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 『竹島―もうひとつの日韓関係史―』(池内敏著)の第2章は「17世紀に領有権は確立したか」という題ですが、結論は、外務省の下記の主張は成り立たないというものです。
 
 
 
日本は17世紀半ばには竹島の領有権を確立しました。
1618()、鳥取藩伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛は、同藩主を通じて幕府から鬱陵島(当時の日本名「竹島」)への渡海免許を受けました。これ以降、両家は交替で毎年1回鬱陵島に渡海し、あわびの採取、あしかの捕獲、樹木の伐採等に従事しました。
()1625年との説もあります。
 両家は、将軍家の葵の紋を打ち出した船印をたてて鬱陵島で漁猟に従事し、採取したあわびについては将軍家等に献上するのを常としており、いわば同島の独占的経営を幕府公認で行っていました。
この間、隠岐から鬱陵島への道筋にある竹島は、航行の目標として、途中の船がかり(停泊地)として、また、あしかやあわびの漁獲の好地として自然に利用されるようになりました。
 こうして、我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました。
 なお、当時、幕府が鬱陵島や竹島を外国領であると認識していたのであれば、鎖国令を発して日本人の海外への渡航を禁止した1635年には、これらの島に対する渡海を禁じていたはずですが、そのような措置はなされませんでした。
(なぜ日本の領土なのかがハッキリわかる! 竹島問題10のポイント)
 
 

 第2章の論述の中では、この外務省見解に対する疑問が次のように述べられています。
 

 この説明に拠れば、「幕府公認での渡航」が対象としたのは鬱陵島であって、今日の竹島への渡航が幕府公認だというわけではない。今日の竹島は、鬱陵島へ幕府公認で渡海する途中にあって「自然に利用」されたものに過ぎない。しかも主目的は漁業ではない。なのに「我が国は・・・・・・領有権を確立」したという。(p37)
 
 
 また、この章のまとめとして次のように述べてあります。
 
 
今日の竹島への渡海について幕府から公式の許認可があったことは、論証不可能である。したがって、「17世紀半ばには竹島の領有権を確立しました」とする日本政府(外務省)見解は、その立論の基幹部分で致命的な弱点を抱えているのである。(p63)
 
 
 
池内さんの考えでは、「こうして、我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました。」という結論の前に書かれている事実関係は大筋でこのとおりで良いということなのですが、結論部分は、「幕府から公式の許認可があったことは、論証不可能である」から成り立たないということになるようです。その説明の過程では、かつて外務省は竹島(鬱陵島)渡海免許とは別に松島(今の竹島)渡海免許も発給されていたという見解を示していて、今の主張もそれを下敷きにしているのだが、松島渡海免許なるものは存在しないことは明らかである、ということを詳しく説明してあります。
 つまり、「こうして、我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました。」という外務省の結論は、17世紀半ばごろまでの松島(今の竹島)の利用に関して、幕府の公式の許認可があったならば成り立つ、なかったならば成り立たないと考え、当時の関係資料を細かく見ていけば幕府の公式の許認可などはなかったから外務省の説明は「致命的な弱点を抱えている」というわけです。
 
 今下線を引いた部分についてですが、どうも池内さんは、外務省が17世紀半ばには竹島の領有権を確立しました」と主張するからには、17世紀半ばごろの江戸幕府には「松島を日本の領土として管理するのだ」という明確な意思があったということでなければならない、とお考えのようなんですね。
 
しかし、外務省の見解はそうではないようです。外務省は「この間、隠岐から鬱陵島への道筋にある竹島は、航行の目標として、途中の船がかり(停泊地)として、また、あしかやあわびの漁獲の好地として自然に利用されるようになりました。」という史実に対して「こうして、我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました。」という評価を下しているわけですが、そういうためにはその当時の中央政権(江戸幕府)が「松島を日本の領土として管理するのだ」という明確な意思を有していたことまでは必要としない、と見ているようです。かつて日本政府が韓国政府に送った覚書の中に次のような記述がありますが、この記述からもそういう考えが読み取れると思います。
 

現代国際法の下では、次のようなことが領土取得には必要である。(一)領土を獲得する国家の意思、(二)意思の公的発表、(三)領土を支配する適当な勢力の樹立。
しかし、開国以前の日本には国際法の適用が無かったために、当時にあっては、もし日本がどこか領土をそれ自身の領土と考えて日本の領土として取り扱ったならば、また、そのような事実がどこか他国によって論駁されなかったならば、日本はその領土を領有するに必要な充分な理由を有していたと考える。
(1954210日付け亜二第15号 竹島領有に関する195399日付け駐日韓国代表部の覚書として韓国政府が取った見解に論駁する日本政府の見解)
 
 
 
結局、第2章の議論は、「我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました。」という評価を下すためには、その当時の中央政権が「松島を日本の領土として管理するのだ」という明確な意思を有していたことが必要であるのかないのか、という前提自体が外務省と池内教授とでは食い違っている、という構図になっています。
 
どちらが正しいのでしょうか。1954年の外務省覚書にあるように、近代国際法以前の時代のことですからねえ。当時の幕府に明確な領有意識が無かったとしても、日本人が今の竹島を自由に利用していた時期があったという史実があるならば、それに対して「領有権を確立した」という評価を下すことは可能だろうと思いますけどね。



 
 

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この部分、そうなんですか!?松島渡海免許の存否から来ている。この時代(江戸幕府の裁定が出るまで)、日本側には旧松島を利用した時期があった、朝鮮側はこの時期どうなんですか?とも評価できそうです。

著者池内氏が幕府の公式・非公式にこだわるなら、元禄竹島一件の幕府の裁定(主文は竹島のみ)も、竹島(鬱陵島)だけの渡海禁止になってしまいます。

2016/2/14(日) 午後 11:59 [ gku***** ] 返信する

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「17世紀半ば領有権確立」は松島渡海免許の有無によって決定的に左右される、という議論のようなのです。いまいち意味が分からないので考え考え投稿しています。

2016/2/17(水) 午前 9:47 [ Chaamiey ] 返信する

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