筆者が『竹島問題100問100答』に対する反論において、大韓帝国勅令に「石島」と表記された背景に全羅道の人の方言があることを提示したことに対して、山﨑は今回の再反論で次の通り批判した。1900年当時、島監裵季周は仁川出身で江原道から来た移住者であるから全羅道とは関連がないのに、中央政府から派遣された官吏が島監を排除して全羅道漁民の呼称を公文書に採用したはずはないというのだ。これは島監を始めとする入島民が鬱陵島に入ってきた後に「独島」の呼称を知るようになったことを知らないところから生じた批判だ。 まず「石島」の呼称が成立することになった背景を見よう。鬱陵島調査の命を受けた内部の視察委員禹用鼎は、1900年6月、島監裵季周だけでなく韓国・日本両国人を対面尋問して調査した。この時、人々は「独島」の存在をどんな形態にせよ言及したはずで、禹用鼎がこれを文書化したので後で勅令に登場することになったのだろう。ところが勅令にはこの島の名称は「石島」と表記されている。そうなったのは公文書での表記方式と関係がある。地方官が指示を与える文書には吏読を使うが、高位官僚である禹用鼎の報告書を作成するに際して吏読を使いはしなかっただろう。ところで島に関する名称が勅令に「石島」と表記されているならば、字意と関係のある呼称が1900年以前から流布していただろう。ところで、なぜ、わざわざ「石島」であろうか? これは開拓当時の状況と関係がある。鬱陵島に人々が正式に入島したのは1883年からだが、それ以前から人々の往来はあった。特に全羅道の人々が多数往来していた。これは、1882年に検察使李奎遠が鬱陵島で会った170人余りの朝鮮人の中で80%が全羅道の人だった事実でも知ることができる。 「石島」という呼称は正に彼らと関係がある。今日「独島」と呼ばれる島は一目で見ても「トルソム」(翻訳者注:石の島)だ。1880年代を前後してこの島い往来した者は伐木と漁労を目的に入った国民たちであるから、彼らが文献上の「于山島」を知っていた可能性は低い。したがって、彼らは島を直接目撃してその形状に合うように命名したもので、それが「トルソム」だったことは簡単に推定することができる。ところで、一方で全羅道の人々は「石」を方言で「ドク」とも称した。それで、独島は一方では「トル」(石)と、他の一方では「ドクソム」と呼ばれたのだ。そしてこれら二つの呼称は開拓民に伝えられた。島監裵季周もこのような呼称を聞いた人の中の一人だ。禹用鼎が「石島」と表記するに当たって裵季周の言葉に従ったものか、あるいは彼が尋問した他の人の言葉に従ったものかは分からない。ただし、禹用鼎は彼らから聞いたとおり「トルソム」あるいは「ドクソム」という言文呼称を書くことができなかったので、「ドクソム」の意に該当する漢字を借りる、いわゆる訓借表記方法を取ったのだ。勅令に「石島」として登場することになったところにはこのような背景が作用する。山﨑が指摘するように禹用鼎が島監裵季周を差し置いて全羅道漁民の方言を公文書に採用したのではなく、全羅道漁民の方言が島監裵季周を始めとする移住民に伝えられていたのでそれが禹用鼎に伝わったのだ。全羅道と慶尚道の人が「トルソム」を「ドクソム」とも呼ぶという事実を現地調査で実証したのは、韓国に居住して朝鮮語方言を研究した小倉進平(1882-1944)だった(注24)。 (注24)小倉進平は、1926年、京城帝国大学教授に在職している間、朝鮮の古文献を整理して新羅郷歌と方言研究に努力した。彼の『朝鮮語方言の研究(上・下)』は彼の一生の業績の結実だ。彼の研究によれば、「トル」(石)を「ドク」と称した例は全南が最も多く、その次が全北、慶南、慶北、忠南、忠北の順だ。(小倉進平 『朝鮮語方言の研究』(上)岩波書店1944 p218-219) 日本は勅令41号に出て来る「石島」が「独島」ということはまだ立証されていないと主張するが、立証方法には色々なものがある。 ドクソムが石島だという主張は言語学的傍証だが、他の方法もある。 この問題は、鬱陵島周辺には島は多くないので鬱陵島と周辺島嶼を文献上の名称に代入して合わせて見てもかまわないだろう。鬱陵島周辺の島嶼の中で「島」の字が入ったものは竹島と観音島、独島だ。