天保竹島一件 天保竹島一件は、浜田藩の町人今津屋八右衛門という人物が、渡航が禁止されていた竹島(鬱陵島)に天保4年(1833年)に密かに行って材木などを収穫して来たことが3年後の天保7年に発覚して、本人や支援者である浜田藩の関係者が幕府から死罪その他の処分を受けた事件で、その結果として幕府は初めて「竹島(鬱陵島)には渡航禁止」という禁令を全国に周知しました。 事件の経緯について次のような説明があります。 天保4(1833)年、浜田の八右衛門なる人物が自分の持ち船で竹島、松島近くを通って越後方面へ物資を運搬する間に、竹島の豊かな物産に心を動かされました。浜田藩家老岡田頼母(おかだたのも)等に藩財政救済をめざす行動として松島への渡海と偽って竹島への上陸を決行しました。隠岐からの出発で、従来は天保4年一度の行為と考えられていましたが、海士(現在の島根県隠岐郡海士町)の渡部円太夫なる人物が天保4、5、6年隠岐に八右衛門が来たと書いていますので複数回の竹島渡海が推測されます。八右衛門の行動はまもなく露見するところとなり、天保7年大坂奉行所に逮捕され尋問されることになりました。地元の浜田藩では証拠隠滅と自分の責任を痛感した家老岡田頼母等が切腹し、関係者が次々逮捕され、八右衛門も江戸へ移され厳しい取り調べの後処刑されました。最終的な責任は浜田藩主松平周防守家にもおよび、浜田から棚倉(たなくら、現在の福島県)にお国替えとなりました。この一連の出来事を「天保竹島一件」といいます。 (杉原通信 第6回 渡海禁止後の竹島(鬱陵島)) ゲリー・ビーバーズ氏のブログでの議論 (英語版)1836 - Japanese Man Executed forSailing to Ulleungdo (日本語版)1836年 - 会津屋八右衛門による竹嶋一件と「竹嶋渡海一件記 全」 (なお、ここでは「会津屋」と書いてありますが、近年、これは「今津屋」ではないかとの見解が有力になったようで、今では「今津屋」という人が多いようです。) 竹島問題において天保竹島一件が取り上げられる理由はいくつかありますが、一つは、関係記録の中に、当事者たちの発言として「松島へ行くことは禁じられていない」と理解できそうな言葉があることです。これは、おそらく、元禄竹島一件の結果としての元禄竹島渡海禁止令が、明文では竹島(鬱陵島)のみへの渡海を禁止しているもののその実質は松島への渡海も禁止されたのだという主張があるので、それに対して、いやこのとおり松島への渡海は禁止されていなかったではないかという反論として引用されるのだと思います。 この件については、まず八右衛門の供述の中に次のような言葉があります。 「同月十八日江戸詰荻右衛門方より私へ向書状至来、文面之趣意者竹嶋之儀者日出之地共難差極候付渡海目論見相止可申段申来候付、其節始而右之次第承案外之至ニ而志願空敷相成残念ニ存、即日三兵衛方へ右来状持参いたし頼母方勘弁之儀相頼置、其後様子尋ニ罷越候処、右様江戸表より申来候上は竹嶋之方相止松嶋之方渡海いたし試可申分被仰聞候趣三兵衛申聞候付、松嶋之儀者小嶋ニ而見込無之候得共、江戸表ヘハ右嶋之名目越以竹嶋ヘ渡海いたし試萬一外ニより相洩候時ハ漂着之姿ニ申○候ハハ子細有之間敷ト存候旨三兵衛へ申聞置候処、其段承知之上早々渡海致嶋方及経見弥見込之邇無相違候ハハ猶取扱方も可有之・・・・・・・・」 これを読むのはなかなか難儀ですが、大雑把に解釈すれば次のようなことでしょうか。 「18日に江戸藩邸の村井荻右衛門から私に書状が来て、その趣旨は、竹島の件は日本の地と言い難いので渡海の計画は取りやめるようにとのことだったので、そのときに始めてそういう意見を聞いて意外であり、希望が叶わないことになって残念に思い、その日のうちに、(家老岡田頼母の家来である)橋本三兵衛のところにその書状を持って行き、家老岡田頼母に相談してもらうように頼んだ。その後、結果を聞きに行ったところ、そういうふうに江戸藩邸から言って来たのであれば、竹島はやめにして松島に渡海したらどうかとの意見であったとの説明があったので、松島は小島なので採算が合わないが、江戸藩邸には松島へ行くという名目にしておいて竹島に渡海して、万一ことが洩れたときは漂着したのだということにすれば問題にはならないだろうと橋本三兵衛へ伝えたところ、それを了承して、早く渡海して島の状況や採算の見込みがはっきりすればいろいろやり方もあるだろうと・・・・・・・・」 八右衛門の供述調書 これを見れば、家老岡田頼母には松島は渡航してもかまわない島だと言う認識があったことが分かります。つまり、岡田さんは元禄竹島渡海禁止令はそういうものだと理解していたわけですね。 そして、上の文中に出ている「松島へ行くという名目にしておいて竹島に渡海して」と同様の語句が八右衛門への判決書の中にも出て来ます。 