日韓近代史資料集

韓国ニュー・ライトの応援+竹島問題

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(一応終わりの続き)
 

「竹島松島両島渡海禁制」の件は、早速、半月城氏も取り上げました。「元禄・天保竹島一件と竹島=独島の領有権問題」(『北東アジア文化研究』第40(20153))という論文です。http://www.kr-jp.net/ronbun/park/park-1503G.pdf
 
半月城氏の解釈によれば、↓こういうことになります。


 

 
「寺社奉行は「竹島松島両島渡海禁制後」と明言」したのだそうです。まあ確かに寺社奉行はそういう言葉を口から発したわけですが、それは4代九右衛門が嘆願書に書いていた言葉を繰り返しただけであって寺社奉行自らの認識を示したというものではありません。おそらくは半月城氏もそういうことは分かっているのでしょうが、あえて上のような書き方をして寺社奉行が「竹島松島両島渡海禁制」という確固たる認識を持っていたかのように読者を誤解させようとしているものと思われます。あの人の文章にはそういうところがあります。
ま、それはどうでも良いのでこれくらいにして次に行きます。
 
「竹島松島両島渡海禁制」と当事者の後継者が認識していたことが分かる史料があっても、「竹島への渡海を禁ずる指示」はあくまで竹島への渡海を禁止するものであって松島への渡海までも禁じたものではなかったわけですが、そうすると、その時の松島というものの位置付けはどういうものだったのでしょうかね。幕閣は「松島は日本領」と考えていたのでしょうか。
 
私はそうではないと思っています。「朝鮮領でも日本領でもない、人の住まない単なる離れ小島に過ぎない」と見ていたのだろうと思います。
 
 
 そもそも幕府が竹島(鬱陵島)への渡航を許可した際には、幕府は竹島のことをどう見ていたわけでしょうか? 可能性は3つですね。日本領と見ていたか、朝鮮領と見ていたか、それともどちらの国のものとも見ていなかったか、のいずれかです。
 日本領と見ていたのならばそもそも渡航の特別許可を出す必要は無く、朝鮮領と思っていたならば渡航の特別許可など出さないはずです。竹島(鬱陵島)は日本から遠く離れた場所にあるどちらの国に属するものでもない単なる無人島だと思っていたから、そこに行きたいと申請する者が現われたときに特別許可を出したのでしょう。日本領ではない遠いところに民衆が勝手に行き来することを放っておくというわけにはいかなかったでしょうからね。
だから、幕府が松島という島もあることを知るに至ったときも同じだったでしょう。そして、竹島については朝鮮政府から「それは朝鮮の鬱陵島だ」という抗議が来ている。だから幕府は竹島への渡海を禁止した。松島のほうは「日本から遠く離れたところにある無人島」という認識でそのまま残された、ということでしょう。「竹島は朝鮮領だが松島は日本領だ」というような考えは無かったと思います。遠く離れた小さな無人島をわざわざ領地とするほどの実益はなかっただろうし、また、松島を日本領と考えたならばどこかの藩の所領とするか天領とするかしなければならないですが、そういうことをした形跡もない。
竹島渡海禁止令後の松島(今の竹島)はそういうものとして放っておかれたと見るべきでしょうね。松島への渡海が禁止されたわけではないのですが、それが意味するものは、「幕府は松島は日本領と認めた」ではなくて「幕府は松島までも朝鮮領と認めはしなかった」ということです。
 
これと反対に、「幕府の竹島渡海禁止令には松島も対象として含まれる」と言いたい人たちは多いのですが、そういう解釈はもともと無理筋です。幕府はなぜ竹島を渡海禁止としたか、それは朝鮮政府から「竹島について」抗議が来たからです。抗議の来ていない、朝鮮政府の抗議の中で名前も出てこない松島について幕府側が自主的に朝鮮領と認めるなんて有り得ないことですね。そんな判断を下すと仮定した場合、一体何を根拠(理由)として松島は朝鮮のものと判断することになるでしょうか。何もありません。
もっとも、堀論文(1905年日本の竹島領土編入」)以来、「竹島と松島はセットとして認識されていた」という主張がけっこうありまして、そういう人たちの主張によれば、「竹島松島セット認識」が初めて公式に発動されたのが竹島渡海禁止令だということになるわけですが、セット論というのは要するに「属島論」ですね。「属島の運命は主島の運命に従う」という論理ですが、これって近代国際法の概念ではないですかね。17世紀末の江戸幕府政権が、相手国から要求もされないのに近代国際法のような考えを取って自ら進んで松島も朝鮮領だと認定した、というわけです。そんな普通考えられないような主張をするのなら、それにふさわしい証拠を示して欲しいものです。まあ、そういう主張をする人たちは、ほぼイコールで「太政官指令竹島放棄派」の人たちです。そういう人たちは、明治10年太政官指令が「竹島松島セット認識」の発動の典型的な事例だと思っていて、それが逆に「竹島渡海禁止令は松島も含む」という主張の支えになっているふしも感じられるのですが、それは、このブログの読者の方々にはもう繰り返す必要もないことで、砂上の楼閣です。


 ということで、私の結論:幕府は竹島については朝鮮のものと認めて渡海を禁止したが、松島については何も決定しなかった。




 

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Chaamieyさんの本記事は、特に興味深いです。旧松島の位置付けは、「無主地」にあったんですよね(竹島の朝鮮領有は認めた)。現代の訴訟理論からも、判決の主文(この場合「竹島」)の判断だけが拘束力(既判力)を持つ。例外は「争点効」として重要な争点となった事項(旧松島?)は、既判力アリとの考え方もあります。旧松島は、その争点にもなっていないから、例外にも当たらない。訴訟法的な考え方では問題はなさそうです。

問題は、江戸時代「松島・竹島セット認識」が巷ではあったことです。この表題記事然り、対馬藩の認識及び佐田の内探報告書(1870年)です。これらをどう見るかですね。これらはよく言えば"解釈"、悪く言えば"俗説"と評価できます。そう見れば特段問題は生じないはずです。加えて、この認識は鳥取の商人による米子~竹島渡航の利用上からくる日本側固有の認識です。朝鮮側が、この時代、旧松島を鬱陵島の属島として利用していた事実はないはずです(不明)。ゆえに、現代の韓国が、この日本側の認識を単純に援用できるのか!?ということにも疑問を持っています。

2016/2/11(木) 午前 11:39 [ gku***** ] 返信する

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「セット認識」というのは「分けられない」と考えるということです。しかし、江戸時代に竹島・松島を知っていた者たちが竹島と松島は分けられない存在だと見ていたとは言えないと思うのです。竹島と松島が一緒に出て来るのは、そこに竹島と松島の二つがそれぞれあるから一緒に出てくるだけなんでしょう。

2016/2/11(木) 午後 7:12 [ Chaamiey ] 返信する

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ま、それはどうでも良いのでこれくらいにして次に行きます。< 以下の説明気に入っています。
1朝鮮領でも日本領でもない<(無主地ですね)2日本領と見ていたのならばそもそも渡航の特別許可を出す必要は無く、朝鮮領と思っていたならば渡航の特別許可など出さないはずです。<(竹嶋渡海免許の法的性質)3「幕府は松島は日本領と認めた」ではなくて「幕府は松島までも朝鮮領と認めはしなかった」ということです。・・抗議の来ていない、朝鮮政府の抗議の中で名前も出てこない松島について幕府側が自主的に朝鮮領と認めるなんて有り得ないことですね。< 削除

2018/6/29(金) 午後 9:15 [ Gくん ] 返信する

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