ともかく、以上のような検討を経て池内さんは次のような結論を述べます。 ・・・・・・幕府免許を得ての松島経営であれば「17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました」とする外務省見解にも説得力があるだろう。しかし、松島渡海免許は存在しなかった。①~③と④の間には、埋めがたい溝が横たわっており、論の飛躍は覆いがたい。現状のままでは外務省見解は誰も納得させることができないだろう。(p62) 外務省見解に①~④の番号を付すと次のようになりますね。 日本は17世紀半ばには竹島の領有権を確立しました。 1618年(注)、鳥取藩伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛は、同藩主を通じて幕府から鬱陵島(当時の日本名「竹島」)への渡海免許を受けました。これ以降、両家は交替で毎年1回鬱陵島に渡海し、あわびの採取、あしかの捕獲、樹木の伐採等に従事しました。(注)1625年との説もあります。① 両家は、将軍家の葵の紋を打ち出した船印をたてて鬱陵島で漁猟に従事し、採取したあわびについては将軍家等に献上するのを常としており、いわば同島の独占的経営を幕府公認で行っていました。② この間、隠岐から鬱陵島への道筋にある竹島は、航行の目標として、途中の船がかり(停泊地)として、また、あしかやあわびの漁獲の好地として自然に利用されるようになりました。③ ============ (埋めがたい溝?) ============ こうして、我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました。④ なお、当時、幕府が鬱陵島や竹島を外国領であると認識していたのであれば、鎖国令を発して日本人の海外への渡航を禁止した1635年には、これらの島に対する渡海を禁じていたはずですが、そのような措置はなされませんでした。 (なぜ日本の領土なのかがハッキリわかる!竹島問題10のポイント) この結論に関しては最後に意見をいうことにして、とりあえず、あと一点、本に書いてあることに触れます。 島根県の『竹島問題100問100答』に、塚本孝氏が「大谷・村川家と幕府の仲介をしていた阿部四郎五郎という旗本の家来、亀山庄左衛門の大谷九右衛門勝実宛ての書簡に、来年から大谷船が松島へ渡海することにつき四郎五郎が老中の内意を得たとあるので、記録上、1661年以降は、今日の竹島についても幕府の公認の下で渡航していたことがわかる。」(Q60、p142)、「現在の竹島・・・・についても、1661年以降は幕府の許可を得て漁を行っていた。」(Q80、p184)と書いたことに対して、池内さんは、50年前に川上健三が唱えた松島渡海免許が発給されたという史料解釈は成り立たないことは明らかになっているのに、「何の臆面もなく旧説をそのまま引きずり出して提示することに学問的な意味があるとは思えない」という厳しい非難を浴びせています。そして、問題となる「老中の内意」について池内さんの考えが述べられます。大変面白い部分なので、ほぼ全文引用します。 とりわけ塚本が「老中の内意」を強調することには大きな違和感がある。「内意」は先述したように大谷家・村川家両家の松島渡海の調整作業に関わる意向のことである。百歩譲って仮にそれを幕府による松島渡海の公認に関わる行為であったとしよう。しかしながら、それはあくまで幕府決定でも免許でもない老中の「内意」である。それは同業他者を排除したい民間人にとって権威づけとなる効果を持ったことは容易に想像がつくが、名前も明らかにならない某老中の「内意」をもって「幕府の公認」「幕府の許可」とするのは暴論である。おまけにこの史料にいう「内意」それ自体が、ひょっとすると阿部四郎五郎正之の裁量でそのように述べたにすぎない架空の作為である可能性すら否定できないことは、川上自身が述べている。(p63。強調は引用者) まず、最後の「架空の作為」の可能性についてです。私は川上健三氏の『竹島の歴史地理学的研究』を読んでいないので、川上氏が「架空の作為」の可能性についてどういうふうに言及しているのか分からないのですが、「老中の内意」が阿部四郎五郎の作りごとである可能性を否定できない事情としてどんなことがあったのでしょうね。何か有力な事情があるならば、池内さんはここの部分にそのこともお書きになるだろうと思います。書いてないということは、具体的な事情はないということなのでしょうかね。 もし阿部四郎五郎が「老中の内意」など無いのにあるように装ったのだとしたら、そういううそをいう動機というのは何なのでしょう。問題が阿部家自身のことで、何とか苦しい立場を逃れたいとか何か利益を得ようというような話ならばひょっとしたら自分に都合のいいようにうそをつく可能性というものを考えてもいいかも知れませんが、この件は、阿部家に直接関わりのあることではなくて、大谷から相談を受けたからそれに対応しているだけの話なのです。それに、「老中の内意」がウソだとするならけっこう大きなウソに当たりそうですが、大谷・村川間の問題はそんなに大きなウソをついてまで治めなければならないような性質の問題にも見えません。理由・動機というものはなかなか考えにくいと思いますけどね。むしろ、阿部四郎五郎としては、「松島に行きたい」という相談を受けたけれども、自分の一存で「いいよ」というわけにもいかないので、一応老中にも話をして、「別にかまわんだろ」という返事をもらったと考える方がよほど現実味があると思いますよ。 さらに、阿部四郎五郎が自分の裁量で「老中の内意があった」というウソをつくことが、現実に可能だったでしょうか。「老中の内意があった」というウソをつくのは、結局、大谷にそう伝えるということです。「老中の内意があった」と伝えられた大谷の側では、老中の内意も得ているということは誇らしいことであって隠す必要は全くないことだから、何かの時に「松島渡海は御老中様の内意もいただいていることだ」と広言することは大いにあり得ることです。すぐに広まってしまう可能性が高いことです。阿部四郎五郎もそんなことは十分分かっていたことでしょう。だとすれば、バレる危険性の高いそんなウソをつくことが実際にできるとはとても思えませんね。そして、手紙は阿部四郎五郎の死後に家来の亀山庄左衛門によって書かれたわけですが、家来が形として残る手紙に上司のウソを書くということもちょっと考えられない。老中の内意」というのは、史料のとおりにあったものと考えるべきでしょう。 (続く) 平成28年2月18日追記 訂正 「老中の内意」とある手紙は阿部四郎五郎の死後に書かれたものでした。それで、上の投稿の最後の段落は修正しました。 |
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