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 名古屋大学池内敏教授の新刊『日本人の朝鮮観はいかにして形成されたか』(叢書東アジアの近現代史第3)の第10章「竹島の日本領編入」へのコメント


元禄竹島渡海禁令と松島(p229)

 ここに次のような文章がある。(念のためですが、この文章の竹島は鬱陵島のことで、松島が今の竹島のことです。)

元禄9年(1696)1月、大谷・村川両家の竹島渡海が禁止された(元禄竹島渡海禁令)。禁令の文面に「松島」なる名称が含まれなかったことをもって禁令以後も松島渡海がなされていた可能性が指摘される。しかしながら、竹島渡海の当事者たちは松島を竹島と併せて活用して来たこと、松島単独での収益追求は失敗し竹島・松島両島での収支合算でしか家業を維持しえなかったこと、こうした点からすれば右のような可能性はありえない。

  
 池内氏が言うように、竹島渡海禁止令が出た後は松島(今の竹島)のみへの渡海は行われなかったというのはそのとおりだろうと思うのだが、ここで気になるのは「禁令以後も松島渡海がなされていた可能性が指摘される」という問題の捉え方です。そういう可能性を、現在、誰が言っているのだろうか。少なくとも、外務省の説明の中にそういうものはない。外務省は、鬱陵島への渡海は禁止されたが「その一方で、竹島への渡海は禁止されませんでした」と言っているだけだ。これは今の竹島が渡海禁止の対象ではなかったことを言っているのであって、現実に今の竹島への渡海が継続されていたという可能性を言っているものではないだろう。
 言う必要もないことだが、竹島問題は領土問題だから国(政府)同士の争いだ。だから国(政府)の言っていることについてはそれは正しいとか間違っているとかいう議論はあるわけだが、国(政府)が言っていないことを批判することにはどういう意味があるのか分からない。
 

次に、こういう文章もあります。


 そしてこれら嘆願書提出の過程で、当時の幕閣も竹島渡海者たる大谷家もいずれも元禄竹島渡海禁令を「竹島・松島両島渡海禁制」と理解していたことが史料上でも明らかである。禁令後の松島渡海は公的にも否定され、禁止されたのである。

  

 竹島渡海禁止令から44年後の、竹島渡海のことなどほとんど何も知らない奉行たちが大谷九右衛門が嘆願書に書いた「竹島・松島両島渡海禁制」という言葉を繰り返しただけのことを評して、当時の幕閣も竹島渡海禁止令を「竹島・松島両島渡海禁制」と理解していたことが「史料上でも明らかである」とか「禁令後の松島渡海は公的にも否定され、禁止された」とか言える感覚は理解できない。これが歴史学なのだろうか。

 詳細は既に書いたものがあるので、必要な方はそちらで見てください。



 
 なお、東海大学塚本孝教授も同趣旨の指摘をしておられるのだから、私の見立てもそれほど的外れではないだろう。

 

 大体、塚本教授の指摘は、もう一年も前に島根県のサイトに載ったものですよ。でも、そういう指摘に何も答えることなく従来の解釈をそのまんま新刊に書くというのはいただけない。まさか池内さんは塚本さんのこの文章を読んでいないのだろうか。それとも、まるで相手にする価値もない指摘だと見ているのだろうか。






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