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【神奈川】

横浜大空襲「死ぬまで伝える」 15歳で遭遇 88歳・中島さん

横浜大空襲の体験を話す中島さん=藤沢市で

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 推定約八千人の死者を出した横浜大空襲から二十九日で七十四年が経過する。十五歳の時に遭遇した中島知子さん(88)は近しい人を失うような経験はしなかったものの空襲後、母親と離ればなれの生活を強いられた。「いかに過酷だったかを知り、いざという時、多くの人が『戦争はやめよう』と声を上げられるように」と講演などで体験を語っている。 (福浦未乃理)

 一歳の時に父を亡くした中島さんは母シゲさんと二人、東京・品川の母方の祖母宅で暮らしていた。女学校に進学して間もなく戦況が怪しくなり、戦車の通り道になるからと、家を立ち退くよう軍から命令された。横浜市神奈川区桐畑にあったシゲさんの知人の家に間借りし、二人で暮らすようになったのは空襲の半年前だった。

 一九四五年五月二十九日朝、シゲさんが仕事に出かけ、自分も女学校に行くため家を出ようとした時、空襲警報が鳴り響いた。上空を米軍のB29爆撃機が埋め尽くし、死を覚悟した。それでも「お母さんに会うまで死ねない」と空から焼夷弾(しょういだん)が次々に落ちてくる中、家を飛び出した。

 人が集まっている丘に着いた頃、周りが静かになり、空襲が終わったと悟った。至る所に死体が転がり、様変わりした街を歩き、焼け落ちた家の前に戻った。「お母さん」と大声で泣き叫んでいると、背中から「ともちゃん!」と呼ぶシゲさんの声がした。きつく、抱き締め合った。

 しかし、一緒には暮らせなくなった。頼った秋田県の親戚は二人の面倒を見る余裕がなく、シゲさんは横浜に残った。親戚宅では肩身が狭く、「戦争がなければ、東京で幸せに暮らしていたはず」と振り返る。

 戦後、看護師になった中島さんは五八年、最後の引き揚げ船「白山丸」に乗船。頼る当てもなく帰国する人たちを見て、「この先どうするんだろう」と自分の過去と重ねた。

 二十七歳の時に結婚して三人の子を授かり、七人の孫にも恵まれた。その後、秋田県で寮母をするようになったシゲさんとは年に一回ほど会い、八二年に藤沢市の自宅に呼び寄せ、八八年に八十五歳で亡くなるまで一緒に暮らした。

 中島さんが体験を話し始めたのは四年前。自分以上につらい思いをした人を差し置いて語るのがはばかられていたが、「身をもって知る人がどんどん世を去っていく。黙っていたら次の世代に伝わらない」と考えるようになった。

 「地震や津波は防げなくても、戦争は違う。わずかな人間が決めたことで、どれだけの人が傷ついたか。死ぬまで伝えていく。それが戦争を知る私の務めだから」

     ◇

 中島さんらが講演する「5・29横浜大空襲祈念のつどい」が二十九日午後二時~四時五十分、横浜市中区のにぎわい座で開かれる。資料代五百円。問い合わせは横浜の空襲を記録する会=電090(8303)7221=へ。

<横浜大空襲> 1945(昭和20)年5月29日午前9時22分から10時半にかけ、米軍のB29爆撃機517機とP51戦闘機100機が44万個の焼夷弾(しょういだん)を落とした。当時の警察発表によると、市内の死者は3649人、負傷者1万197人、行方不明者300人。その後の研究では、死者は推定8000人に上る。

 

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