元禄竹島一件の結果、1696年(元禄9年)1月28日付けで竹島(鬱陵島)への渡海が禁止されました。禁止通達の文章は次のようなものだそうですね。 先年松平新太郎因州伯州領知之節相窺之伯州米子之町人村川市兵衛大屋甚吉竹嶋江渡海至于今雖致漁候向後竹島江渡海之儀制禁可申付旨被仰出之後可被存其趣候 恐々謹言 正月廿八日 土屋相模守政直 戸田山城守忠昌 阿部豊後守正武 大久保加賀守忠朝 松平伯耆守殿 (これの原資料は、多分ここにあるものだと思う。↓) (なお、ウィキペディアの「竹島一件」では、上の文章に続いて「右御奉書之趣村川大屋両人江申聞竹島渡海相止候事」と付記した文書が紹介されているが、これの出典は分からない。) この文書には御覧のとおり「竹島江渡海之儀制禁」と書いてあるので、普通、「竹島(鬱陵島)への渡海が禁止された」と理解するところでしょう。それを裏から言えば「このとき、松島(今の竹島)への渡海は禁止されなかった」ということにもなります。だから、外務省ホームページは「日本は17世紀末、鬱陵島への渡海を禁止する一方、竹島への渡海は禁止しませんでした」と説明するし、島根県の『竹島問題100問100答』(Q80)でも「幕府は、鳥取藩から“松島”(現在の竹島)に関する情報を得ながら、同島への渡海は禁止していない」とされている。しかし、これに対して、「禁止通達に松島の名前は出ていなくとも、竹島と併せて松島も渡海が禁止されたと解するべきである」という根強い反論がありますね。 そういう反論を後押しするかに見える「竹嶋松嶋両嶋渡海禁制」と書かれた史料があるということを、名古屋大学の池内敏教授が発表されました。日本史研究会の機関誌『日本史研究』第630号(2015年2月号)の「「国境」未満」と題する論文で紹介されています。その論文をもとに、該当の史料を紹介します。 竹島(鬱陵島)渡海で利益を得ていた大谷・村川両家にとって竹島渡海の禁止はかなりの痛手だったため、元文5年(1740年)4月に大谷家4代目の大谷九右衛門勝房という人物が、大阪廻米への参与と長崎貫物連中への参加(この二つがどんなものか、私は知らない)を要望するために江戸に赴いて寺社奉行や長崎奉行(江戸にいる)などに面会しました。九右衛門自身がそのときのやりとりを書き残したものが米子市立図書館に所蔵されている大谷家の文書の中にあるということです。 その文書のうち寺社奉行4人に面会したときのものを転載させてもらいます。 要点を適当にまとめれば、願書の読み上げのあとに質疑応答があって、まずaの部分で、牧野越中守が「九右衛門、竹島の支配は誰がしておるのか」と質問したので、九右衛門が「先祖の者が共同で許可を受けて、私どもまで支配して参りました」と答えたところ、奉行一同は「それは重いことよのぉ」という反応を示した。 次にbの部分ですが、「竹島松島両島の渡海が禁止されて以後は米子城主の御厚情を受けて経営に努めて参りました、と願書に書いているのは、つまり俸禄をもらっていたということか」という質問があったので、「いいえ、俸禄ではなくて便宜を計っていただいたという意味でございまして・・・・・・」と答えた、というようなことでしょうか。 さらに九右衛門は、後日に長崎奉行に面会したときも、長崎奉行に対して「元禄年中に竹嶋松嶋両嶋の渡海禁制を申し渡されて以後は願書に書きましたとおり・・・・・・」と説明したと記録しています。 これらの記録によって、4代九右衛門が「竹嶋松嶋両嶋渡海禁制」と願書に書いたこと、「竹嶋松嶋両嶋渡海禁制」と口頭で説明したこと、つまりはそういう認識を持っていたことが分かります。池内教授は「ここからは、幕府側も大谷勝房もともに、元禄竹島渡海禁令を「竹島・松島両島渡海禁制」と了解していることが明らかである」とまとめています。 この件は、竹内猛氏も石見郷土研究懇話会の機関誌『郷土石見』第100号(2016年1月)に掲載の「歴史研究の成果と領有権の主張――『竹島問題100問100答』批判(一) ――」という論文の中で取り上げました。竹内猛さんは、「「竹島外一島」の解釈をめぐる問題について――竹島問題研究会中間報告書「杉原レポート」批判――」(『郷土石見』第87号 2011年8月1日)というガチガチの太政官指令竹島放棄論を書いた人ですね。http://www.kr-jp.net/ronbun/msc_ron/takeuchi-1108.pdf 池内教授は解説を省略していたようですが、竹内さんの紹介によれば、九右衛門は寺社奉行の次に勘定奉行にも会っていて、その時には勘定奉行に対して「願書に書きましたとおり、元禄九年竹島渡海が禁止されました以後は・・・・・」と説明したことを記録しています。竹内氏は、この寺社奉行、勘定奉行、長崎奉行との三つの会話記録を総括して、九右衛門が勘定奉行に対して述べた「元禄九年竹島渡海禁制」の具体的な渡海禁止の対象が寺社奉行と長崎奉行に対して述べた「竹嶋松嶋両嶋」であったこと、またそれに関して米子の町人と幕府、及び嘆願書を仲介し九右衛門から毎回やりとりの報告を受けていた鳥取藩の三者間に共通の認識があったことが分かるとしています。 ということで、この史料の発掘によって、幕府は実は竹島(鬱陵島)だけでなく松島(今の竹島)に対しても渡海禁止を指示していたことが明らかになった・・・・・・・・・・・・と言えるのでしょうか? (続く) |
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コメント(2)
大変興味深い。
続きが楽しみです。
2016/1/23(土) 午後 11:45 [ mam*to*o*1 ] 返信する
基本的な事実は紹介しましたので、あとはどう考えるかということですね。
2016/1/24(日) 午前 6:40 [ Chaamiey ] 返信する