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  『竹島―もうひとつの日韓関係史―』(池内敏著)の第3章は「元禄竹島一件―なぜ日韓の解釈は反対なの」という題で、その1が元禄竹島渡海禁令でその2は安龍福事件です。
その1の元禄竹島渡海禁令に関する論述を要約すると、次のようになるでしょう。
 
 
元禄9年の竹島渡海禁止令の文面では竹島(鬱陵島)への渡海のみが記載されて松島(今の竹島)への渡海を禁止する文言はないので、従来、これは竹島(鬱陵島)への渡海のみを禁止するものだという「誤解」が「幅をきかせ」て来たが、禁令の成り立ちを考えることが大事である。
 幕府は禁令を出す前の調査過程で、鳥取藩から、竹島も松島も鳥取藩に所属するものではない、鳥取藩の大谷・村川のほかは竹島に行く者はいない、松島は竹島渡海のついでに立ち寄るものである、松島にも鳥取藩領以外の者が行くことはない、という回答を得た。
 竹島渡海禁止令は「松島は鳥取藩領ではない」という鳥取藩の回答を踏まえて出されたのだから、禁令の文面上に「松島渡海を禁ずる」と明記されていなくても含意されているのは当然である。
 松島の活用は竹島の活用と切り離しては成立しないから、竹島渡海禁止令によって竹島・松島への渡海事業は時の中央政府によって明確に終止符を打たれた。
 元文5年に大谷家4代九右衛門が寺社奉行ほかに生業の維持を嘆願した際の会話から、幕閣も大谷も元禄竹島渡海禁令を竹島松島両島への渡海禁止令と捉えていた事実が明らかになる。
 
以上に従えば、元禄竹島渡海禁令をもって、我が国が17世紀末には、竹島の領有権を放棄したことは否定しようがない。つまり、遅くとも17世紀末にはわが国の竹島に対する領有権は存在しない。したがつて、日本パンフにいう見解は成り立たない。(p81)
 
 


 「日本パンフにいう見解」というのはこれの最後の一文ですね。↓
 
対馬藩から交渉決裂の報告を受けた幕府は、16961月、「鬱陵島には我が国の人間が定住しているわけでもなく、同島までの距離は朝鮮から近く伯耆からは遠い。無用の小島をめぐって隣国との好を失うのは得策ではない。鬱陵島を日本領にしたわけではないので、ただ渡海を禁じればよい」と朝鮮との友好関係を尊重して、日本人の鬱陵島への渡海を禁止することを決定し鳥取藩に指示するとともに、朝鮮側に伝えるよう対馬藩に命じました。この鬱陵島の帰属をめぐる交渉の経緯は、一般に「竹島一件」と称されています。
その一方で、竹島への渡海は禁止されませんでした。このことからも、当時から、我が国が竹島を自国の領土だと考えていたことは明らかです。
(なぜ日本の領土なのかがハッキリわかる!竹島問題10のポイント)
 
 
 
 
 
この議論の要点は、次のような説明が成り立つかどうかですね。
 

幕府の禁令の文面は竹島(鬱陵島)のみへの渡海を禁ずるものだが、鳥取藩が「竹島も松島も鳥取藩に所属するものではない」と回答したことを踏まえて禁令が出されたのだから、これは松島(今の竹島)への渡海も禁ずるものである。
 

 
何でこういう発想ができるのかさっぱり分かりません。どうしても松島も渡海禁止だったことにしたいから無理矢理言っているような印象です。
鳥取藩が「竹島も松島も鳥取藩に所属するものではない」と回答したからと言って、なぜそれが両島渡海禁止に直結するのでしょうか。鳥取藩の回答を踏まえて禁令を出すとするならば、選択肢として、竹島のみを対象とするか竹島松島両島を対象とするかの二通りがあり得るわけです。そして、文面には竹島への渡海を禁ずるとあるのです。
幕府がなぜ渡海禁止令を出したのか、その理由を考えて見ましょう。幕府は朝鮮から竹島(鬱陵島)に関して抗議を受けて、日本人の竹島行きを認めていると外交紛議が起きるから渡海禁止令を出したのです。松島も渡航禁止にしたというのなら、松島に行くことも朝鮮から文句を言われると判断したということが前提になるわけですが、そんな史料は全くありませんね。「大谷・村川に竹島(鬱陵島)行きを認めていたところ、まずいことになってしまった。じゃあこれから竹島には行かせないようにしよう。」ということです。竹島渡海禁止令はすなわち竹島渡海免許の取り消しですね。当然、その対象は竹島(鬱陵島)だけです。
 
それから、竹島渡海禁止令は幕府の法令みたいなものですが、「禁止令」だから禁止される行為は明確でなければならないというのは、江戸時代といえども現代と同じではなかったでしょうかね。松島への渡海も禁じたかったならばそう書くはずです。仮に幕府が竹島のみ禁止の文面で松島への渡海も禁じるつもりだったとして、もし誰かが松島へ行ったときに禁令違反だとして咎めることができますか?「そんなことは書いてないっ!」て言われちゃいますね。幕府がそんなまぬけな通達を出すものでしょうか。池内さんの解釈ではそうだということになります。
 
 
それと、4代九右衛門はともかくとして、寺社奉行たちも竹島松島両島への渡海禁止と考えていたとは言えないことは先の投稿で書きました。池内さんは寺社奉行の発言を自説に都合のいいように解釈し過ぎです。また、4代九右衛門の認識が「竹島松島両島渡海禁止」だったとしても、幕府の明文の史料を覆すような証拠力はないでしょうね。
 
「竹嶋松嶋両嶋渡海禁制」と書かれた史料
 
 
 
 
なお、陳情を受けた寺社奉行の一人は大岡越前さんだったんですねえ。これは初めて知った。
 


 

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「仮に幕府が竹島のみ禁止の文面で松島への渡海も禁じるつもりだったとして、もし誰かが松島へ行ったときに禁令違反だとして咎めることができますか?」←「右最寄松島へ渡海之名目を以て竹島え渡り云々」ということになっちゃいますよねえ。実際,咎めてないし。

2016/2/23(火) 午前 5:14 [ pur*cy*ka20*7 ] 返信する

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そうですね、天保竹島一件で実例が生じました。

2016/2/23(火) 午後 6:28 [ Chaamiey ] 返信する

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改めて読んでいますが,池内氏の天保竹島一件の解釈は一目見てダメ。
池内氏は「18世紀初めには,官民ともに竹島松島双方に対する渡海禁止令だと認識されていた。」と主張します。
それならば,天保竹島一件の「松島渡海の名目を以て竹島え渡り云々」という言い訳自体が出てくる余地はありません。
池内氏は言い訳が「通用しなかった」から松島渡海が禁止されていた証拠だと言いたいようですが,竹島渡海がばれた以上処罰されるのは当たりまえ。
138ページに自分で「竹島は異国」,松島は「日本でも異国でもない」と書いているのだから,解釈上浜田藩関係者の見解が成り立ちうると自分で認めているようなものです。(書いていて気付かないのかこの人)

2016/2/28(日) 午前 5:16 [ pur*cy*ka20*7 ] 返信する

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「通用しなかった」話はいずれ書こうと思っていたんですが、puracyakaさんも同じように感じましたね。というか、大抵の人はそう感じると思いますけどね。これも池内さんの独特の感性の現れでしょう。

2016/2/28(日) 午前 7:23 [ Chaamiey ] 返信する

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