八右衛門への判決書 石州浜田松原浦 無宿八右衛門 其方儀石州松原浦ニ而船乗渡世中、北海筋渡海之節々見請ル竹島を朝鮮国付属之地とハ不弁旨雖申立、右島者人家無之空島ニて良材有之、海岸魚類も多く魚業伐木等いたすならハ助成と可相成と存付、出府之砌元領主松平周防守家来、三沢五郎右衛門・村井萩右衛門江便り、領主益筋ニも相成由ヲ以、同島江渡海志願之義、大谷作兵衛江申立置帰村後右之趣浜田表へ罷在候国家老、岡田頼母事秋斉聞込之由ニ而、同人召仕橋本三郎兵衛より尋請、必定作兵衛外弐人江申立候次第通達有之義と存、益地ニ相違無之旨咄聞、追而右島は何れの国地とも難差極、手入等之義者可存止旨、萩右衛門より申越をも不取用再応執成之義、三郎兵衛江相頼砌、右最寄松島江渡海之名目を以竹島江渡、稼方見極候上、弥益筋ニ有之ならハ取計方も可有之由ニ而、秋斉并同家来松井図書も心得居候趣、三郎兵衛申聞候迚、大坂表ニおいて銀主共聞請宜敷ため同所周防守蔵屋敷詰家来、島崎梅五郎江三郎兵衛より頼ミ、書状申請、中島町庄助等を申勧、銀主ニ引込、殊右目論見中、外不届有之領主より浜田入津差留所払ニ相成候身分ニ而元住處ニ罷在、大坂安治川南弐丁目善兵衛其外之もの共乗組竹島江渡海いたし、絵図面相仕立又者木材採、既ニ人参と見込、紛敷草根等持帰ル上者、異国人ニ出逢、交通等いたす義ハ無之とも、素より国界不分明之地と乍心得、畢竟領主先代重御役柄中故、志願も成就可致哉抔相心得、秋斉其外之もの共へ申立、既異国之属島江渡海 いたし、立木等伐採持帰ル始末 御国体江対し不軽義不届ニ付死罪申付 (口語訳) 石州浜田松原浦 無宿八右衛門 その方は石見国松原浦において船乗り稼業をして居る時、能登方面に航行中に時々見かけた竹島が朝鮮国に属する事は知らなかったと云うが、この島は無人で木材が豊富で沿岸には魚類も多く漁業や林業をやれば、藩の為にもなると思付いた。そこで城下を訪れた時、以前の領主である松平周防守の家来の三沢五郎右衛門、村井萩右衛門を訪ね、藩の利益になるので同島への渡航希望を大谷作兵衛に伝えて帰村した。その後この趣旨が浜田藩国家老である岡田頼母(秋斉)に伝わり、頼母の用人橋本三郎兵衛より呼出しがあったので、大谷作兵衛外2名に話した事と思い、間違いなく利益になる旨説明する。 この島は何国に所属するかも不明であり、計画は中止すべきとの萩右衛門の意見もあったが、三郎兵衛に頼み、最寄松島へ渡航する名目で竹島を調査し、確実に利益となるならば、方法もある旨秋斉及び松井図書も承知している事を三郎兵衛から聞く。更に八右衛門が大坂で金主を集め易い様に周防守の蔵屋敷詰家来、島崎梅五郎への紹介状を三郎兵衛が書いてくれ、中島町庄助などを金主に引き込んだ。特にこの計画の中で、以前不正があり領主より浜田入港を禁止された大坂安治川南二丁目に住む善兵衛、その他が乗組み竹島に渡航し地図を作成し、叉は木材を伐ったり人参に紛らわしい草根を持ち帰る。 外国人と接触した事はなくとも、元来国境不明の場と分っていながら、特に領主が前の幕府老中だから、目的を達成できると秋斉及び他の者達を説得し、外国の属島へ渡海して木材等伐って持ち帰る事は、法度を破る事甚だしく死罪を申渡す。 この判決書で、幕府は、八右衛門が「最寄松島へ渡航する名目で竹島を調査し、確実に利益となるならば、方法もある旨秋斉及び松井図書も承知している事を三郎兵衛から聞いて」不法行為を実行した、という事実認定を行っています。八右衛門の供述調書では「最寄松島へ渡航する名目で」と言ったのは八右衛門自身だということになっているわけですが、幕府の最終的な事実認定においては、この言葉は家老岡田頼母と松井図書という人物の考えだということになっています。 で、このとき、幕府は「最寄松島へ渡航する名目で」という考えをどう見ていたんでしょうね。どう見ていたのか、少々読み取りにくいと思います。 (続く) |
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コメント(2)
天保竹島一件からの元禄竹島一件の幕府の裁定の真意の推定、難しいですね。(旧)松島も含むのか!? 1禁令文にはない 2松島は争点になっていない 3属島論は潜在的にある(対馬藩など後年の文書の解釈から)。竹島(鬱陵島)は朝鮮領で確定している。
さて松島の位置付けは?:イ竹島の属島として朝鮮領なのか!? ロ朝鮮領でもない日本領でもない(いわゆる無主地) !? ハ日本領!?(これはなさそう)。続編期待しています。
2016/2/27(土) 午後 10:44 [ gku***** ] 返信する
ちょうど今、続きを書き上げたところでした。松島は「忘れられていた」というのが私の結論です。
2016/2/27(土) 午後 11:05 [ Chaamiey ] 返信する