日韓近代史資料集

韓国ニュー・ライトの応援+竹島問題

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5. いわゆる「編入」前後の時期に韓国人の「独島」認識は一貫して確固だった
  慶尚北道史料研究会は、『「竹島問題100100答」に対する批判』において、日本側の「Q37 沈興沢を通じて初めて‘独島’について知ることになった大韓帝国政府はどのように対処したのか?」に対して「編入の報に接した韓国()は全て独島は鬱島郡の所属という反応を見せた」という題名で反論したことがある。島根県竹島問題研究会が『竹島問題100100答』において、韓国側が1905年の日本の編入事実を知っても外交的に抗議しなかった理由は「調査の結果、竹島が自国領土ではないことが判明したため」と主張したことがあるためだ。
これに対する反論において、筆者は、鬱島郡守が日本人から編入の事実を聞くや否や、上官である江原道観察使に報告した事実、内部大臣李址鎔と参政大臣朴斉純も報告を受けるや事実を調査するように指令を下した事実、マスコミの報道などが大韓帝国政府と官吏、言論全てが「独島」を韓国領で当然視していた情況を示す証拠だと応酬したことがある。
は今回の再反論では190651日付『帝国新聞』記事を挙げて、内部(内務部)が訓令を下して理事と交渉するようにしたことは大韓帝国が抗議できたことを意味するが、抗議しないのは独島を大韓帝国の版図と見なかったためだと主張する。さらに彼女は、『帝国新聞』記事から見れば、大韓帝国政府は日本が占領(編入)した島を独島ではなく鬱陵島と間違って理解していたと主張する。
果たして大韓帝国は日本が編入した竹島(独島)が韓国版図外の島だと見たので抗議しなかったのか? そして編入した島を鬱陵島と思っていたのか? この二つの前提は両立することも難しいが、一応検討して見ることにする。
『帝国新聞』190651日付記事は内部が指示した事項を含んでいる。ところで後に『皇城新聞』も関連内容を報道したことがある。1906713日付『皇城新聞』記事がそれだが、内容は次のとおりだ(筆者が現代文に変えた)
 
統監府が内部にいうに、江原道三渉郡管下所在の鬱陵島に所属する島嶼と郡庁が初めて設置された年月を説明せよといった。これに対し(内部が-訳者)回答するに、光武2(1898-訳者)520日に鬱陵島監として設立し、光武4(1900-訳者)1025日に政府会議を経て郡守を配置したが、郡庁は霧台洞(原文のとおり)(19)に置き、この郡が管轄する島は竹島と石島で、東西60里、南北40里で合わせて200余里といったとのこと。
 
 
(19)台霞洞の誤記と見える。
 
 
記事内容は、統監府が鬱島郡の附属島嶼と郡庁の設置沿革に関する説明を内部に要請し、これに対して内部が回答した内容だ。統監府と内部間の往来事実であるから、これより先んじていた『帝国新聞』の記事と総合してみれば、統監府が内部に説明を要請した時期は51日以後から713日以前になる。内部が回答した内容は主に鬱島郡の沿革に関することだ。内部は「郡庁は霧台洞に置き、この郡が管轄する島は竹島と石島で、東西60里、南北40里で合わせて200里余りという」と回答したが、この内容は鬱島郡の管轄範囲と鬱陵島の面積を示す。
この時、私たちが混同しやすいのは、鬱島郡の管轄島嶼として言及されたものと距離関係を言及したものが同じものなのかという点だ。記事で「東西60里、南北40里で合わせて200里余り」と云々したのは鬱陵島の面積を示すと見なければならない。しかし、管轄する島嶼は「この郡が管轄する島は竹島と石島です」と答えたので鬱陵島に限定されない。文章構造では「竹島と石島」が「その郡が管轄する島」の述部となる。そして「東西60里、南北40里で合わせて200里余りという」というのは、主語を「鬱陵島」とした一文章の述部となる。一方、朝鮮時代の文献でも、概して鬱陵島の距離を東西が50里から70里、南北が40里余りから70里余りに達するといって、文献により若干の偏差はあるがいずれも鬱陵島の距離関係を示す。 したがって、上の記事の60里と40里も鬱陵島の距離関係から見なければならない。
このような次元で見るならば、『皇城新聞』(1906713)記事に「郡庁は霧台洞に置いてこの郡が管轄する島は竹島と石島で...」と明確に言及したが、これをもって「大韓帝国政府が統監府に回答する時、竹島は韓国の版図外だと回答したと見るのが自然だ」とする論理は成立しない。また、山﨑は19065月の『帝国新聞』記事を挙げて、沈興沢の報告を受けた内部は統監府理事庁理事官と交渉することを訓令したので(20)韓国は統監府を通じて抗議できたのに照会さえしなかったと主張する。この問題は、統監府体制に対する理解の上で説明される必要がある。 19051122日にはソウルに統監府が、地方の要衝地には理事庁が設置された。 1220日には統監府及び理事庁官制が公布された(勅令第267)19061月には大韓帝国外部(外務部)が廃止されて議政府外事局が外交業務を担当するように代替された。
19062月から実施された統監府体制は統監が実質的な統治権者として君臨したので、統監の承認なしで大韓帝国が独自に国政を運用できる分野はなかった。統監府体制下で理事官は統監の指揮監督を受けて領事に属する業務を処理する者で、主に日本領事館の領事あるいは副領事がそのまま任命される場合が多かった(21)。彼らは韓国の事情をよく知る韓国通だった(22)。内部の高等官と判任官もほとんど日本人だった(23)
 
