田中阿歌麻呂の「隠岐国竹島に関する旧記」 次ですが、池内氏は自説が正しいことの説明の二点目として、明治時代の地理学者田中阿歌麻呂が明治38年(1905年)8月の『地学雑誌』200号に書いた「隠岐国竹島に関する旧記」を挙げています。竹島領土編入の半年後に書かれたこの文章によっても、太政官指令では今の竹島が日本領外の扱いであったことがきちんと了解されていたことが分かる、という説明です。しかし、これは自爆でした。 その「隠岐国竹島に関する旧記」を見てみましょう。原資料と書き起こしは田中邦貴さんのサイトにあります。 ここではそれを適当に現代文に書き改めて見ました。 地学雑誌 第200号(明治38年(1905年)8月) 隠岐国竹島に関する旧記 田中阿歌麻呂 同島は去る2月22日に島根県令をもって公然と我が帝国の範囲に入り、行政上隠岐島司の管轄とされた。ところでその当時、自分は同島が外国人によって発見された事実及び地形に関する一般状況を紹介して置いたのだが(本誌第17年196号参照)、この地は去る5月27、8日の日本海の海戦によりリアンコートLiancourtRocks岩の名称で世上に知られることになった。今この島の沿革を考えると、その発見の年代は不明であるが、フランス船リアンクール号の発見よりも遙か以前において本邦人の知る所であった。徳川氏の時代にこれを朝鮮に与えたと見られるが、それ以前においてこの島は、あるいは隠岐に、あるいは伯耆、石見に属していた。明治の初年に到って正院地埋課においてその本邦の領有であることを全然非認したために、その後に出版された地図の多くはその所在を示さないようである。明治8年文部省出版の宮本三平氏の日本帝国全図にはこれを掲載しているが、帝国の領土外に置いて色は塗っていない。また、我が海軍水路部の朝鮮水路誌ではリアンコ一ト岩と題して、リアンコート号の発見その他外国人の測量記事を掲載するのみである。そのため、連合艦隊司令長官報告大海報第119号でもこれを踏襲してリアンコート岩として報告され、大本営海軍幕僚はその後にこれを「竹島」に訂正した(6月15日官報6586号所載日本海海戦の詳報中竹島とあり)。 自分は、かつて井上頼国氏の懇篤なる助力によって内閣文庫所蔵の図書にある竹島に関する旧記を閲覧することができた。図書の主なものを列記すれば、 竹島考 伊藤東涯 松浦氏は地理に熟心な人である。記事が正確であるのみならず、著書の中で当時の人々が竹島を無視していることを慨嘆するという文章もあった。自分は竹島に関する記事をまとめるに際してその多くを氏の多気甚麼襍誌により、その他に二、三の材料も参照した。本記事はもしかすれば正鵠を失しているかも知れないが、しばらくこの材料によって同島に関する沿革と旧記による地理を記載したい。 第一、沿革 竹島、別名他計甚麼または舳羅島という。島に大竹藪があり、竹の周囲は二尺に達する。その竹が極めて大きいためにこの名がついたようである。同島に関して最も古い記事として伝わるのは、北史巻の十四(十九丁裏より廿一丁裏まで)の倭国伝末の記事であろう。これによれば、「遺文林郎斐世清使倭國度百済行至竹島南望耽羅島云云」という文章があるが、斐世清というのは小野妹子に従って来日した者であり、その来日の年は推古帝15年すなわち隋の煬帝大業三年(西暦607年)という。しかし、松浦氏が既に述べたように、北史に出ている竹島というものは果してこの島なのか否か容易に判定できない。その他竹島に関して一、二の記録があるが一として信頼できるものはない。 伯耆民談によれば、伯州米子の町人である大谷、村川の両氏は代々名のある町人であり・・・・・・・、(以下省略) 上の文章のうちの下線部「明治の初年に到って正院地埋課においてその本邦の領有であることを全然非認した」という記述によって、今の竹島が太政官指令において本邦外と判断されたときちんと理解されていたことが分かる、というのが池内氏の論旨です。(正院は太政官みたいな機関ですね。) で、その「隠岐国竹島に関する旧記」ですが、これは竹島(今の竹島)が公式に領土として編入された機会に、その竹島の歴史と地理を紹介しようとする趣旨で書かれたものですね。それで、文の前書きでは、黄色をつけたように確かに今の竹島のことが書かれていると分かる部分があります。 ところが、田中阿歌麻呂さんは内閣文庫で閲覧したという資料のうち主なものを3点紹介していますが、残念ながらこれらはいずれも江戸時代に竹島と呼ばれていた島、すなわち鬱陵島に関するものばかりでした。それで、第一節「沿革」から始まる本文は、次の号の201号、その次の202号までを通じて鬱陵島のことを書いてしまうという結果になってしまいました。田中阿歌麻呂さんは新領土となった「竹島」と江戸時代の竹島(鬱陵島)を混同していたわけです。 後でそのことに気付いた田中阿歌麻呂さんは、同じ『地学雑誌』の210号に「隠岐国竹島に関する地理学上の知識」という題で改めて新しい竹島について整理した文章を書き、その末尾に附記として「以上の記事によれば、本誌第200号、201号及び202号に掲載した「隠岐国竹島に関する旧記」の記事は全く竹島の記事ではなくて欝陵島の記事であった。」と訂正をしました。これも田中邦貴さんのサイトで読めます。 それで、問題は、前書きで書かれていることは全て新竹島に関するものなのかどうか、鬱陵島に関するものが混じってはいないのか、ということです。池内さんの見解は上に書いたとおりです。実は、この件は今回の本では非常に短く紹介してあるだけなのですが、『竹島問題とは何か』で既にこと細かに取り上げてあって(第7章の「恐ろしく長い」注1、p350)、そこでは、210号の訂正記事があっても、この前書きで言及している対象が新しい竹島であることは、「それが「1905年2月22日に我が帝国の範囲に入った」島についての記述である以上、論を俟たない」と断言してあります。 (続く) |
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