「ソムモク」(島の首)は「島項」と表記されて「島」では終わらない。ところで、勅令が出た同じ年に、勅令より先に報告書に「竹島」と「観音島」が登場している。1900年に鬱陵島を調査した釜山領事館の赤塚正助は出張復命書(注25)に地図を添付したが、そこには島牧、竹島、空島という島嶼名が見える。「島牧」は「島項」の誤記だ。「島項」は「ソムモク」に対する訓借表記でこれを混同して交えて表記したのだ。竹島は1882年に李奎遠が表記した「竹島」のようだ。「空島」は「孔岩」を誤記したものだ。李奎遠は「鬱陵島外図」で島項と観音島を描き入れて二島の間に「島項」と表記したことがある。 赤塚の「島牧」もその延長線上から出た表記だ。勅令以後である1902年に鬱陵島に派遣された西村銈象警部は、赴任してすぐに上げた5月30日付報告書(注26)において「テッセミ島」に言及して、日本人たちはこれを「竹島」と称するという事実に言及した。「テッセミ島」はすなわち「デッソム」(翻訳者注:竹の島)で、「ソム」(島)と「島」を二重に記載している。「デッソム」に対する訓借表記として竹島といったのだから、この時の音読は「タケシマ」でなく「チュクト」でなければならない。 (注25)「鬱陵島調査概況」『欝陵島ニ於ケル伐木関係雑件』;「欝陵島調査概況及び山林調査概況報告件」「各領事館機密来信」『駐韓日本公使館記録』14巻 (注26)「韓国鬱陵島事情」(1902年5月30日)『釜山領事館報告書2』:『通商彙纂』10巻第234号(1902年10月16日) また、彼は「チョンソクポ(亭石浦)の海上に双燭石及び島牧という島嶼があって、周囲は20丁、日本人たちはこの島を観音島と称してその岬を観音岬といい、その間を観音の〔瀬戸〕と呼ぶ」とした。これは観音道の形状をそのまま描写したもので、日本人が島項と観音島を同一に取り扱っていたことを意味する。これは、李奎遠が島項と観音島を描いて二島の間に「島項」と表記したことと同じ認識線上にあったことを見せてくれる。 「竹島」を除けば勅令で残る島は「石島」であるが、李奎遠の地図と日本人の報告書で島項と観音島を同一視しているので、勅令の「石島」を観音島に比定できないということが分かる。日本人も島項と観音島を認知したほどなのに、大韓帝国が認知することができなかったはずはないためだ。大韓帝国が島項や観音島のうちの一つを「石島」と考えたとすれば当然「観音島」と表記するはずで、「石島」と表記しはしなかっただろう。 勅令に見える「石島」を観音島と見られないならば、残った中で石島に比定できる島は「独島」だけだ。日本は「石島」と「独島」は表記が異なるという事実だけを強調するが、それなら日本は文献に見える島嶼名の中でどれを「石島」に比定できるのかを明確にしなければならないだろう。ある時は石島を島項に比定し、ある時は観音島に比定したりして、日本の主張は一貫性がない。それ自体が石島が独島に該当するという事実を否認するのは難しい情況であることを示している。 (柳美林) 竹島問題100問100答 批判2 ―竹島問題研究会3期最終報告書付録に対する反論― (慶尚北道独島史料研究会) 歴史学的争点を中心に (柳美林) (終) <ちょっとコメント> 赤字強調は翻訳者による。柳美林の大いなる勘違い。石島の問題というのは、「石島は一体どの島なのか、日本と韓国が比定合戦をしてより妥当な見解を言った方の勝ち」というような問題ではありません。石島は独島であり、韓国は1900年の勅令41号で独島(石島)を韓国の領土と明示したのだとして石島を領有権の根拠として主張している韓国の方が、確かに石島が独島であることを明確な資料で立証しなければならないのです。日本側は、さし当り、石島が独島ということは全く証明されていない、しかもとてもとても怪しい、むしろ観音島の可能性が高い、というようなことを指摘すれば十分なのです。日本に石島はどれかを「明確にする」責任はありません。立証責任は韓国にあるということを全く考えないのか知らないのか分からないが、こういう「歴史的争点」であれこれ言っていれば勝った気分になるのだろう。 |
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