日韓近代史資料集

韓国ニュー・ライトの応援+竹島問題

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(続き)

 さて、竹島渡海禁止令が発されてから44年後に、禁止令を受けた当事者の後継者が竹島渡海禁止令は「竹島松島両島渡海禁制」と理解していたことは幕府の竹島渡海禁止令が竹島松島両島の渡海禁止令であったことを証明するかというと、私はそれはやはり無理だと思います。
 
 
 これらの史料に出て来る「竹嶋松嶋両嶋渡海禁制」という言葉は、4代九右衛門がそういうふうに理解していたことを示しているだけですね。池内さんも竹内さんも、これは幕閣の認識も同じだというように考えていますが、それは拡大解釈でしょう。
寺社奉行たちは4代九右衛門に「竹島の支配は誰がしておるのか」と質問し、九右衛門が「先祖の者が共同で許可を受けて、私どもまで支配して参りました」と答えたところ、奉行一同は「それは重いことよのぉ」という反応を示したわけです。皆さんはここから何を感じとりますか?
寺社奉行一同はこの件の経緯についてほとんど何も知らないのです。そういう者たちが「竹島渡海禁制は竹島と松島を対象としたものだ」などということを知っていたでしょうか。それは非常に疑問のあることです。そんなことを知っていたのなら、竹島と大谷・村川の関わりも知っていたろうから、今さら「夫ハ重キ事哉」などという感想を言うことはないと考えるのが自然です。寺社奉行たちはことの経緯をほとんど知らないので、九右衛門が「竹島松島両島の渡海が禁止されて以後は・・・・・・」と説明しても、それを肯定する知識も否定する知識もないから、とりあえず九右衛門が述べることをそのまま聞いた、というのが実際の状況ではないかと思いますね。
そして、九右衛門にしても、嘆願書には「竹嶋松嶋両嶋渡海禁制」と書き、3ヶ所での面会のうち2ヶ所で「竹嶋松嶋両嶋渡海禁制」と述べたわけですが、1ヶ所では「竹島渡海」が禁止されたと述べたということは、話の状況によってどちらを言うこともあることを示しています。どちらも確たる認識ではないのです。確たる認識があるなら常に同じことをいうでしょうからね。
 
しかしまあ、ともかくも4代目九右衛門に「竹嶋松嶋両嶋渡海禁制」という認識があったことは確かです。しかし、私は、竹島渡海禁止令の文面が竹島のみを対象としたものであっても、「竹嶋松嶋両嶋渡海禁制」という認識を持つ者がいたとしてもそれほど不思議なことではないと思います。
この記録は竹島渡海禁止令から44年後のものです。その間に、禁止令を受けた当事者、関係者の間でこの禁止令についてどういう会話が交わされたでしょうか。そういう記録は現在確認されていないので何とも判断しようはないのですが、まあ、竹島渡海禁止は大谷・村川両家の経済に大きな打撃だったようだから、さまざまな会話が生まれたことでしょう。
それを想像する際に重要なポイントになるのが、「竹島渡海禁止は松島も対象としたものだった」派の人たちがいつも強調する「松島は単独では利用価値がない島」論です。松島は竹島往復の途中で副次的に利用されたに過ぎず、松島単独で十分な利益が上がるものではないので、竹島渡海が途絶えれば自然に松島渡海も途絶えることになったという考え方ですね。
これはまあ、一応そのとおりだと私も思います。だから竹島渡海が禁止されてショックを受けた関係者の会話の中で松島のことが大きな割合を占めることはなかったでしょうが、副次的に話題になることはあったでしょう。
 
