編入決定との整合性 池内氏はさらに、「外一島」は今日の竹島ではないという主張に対してそれは「強弁」だとしつつ、自説(太政官は鬱陵島と今の竹島を本邦無関係とした)が正しいことの説明として新たに二つの観点からの説明を付け加えました。 一点目は、太政官指令の「外一島」は現在の竹島ではないという説は、もしそうだと仮定するならば、太政官指令と竹島編入閣議決定との関係について「整合的な説明が全くできなくなるという致命的な欠陥をもっている。」のだそうです。どういうことかというと、太政官指令が現在の竹島について日本領ではないと指示したものではないのならば「太政官指令ののち明治政府中央は「現在の竹島は日本領として扱いつづけていた」と理解せざるをえない」(p114)のだが、竹島編入閣議決定は全くの無主地先占なのであって、そこからは編入前に政府が今の竹島を日本領として認識していたなどということは読み取れないので決定的な矛盾が生じる、ということらしいのです。 今これをお読みの方はこの部分で「え? え? 何だって?」と思わず口にして、もう一度読み返したりしませんでしたか? 太政官指令が現在の竹島について日本領ではないと指示したものではない(それが事実ですが)とすれば、それがなぜ自動的に「太政官指令ののち明治政府中央は「現在の竹島は日本領として扱いつづけていた」と理解せざるをえない」なんていうことにつながるのでしょうかね。 明治政府は江戸時代以来の松島の存在とその歴史を見失っていたし、太政官指令も現在の竹島を想定して判断を下したものではなかったので、今の竹島は明治政府の関心の中にはなかったわけです(海図・水路誌には書いてありましたけどね。)。日本領土という扱いはされていないでしょう。だからリャンコ島の編入願いが提出されたときに明治政府としては初めてその所属を検討し、結局無主地と判断して編入した、という単純な話ですよ。太政官指令で判断しなかったことと閣議決定との間には何の矛盾も生じません。どこが「致命的な欠陥」なのでしょうか。 「太政官指令ののち明治政府中央は「現在の竹島は日本領として扱いつづけていた」と理解せざるをえない」と考えるから妙な結論になってしまうわけですが、なんでそういうことになるのか良く分かりません。良くは分からないのですが、多少見当がつきそうな部分もあります。現在の日本政府は現在の竹島のことを17世紀半ばに領有権を確立した日本の固有の領土だと説明しているので、池内さんは、そういう主張をするのならば明治初期の政府も松島(現在の竹島)を日本の領土として扱っていたということになるはずだ、と考えておられるのかも知れません。 実は、本の中のこの太政官指令の部分の途中に次のような一文があります。 松島(竹島)が17世紀以来ずっと日本領でありつづけてきたと論じたい人たちにとって、この太政官指令は容認しがたい史料である。(p114) 著者は「今の竹島は17世紀以来ずっと日本領でありつづけてきたと論じたい人たち」がいると考えて、そういう人たちに対して反論しているように見えますね。ここがポイントのように思います。この問題は太政官指令とは別の問題ですが、この本のメインテーマに関わるもののようですから、後日、まとめて触れたいと思います。なお、蛇足として書いておきますが、太政官指令は現在の竹島について判断したものではないので、したがって竹島領有権論争には全く関係がない史料であり、容認しがたいの何のというような史料ではありません。 (続く) |
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コメント(2)
17世紀の竹島の領有権も、1905年の「先占」も、「日本国の主権的行使」なのであり、矛盾でもなんでもないのですがね。
あれですか…
歴史的に竹島は日本領土なので、「先占」は矛盾するとかいう理論でしょうか??
2016/2/4(木) 午後 6:30 [ mam*to*o*1 ] 返信する
先占が矛盾するというよりは、固有領土論そのものが標的のように思われますね。帯の裏には「固有の領土という思考停止から脱却する」というキャッチコピー(編集部作成)もあることですし。
2016/2/4(木) 午後 6:57 [ Chaamiey ] 返信する