 
(20)内部が誰に訓令を下したのか、この文章だけでは明らかでないが、郡守の報告に基づいて訓令したものであるから郡守沈興沢に訓令したと見られる。沈興沢が江原道観察署代理李明来に報告した内容に対して参政大臣が別に指令を出したので、訓令は内部が鬱島郡守に下したと見られる。
(21)ハン・ジホン、「理事庁職制と運営」『歴史学研究』第582015 p177
(22)上の文p184
(23)パク・ギョンリョン 「統監府の組織と役割考察」『アジア文化』第182002 p89
 
 
 このような状況で内部の訓令を受けた郡守が統監府理事庁と交渉をしようとしたと考えて見よう。大韓帝国の鬱島郡調査に対する抗議を、それも「日本が占領したので調査するという」名分を持った調査に対する抗議を理事庁が受け付けたはずがない。たとえ受け付けたとしても、この問題は領土問題であるから理事庁が統監府や本国外務省の意思に反して処理したはずがない。
一方、『帝国新聞』の記事のとおりならば、この時の抗議は鬱島占領に対する抗議をいう。「鬱島を日本が占領したので...」となっているし、「占領したという話は人を欺くことであるから知っている日本理事と交渉して処理しろといったという」とあるためだ。したがって、郡守に理事庁理事と交渉するようにした内容は鬱島(鬱陵島)に関することであって独島に関することではない。山﨑は(韓国が)「日本が占領(実際は編入)した島を竹島ではなく鬱陵島と間違えていた」というが、記事に基づけば、韓国は日本が占領した島を鬱陵島と考えていたという話になる。これは新聞記事の錯誤と見える。
新聞には鬱島郡守が内部に報告した記事を引用して日本人が鬱陵島を調査した内容に言及しているだけで、「本郡所属独島が..」で始まって「独島が今回日本の領土になったので視察のために出て来た」とある内容は見られない。ところが、同じ日の『大韓毎日申報』には「独島を日本の属地と自称して...」となっていて、内部の指令すなわち「遊覧の途次に...独島と称して日本属地といったことは決してそのような理がないことで、今回の報告は非常に驚くべきことだ」という内容も報道した。この記事の資料元である沈興沢報告書には「本郡(鬱島郡)所属独島が本部の外側海百余里の外にあるが...」といって「独島」に直接言及している。これで見る時、当時の大韓帝国の役人たちは日本が占領した島を鬱陵島でなく独島であると明確に把握していたことが分かる。
1905年の編入以後から1906年までにあった一連の文書(沈興沢報告書、李明来報告書号外、参政大臣朴斉純の指令、大韓毎日申報51日付記事、皇城新聞59日付記事、『梅泉野録』など)を見れば、全て「独島は我々の土地」という認識を見せている。それが713日付『皇城新聞』だけが「独島を韓国版図外」と認識することが有り得るのか? 一連の報告書と新聞記事を総合してみる時、山﨑が主張した「『皇城新聞』1906713日付記事も、大韓帝国政府が統監府に竹島は韓国の版図外にあると回答したと見るのが自然だ」とすることは成立しない。それでも山は、大韓帝国が抗議できない理由は沈興沢報告書を通じて知ることになった独島が「中央政府としては未知の、韓国版図外の島という事実が判明したため」ということができるのか疑わしい。
しかも、当時は日本が独島を編入した後であり、これを機に自国領地を視察するという名分で鬱陵島を訪問した時だ。この問題のために、韓国政府が鬱陵島占領でなく独島占領に対して統監府に抗議したとしよう。統監府理事庁が領事館出身の官吏で構成された上に外交権まで剥奪された状態で「領土」問題を交渉したとすれば、果たして統監府は韓国側の交渉に応じて韓国側の要求を受け入れただろうか? 韓国は抗議ができたのに抗議しなかったので自国の編入が有効だという日本の論理は、当時の弱小国の状況を無視した帝国主義的論理だ。

(続く)

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法的には、たとえ抗議が一蹴されることが分かっていても「抗議した事実が残る」ことが大切で重要なのですけど…(苦笑)

やるべき事をしなかった韓国政府の責任ですね。
「権利の上にあぐらをかく者は、法律の保護に値しない」のです。

2017/12/8(金) 午前 0:21 [ mam*to*o*1 ] 返信する

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