな喧嘩腰や皮肉交じりの反論が来ても(真面目に返答しようと思っているときは)その部分を聞かなかったことにして、なるべく相手の理屈が通るように再解釈してから、普通の温度で返答するようにしている。すると、意外にも普通に丁寧な返事が返ってくることが多い。おもしろい意見が聞けることも多い。
統計をとっているなら具体的な調査方法と結果を明らかにした方がいいと思う。もしとってないなら彼の言う「〜ことが多い(と思う)」は気のせいだ。ここで恐山がやっているのはバイアスがバリバリにかかった“個人的経験”の一般化であり、それは大雑把に物事を考える人たちが言う「晴れ女」とか「晴れ男」と同じぐらい信憑性を欠いている。
先の引用内の恐山の経験から言えるのは、せいぜい「話せばわかるやつもいれば、わからないやつもいる。私の数少ない経験から言えばなんとなく前者の方が多いような気がするが、本当のことはわからない」程度の頼りない結論だけであろう。
とは言え、恐山がこの「晴れ女・晴れ男」的発想を論理度外視で頑なに信じ、とにかく誰がなんと言おうが誰に対しても真摯に誠実に対応するというのであれば、それはもう好きにしたらいいと思う。また、僕にとっては極めて不愉快なことだが、きっとそれはある程度の効果を上げるとも思う。
効果とは具体的に言えば、「ダ・ヴィンチ・恐山」が、落合陽一とか宇野常寛とか東浩紀とかはあちゅう?とか芸人の西野みたいなバカのゴミクズどもと同じようにオンラインサロンを作って、自分の周りに「話せばわかる」人々だけを集め、お仲間同士で和気藹々「いやはやさすがに恐山さんは正しい!」「いえいえ!これが理解できるアナタも私とおんなじぐらい正しいですよ!」みたいなキモいやり取りができるようになり、なおかつ、取り巻きからの上納金で楽々生活ができるようになるってことを意味している。
ところで、言うも愚かしい当たり前のことだが「話せばわかるやつ」だけを選んで生活空間・言論空間を構築すれば、恐山の周りには「話せばわかるやつ」しかいなくなる。ちなみに誤解のないように付言しておくと、ここで選良を行うのは恐山自身ではなく、恐山の読者・フォロワーたちである。恐山の周りに集まることを選択した彼らは、ちょうど鏡がそうするみたいに、真摯で誠実な恐山の姿をうつす。恐山が真摯に喋れば、彼らもまた真摯に応える。
だが、その一方で、単に自分の意見を通したいだけの人間、自分の主張はしたいが他人の主張は聞きたくもない人間、射精の4倍は気持ちいい「はい論破!」が言いたいだけの人間は恐山のもとを去っていく(あるいは最初から見向きもしない)。つまり彼らは、自ら選んで選良から除外される(対話とは協働である。対話の片一方がそもそも対話を望まないのなら、片一方がいくら言葉尽くそうが真摯であろうが、そんなものは空虚な駄弁に過ぎないのだ)。
では、彼らはどこに行くのか?それはバカクソ簡単なことで、サロンやサロンに似たモノなんていまどき山ほどあるし、なんなら自分で作ることもできるんだから、彼らは自分の性分に合った別のサロンに行くのだ。それは具体的に言えば強硬派の動物愛護団体かもしれないし、武闘派の自然保護団体かもしれないし、ゴリゴリのテロ組織かもしれないし、カルト教団かもしれない。
で、ここからがいっとう重要なことだが、ダ・ヴィンチ・恐山は、彼らのような「話してもわからないし、そもそも話す気もない奴ら」を一体どうするつもりなんだろうか。もしかして、東浩紀がTwitterでやってるみたいに、見つけ次第ちまちまブロックするのだろうか?まぁ、たぶんそうだろう。
実際、説得を試みた相手が意見を改めてくれることは稀である。どうせ他人の意見なんか変わらないんだから、イデオロギーの断絶を極限まで深めて、互いに別世界の住人として生きていくのも、それはそれでアリだろう。
「それはそれでアリ」なんてことは言わないで欲しかった。この部分は明らかに、恐山の思考の浅さ、スケールの矮小さを表している。彼にこんな呼称を使うのは個人的にかなり嫌だが、あえて言えば、彼のインターネットご意見番としての限界を示している。
だって、アリなわけがねえから。普通に考えて「それはそれでアリ」なわけがない。恐山はカルト宗教のイデオロギーと恐山自身のイデオロギーを紙の上やネット上で区分けすることはできても、敵対者から断絶された別世界の住人として生きていくことなんかまずできっこない。
別にオウム真理教のTwitterアカウントをブロックしたところで、地下鉄構内のサリンを吸わなくて済むようになるわけではないし、飯塚何某のFacebookアカウントをブロックすることは、彼の車に轢き殺されないことを保証してくれるわけではないし、また、太平洋戦争は“戦争好き”イデオロギーの国民を中心とした任意参加の戦争ではなかった。
現実的な、まともな身体感覚があれば「互いに別世界の住人として生きていくのも、それはそれでアリだろう」なんてことが言えるわけがない。そんなことが言えるのは、避客牌が不思議な結界としての効力を持つ世界、要するに気軽にブロックができる世界、つまり生温くてだだっ広くて、いつでもどこかへ逃げ出せる、インターネットの世界で思考している人間だけである。
だが無論、僕は恐山のこんな言葉を見落としているわけではない。
しかし本当にそれが最後の答えなんだろうか。
この気付きは歓迎すべきものだが、同時に落胆を誘うものでもある。バカバカしくインターネット的な「人それぞれ」からの恐山の脱出は喜ばしい。しかし、言いたいことを言うだけの無力なご意見番は、これ以上いらない。
誰も聞き入れてくれなくても、少なくとも自分自身はさまざまな意見を内部に取り込める。
今のところ、私はまだその可能性を手放したくはない。
恐山本人や、恐山の周りの少数のフォロワーが多角的な視座を、あるいはなんらかの真理めいたものを手にしたって、そんなもの何にもならないのだ。フォロワーの外にいる狂信者たちを悉く目覚めさせ、悉く従わせるのでなければ、真理はサロンや個人内部の擬制に過ぎないのだ。
あなたが無力なソクラテスになりたいなら、僕は止めない。サロンなんかいくらでも作ればいいし、noteで小銭を稼げばいい。選良のなかで褒められて、それでいい気になっていればいい。そして来たるべき時には、貧弱なフォロワーたちに惜しまれながら、毒を飲め。首を傾げ、不服そうな顔で、熟考とは程遠い痴愚の暴力に殺されろ。
運が良ければ、あんたが死んだ後、明日か明後日か百年後か二百年後か一千年後か、あんたの正しさは認めてもらえるかもしれない。その時まで、あんたじゃない別の誰かが世界のパワーバランスを変えてくれるのを、惨めにお祈りしているがいい。
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