判決書で、幕府は、八右衛門が「最寄松島へ渡航する名目で竹島を調査し、確実に利益となるならば、方法もある旨秋斉(家老岡田頼母)及び松井図書も承知している事を三郎兵衛から聞いて」不法行為を実行した、という事実認定を行っています。 浜田藩の家老ほか一名は「最寄松島へ渡航する名目」が成立する、つまり松島は渡海が禁止されてはいないと認識していたわけです。ただ、幕府がその名目について何と考えていたのかは、この判決からは良く分からないですね。判決のこの部分はただそういう会話が行われたことを認定しただけですから。 まあ、しかし、元禄竹島渡海禁止令の文面に竹島のことしか書かれていない以上は、禁令のことが話として伝えられる場合、「竹島(のみ)への渡海禁止」として理解されて言い伝えられるのは当然でしょうね。家老たちの認識は、元禄竹島渡海禁止令の一般的な受け止め方はそういうものであったことを示す一例と言えるでしょう。幕府の気持ちは松島渡海も禁止する趣旨だったなどと主張する人は多いわけですが、書いてなければそんな趣旨は伝わって行かないのです。一般に伝わらないことが趣旨として含まれていると解釈するのは自説に都合の良すぎる解釈です。 竹島方角図 天保竹島一件が竹島問題において取り上げられる理由の二つめは、幕府が八右衛門を取り調べる過程で八右衛門の説明をもとに作成されたと思われる地図「竹島方角図」があるためで、この地図では竹島と松島が共に朝鮮と同じ赤色で着色されているので、これは元禄竹島渡海禁止令が竹島と松島を渡海禁止としていたことの証明だ、という類の議論があります。 竹島方角図 幕府が作成した竹島方角図から幕府が竹島と松島は朝鮮領と判断していたのは明らかだと主張する半月城氏の論文「江戸時代の竹島=独島での漁業と領有権問題」 http://www.kr-jp.net/ronbun/park/park-1203.pdf#search='%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E6%96%B9%E8%A7%92%E5%9B%B3' ここでは別の竹島方角図も紹介されていて、それによれば全体が赤と黄色に塗り分けられています。 天保竹島一件に関する慶尚北道の主張 韓国側では、当然、松島が赤く塗られているのは幕府が松島も朝鮮領と見ていたからだと言うわけですが、これに対して、上の方の地図についてですが、「赤く色づけされた場所は、朝鮮・竹島・松島・釜山だけでなく、江崎・萩・下関・対馬などが色づけされています。これは、八右衛門が竹島の位置を説明し、自分の活動を説明するのに必要な地名を赤く色づけしたと解するのが、普通の解釈です。」という意見もあります。 「八右衛門の地図を比較する」 まあ、誰がどういう意図で着色したのか分からないので、何とも言えないところです。 ただし、当時の幕府の実情は次のようなものでした。
イ・フンが発掘し(注9)池内敏が再解釈した(注10) 宗家文書によれば、江戸幕府は、「天保竹島渡海一件」に関連して1836年7月17日に対馬藩の江戸藩邸を呼んで竹島・松島に関して「二つの島はいずれも朝鮮の鬱陵島であるか、あるいは竹島は鬱陵島で松島というのは朝鮮外の地なのか」などを質問した。これに対し、対馬藩は、(1)竹島は江原道の鬱陵島であり、(2)元禄期に対馬藩が幕府の質問に対して「竹島の近くに松島という島があって、そこにも渡って行って漁業をしたというのが民たちの風説です。」と回答したことを説明し、(3)松島も「竹島と同じく日本人が渡って行って漁業をしたことに関して渡海が停止された島だと考えられますが、これを断定することに関しては回答できません。(注11)」と回答した。 (「近代期の独島の領有権問題―新しい資料と研究を中心に―」朴炳渉(日本竹島=獨島問題研究所代表) 嶺南大学独島研究所『獨島研究』第12号(2012.6.30) p157) 幕府が「二つの島はいずれも朝鮮の鬱陵島であるか、あるいは竹島は鬱陵島で松島というのは朝鮮外の地なのか」と尋ねたということは、幕府は、竹島は朝鮮の鬱陵島だということはちゃんと分かっているわけですが、松島については、ハッキリ言って何も知らないのです。松島は日本領だとか朝鮮領だとかいう認識は何もありませんね。元禄の竹島渡海禁止令が松島への渡航も禁止するものだったというならば、そういう考えは引き継がれて来たはずでしょうが、そういうことはなかったのです。元禄の竹島渡海禁止令は文字どおり竹島への渡海禁止令だったから、そういう知識だけが受け継がれて来たのです。松島は中央政府からは「忘れられた存在」になっていたというのが実情でしょう。 (続く) |
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>当時の幕府の実情・・以下の(注9~11)のところですが、幕府自体は継続性のある政治(現在の政府・外務省のように)はしていない。近世という時代と武家政権の限界でしょう。対馬藩は、現在でいえば外務省朝鮮局(対朝鮮外交使節)だったのでしょう。対馬藩の方が対朝鮮事項は専門的には詳しかったことが伺えます。
(注11)の見解も対馬藩の解釈としてはあった。リンク先半月城氏論文は、その対馬藩の文書(対馬及び釜山倭館か!?)を佐田・森山らが調査して、受け継いで外務省本省に報告した(明治3年1870年・翌4年対馬藩解体)、という風に半月城氏の説明では天保時と明治初期の点と線は一応繋がりますが。
2016/2/28(日) 午後 4:46 [ gku***** ] 返信する
一応つながってはいるのでしょうね。ただし、それは、竹島と松島という名前で把握される観念的な存在としてであって、竹島と松島が具体的にどの位置にある島なのかということは、まだ誰も分からなかった、ということですね。
2016/2/29(月) 午前 8:53 [ Chaamiey ] 返信する
リンク先(半月城氏の「新しい資料」)7結び<の第一段落の部分はそのとおりでしょう。日本側に属島的認識があったことまでは賛成できますが、最後の結論部分の3行>・・竹島と松島を朝鮮領土と認識した江戸幕府の認識を受け継いだことになる。<には、Gとしてはまったく賛成できません(笑)。
上記本文(注11)で、幕府下請け!?対朝鮮外交部局対馬藩が”断定できない”と言っていますのでそれ以上でも(それ以下でも)ありません。半月城氏結論は、拡大解釈でしょう。
2016/2/29(月) 午後 7:38 [ gku***** ] 返信する
記録に「断定できない」とあるのですからそのとおりに理解するしかないはずですけどね。どうしても自説に有利なように解釈したい人はいるものです。
2016/2/29(月) 午後 9:06 [ Chaamiey ] 返信する