以下は創作劇「大谷家の一大事」の一コマです。
 
八:熊さん、竹島への渡海が御制禁になったってな。えらいこっちゃな。
熊:ああ、竹島へ行けないとなったんで仕事がだいぶ減るぜ。江戸の御老中様方の御指示だそうだからどうしようもないがな、それにしても参ってるんだ。
八:じゃあ、もう遠乗りはしないわけかい。そういや、おめえたち、竹島の手前に松島ってのもあるって言ってたろ? そっちも行っちゃいけねーのかい?
熊:さあ、それはよう分からん。御禁制は竹島だけらしいんだがな。
八:じゃあその松島とかいうところに行って稼げばええじゃねーか。
熊:いいかい、おめえさんは行ったことがないから知らんだろうが、松島ってのは小せえんだよ。竹島に比べりゃわずかしかモノはとれないんでな。そこに行ったって赤字にしかなんねーから誰も行こうなんて言わねーよ。
八:ふーん、両方とも御禁制みたいなもんか。
熊:ま、そういうことさ。
八:で、熊さんはこれからどーすんだい?
熊:ああ、差し当たりは・・・・・・・・(これ以後の脚本は失われている)(←いや、元からない)
 
 
 
 
 竹島に行けない以上は松島にも行けないという現実があるので、竹島渡海禁止令を受けた当事者が年月が流れる中で「竹島も松島も渡海が禁止された」と受け止める可能性はあったかも知れません。だから4代目九右衛門が「竹嶋松嶋両嶋渡海禁制」と理解していたことをもって直ちに「幕府は竹島と松島の両方の渡海を禁止していた」と判断することには慎重でなければならないでしょう。
 
 それから、冒頭でウィキペディアの記事では禁止令に「右御奉書之趣村川大屋両人江申聞竹島渡海相止候事」という付記があることを紹介しました。出典を確認できませんが、そういう史料も何かあるんでしょうね。
 この付記が確かにあるとすれば、事実はますます明瞭になります。それはどういうことかというと、老中4人が連署して松平伯耆守に対して「この奉書の趣旨を村川・大屋の両家に申し聞かせて竹島への渡海を止めさせること」と指示したわけです。これを受けて松平伯耆守が両家に対して「竹島も松島も渡海禁止」と言えるはずもありません。指示されたとおりにしか言えないはずですね。だから、「松島も渡海禁止」という情報が公式に両家に伝わることはないのです。「松島も渡海禁止」は受け止め方の問題です。
 
 以上述べたような理由から、私は、今回の新しい史料によっても「幕府は竹島への渡海を禁止した(松島への渡海は禁止されていない)」という解釈を覆すことはできないと考えます。
 仮に、国際司法裁判所において韓国政府がこの史料を取り上げて、「江戸幕府は松島への渡海も禁止していた」と主張することになった場合を想像しても、裁判官はもともと自分は何にも知らないことに対して右か左か判断を下すわけですから、証拠というものを重視せざるを得ません。この件を審査するとして、幕府の書面に「竹島江渡海之儀制禁」とあることと、44年後の当事者の理解として「竹島松島両島渡海禁制」という認識があることを比較した場合、幕府の意思を認定するに当たってどちらの証拠を重視するか、結果は目に見えているのではないでしょうかね。


(一応終り)


閉じる コメント(2)

単に一つの資料だけで「幕府の見解」を断定するのではなく、広範な複数の資料から判断する必要があると思います。
さらに文書の性質も重要です。

4代九右衛門が「竹嶋松嶋両嶋渡海禁制」と考えていたことは確かです。
しかし、幕府の認識はどうだったでしょうか?

1836年に、石州浜田の回船問屋・会津屋八右衛門による「竹嶋密貿易事件」がありました。
この裁判の判決文には「右最寄松島へ渡海之名目を以て竹島え渡り稼方見極上弥々益筋に有之ならば取計方も有之」という一文があります。

つまり、4代九右衛門の認識と異なる見解がなされている訳です。矛盾ですね。

「個人の見解」と「判決文で記された見解」どちらが「幕府の見解」なのでしょうか??

結果は目に見えています。

2016/1/24(日) 午後 9:48 [ mam*to*o*1 ] 返信する

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はい、八右衛門の判決文もありますね。今回は池内論文の範囲で反論を書いたのですが、近く、天保竹島一件についても投稿しようと思います。

2016/1/25(月) 午後 3:51 [ Chaamiey ] 返信する

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