日韓近代史資料集

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180年前の日本の独島認識は」
14日独島学会の学術大会
 
20161012日 慶尚毎日新聞
 
独島学会と独島研究保全協会は、来る14日午後1時、ソウル鍾路区のソウル歴史博物館講堂で「韓国の独島領有と国際環境の挑戦克服」を主題として学術大会を開催する。
この大会は日本の安倍政権が国防白書と学校教科書を通じて独島領有権を続けて主張する中で、独島の日(1025)を前に独島研究の現況と方向を点検してみるために準備された。
この席で、ソン・フィヨン嶺南大学独島研究所教授は論文「天保竹島一件と鬱陵島・独島」で朝鮮末期の「竹島一件」の事件を分析して当時の日本人の独島に対する認識を明らかにする。
1836(日本の年号で天保7)に発生した「竹島一件」、は運送業者会津屋八右衛門が渡海禁止令を破って鬱陵島で密貿易をして摘発されて処刑された事件だ。彼の裁判記録である竹島渡海一件記に添付された地図である竹島方角図(写真)を見れば、竹島(鬱陵島)と松島(独島)がいずれも朝鮮本土のような赤い色で表示されている。これは、当時の日本人たちが竹島・松島をまとめて朝鮮領土と思っていたことを示す確実な証拠だ。
また、キム・ヨンス東北アジア歴史財団独島・東海研究室長は、「近代独島を含む海洋関連歴史分野の成果と限界」を主題として発表する。キム室長は、19世紀後半のロシアの韓国海洋探査、鬱陵島開拓・森林・漁業をめぐる当時の朝鮮・日本・ロシアの活動を振り返って、当時の東北アジアの秩序再編が独島にどんな影響を及ぼしたのか追跡する必要があると提案する。
キム・ヒョンス仁荷大学法学専門大学院教授は「独島周辺水域利用に関する法的考察」、チェ・ソンホ中央大学法学専門大学院教授は「韓日漁業協定と独島領有権の毀損」を主題にそれぞれ発表する。
独島学会長シン・ヨンハ ソウル大学社会学部名誉教授は「日本が独島を侵奪しようとする長期政策を押し進めている」としながら、「独島領有権をより一層明白に証明して日本の侵略的挑戦を克服することは、今や国家的・国民的課題になった」と語った。
[慶尚毎日新聞=チョ・ヨンサム記者]
 

 
イメージ 1
       慶尚毎日新聞 1836年独島を朝鮮領土として表記した日本地図「竹島方角図」




 <コメント>
  不法渡航者(八右衛門)の取り調べの過程で、被疑者の話を聞きながら取調官がこのような地図を描いた。赤色が何を意味するかは不明。八右衛門は、松島へ行くことは御法度ではないという教唆を受けていたのだし、当時の幕府も松島という島がどういう島なのか知ってはいなかったのだから、取調べの中で「松島は朝鮮領」という話が出ることはないだろう。
  ごく一部の人間が関与したに過ぎない図面で領有権を論ずることができると勘違いする韓国の研究者たち。

 シン・ヨンハ大先生も相変わらずのようだが、この人は韓国国民に「独島は明白な韓国の領土」というウソを吹き込んだ第一人者だろう。その責任は重い。




<追記>
 nobyさん御紹介の島根県発表の地図をいくつか転載しておきます。

島根県報道発表資料 3151
「 江戸後期の幕府役人及び地理学者が作製した日本地図における竹島の記載について」

 
   竹島を日本領に彩色した古地図もこういうふうにあるわけで、古地図だけで話をするなら竹島方角図では太刀打ちできないですね。









 
 




閉じる コメント(5)

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江戸時代の竹島に関する地図を分析するなら、以下のようなものも対象にしてほしいですね。こちらの地図では、竹島は日本の土地として扱われているようです。

島根県報道発表資料「江戸後期の幕府役人及び地理学者が作製した日本地図における竹島の記載について」
http://www3.pref.shimane.jp/houdou/press.asp?pub_year=2014&pub_month=1&pub_day=21&press_cd=AF1A056C-A679-47FA-B27A-259164E0B5B8

また、韓国の皆さんが大好きな林子平の地図については、「当時の著名な地理学者にも酷評されていた」と書かれています。

2016/10/15(土) 午前 8:51 [ nob*7*84 ] 返信する

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そうなんですよね、そういう地図があるのは無視するんでしょう。ホントに自分たちに都合のいいものだけしか眼に入らないというおトクな性格の方々です。
島根県の発表資料は上に追記します。

2016/10/15(土) 午前 9:04 [ Chaamiey ] 返信する

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若干異論ぽいですが、天保竹島一件の「竹島方角図」(1836年)は、当時の日本側の一般的な(正確には観念的な)認識だと考えます。旧竹島と旧松島が常にセットで捉えられていた傾向の結果だと(天保の対馬藩宗家文書:ただし断定はしていない)。

観念的にはそうだったんですが、やはり明治の編入申請時に(1904年)、海軍の水路部長・農商務省の水産局長らによって、朝鮮及び日本の施政権が及んでいない無主地だと判断された。その実態は、旧竹島(鬱陵島)は朝鮮領・旧松島(編入直前はリャンコ島)は無主地だった。(~爾後編入)

写真1地図(1790年)の竹島・松島とその色が確認しにくいですね。このころ蝦夷地(いまの北海道)は、道南の松前半島までしか幕府の施政権が及んでいなかったことが地図から判断できます。 削除

2016/10/15(土) 午後 9:39 [ Gくん ] 返信する

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Gくん さん
>旧竹島と旧松島が常にセットで捉えられていた傾向の結果

そのあたりは判断が難しいですね。いろいろな資料があるので一概には言えませんが、この天保竹島一件に関して言えば、二つの島は帰属の扱いが違っていたと思います。
浜田藩の首脳部は島への渡海に関して「竹島は日の出の土地とは定め難いが松島なら良い」と言っていますし、八右衛門も同じ認識だったでしょう。
奉行所の判決文も「松島へ渡海之名目を以て竹島え渡り」と書いあるので、松島への渡海は違法ではなかったようです。
要するにこの事件の関係者全員が、竹島は朝鮮領だが松島はそうではない、二つの島は帰属が違う、と考えていたように思います。

竹島と松島は、地理的な意味を指す文脈の中ではセットで捉えられていた、
しかし政治的な文脈の中では別々のものとして考えられていた、ということではないでしょうか。

2016/10/16(日) 午前 9:02 [ nob*7*84 ] 返信する

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nobyさん、反応ありがとうございます。もちろん、Gもそのように(特に >竹島は朝鮮領だが松島はそうではない、二つの島は帰属が違う< の部分。池内新書も同旨同書138頁)考えています。この頃(前近代・江戸時代)については、相手の言い分を全部却下するのではなく、一定程度認めて更に有力な反論をする方が得策だと考えています。理由は二つ↓です。

1相手側(当時朝鮮政府)も、この頃(前近代・江戸時代)は国家的領有意思がない(もちろん日本側も)ので、一定程度竹島・松島セット論を認めても実害がない。

2国際法判例で、韓国側が主張する「属島論」が領土の帰属を決定するものでないときは、一定程度「竹島・松島セット論」を観念的な形で認めても実害がない(『竹島問題100問100答』Q81・187頁塚本孝解説は判例を紹介)。 削除

2016/10/17(月) 午後 8:46 [ Gくん ] 返信する

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