nobyさんからの情報です。 東北アジア歴史財団のサイト
宮内府雜綴 慶尚南道鬱島郡地方状況
一 本島地方東西三十五里南北四十里 東日本國隱岐縣海里一千里 西三涉地海里八百里 南釜山港海里一千里 北元山港海里一千里 一 三面二十洞戸口九百戸人口四千四百七十口 一 日本人來住戸數二百一戸人口六百六十七口 一 全島内無里數平地島内水畓勤爲二十斗落故山上火田耕作農業所産大豆牟麥玉𦬸甘蔗 一 海産烏賊魚甘藿海衣等 一 海島中惡風太甚綿麻不成無海風則温暖毎年十月爲始翌年二月至積雪不爲通行 一 錢貨不通人民日用事物以秋太爲務交易通貨於日本商賈 一 通渉船便日本風帆船一年内自二月六七月間順風則通渉冬節則永不通涉故人民等貿物次到釜港七月以前若不還歸則過冬後翌年正月以後還歸本島事 <コメント> 「鬱島郡の範囲は東西14km、南北16kmということだから竹島(独島)は含まれてないよね?」と指摘したら、韓国人は何と答えるのでしょうね。 「独島は日本が1905年に強制的に侵奪したからやむなく書いてないのだ!」かな? 日本は竹島に警備隊なんぞ置いていたわけではないのだから、竹島(独島)は勅令41号に規定された鬱陵島の付属島だと思うのならそういう扱いをしておいて良かったんじゃあないですか。 |
全体表示
[ リスト ]
- 連携サービス
- 知恵袋|
- textream(掲示板)|
- ロコ|
- 求人
コメント(32)
たしかに、下記のサイトでGTOMRさんがコメント欄(4/12/07 13:42)に紹介していますね。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2007/12/1894-1948-korean-territory-revised.html
2017/3/12(日) 午前 7:48 [ nob*7*84 ] 返信する
ネラーさんご指摘ありがとうございます。
御指摘を受けて、ゲーリーさんのブログの検索機能を調べてみましたら、漢字による検索が全く出来なくなっていました。これが同氏による記事の更新がされなくなったことに起因するのか、彼が何か設定を変えたのか不明です。nobyさんもよく当該のコメントを見つけることが出来ましたね。私には見つけられなかった。
matsuさんも、Chaamiey さんも、makotoさんも記憶に残っていなかったのは、コメントの引用文が、記事全体ではなく範囲の数字だけだったからだと思います。この記事で重要なことは、「鬱島郡守 臣 沈能益」の報告であることで、GTOMRさんのコメントには、その指摘がないのですから、読者に重要な点が気づかれなかったということだと思います。今後ともネラーさんの慧眼による御指摘をお願いします。その際、URLと投稿日付を付記して下されば助かります。
2017/3/12(日) 午後 6:33 [ 小嶋日向守 ] 返信する
小嶋さん、私は全然たいしたことないですよ。2ちゃんねるハングル板の「竹島総合スレ144島」の184レス目に参照先URLが書いてありましたから。
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/korea/1479382712/
朝起きてこのスレを見たのですが、「nobyって誰?」と書いてありましたので、一瞬で目が覚めました笑
ネラーさん、情報ありがとうございます。
2017/3/12(日) 午後 7:50 [ nob*7*84 ] 返信する
あのコメントを記憶しているというのはすごいですね。2007年には私はまだあのブログには参入していませんでした。2007年に始まっていたんですね。
2017/3/12(日) 午後 8:47 [ Chaamiey ] 返信する
この1909年の沈能益の報告書に対して、2016年9月30日に、洪政院という人が『朝鮮の鬱陵島・独島認識と管轄』という論文で、唖然とするような読解をしています。
「[PDF]朝鮮의 欝陵島·獨島 認識과 管轄 - 국립중앙도서관」で検索してクリックすると自動的にダウンロードされます。
この論文の260コマ目に、この韓国人は、以下のような解釈を述べています。
「鬱島郡守沈興沢の後任である沈能益郡守も独島管轄認識をずっと持っていた。」
「もし大韓帝国政府が日本の独島編入を認めて独島が大韓帝国と日本の国境になったとすれば、鬱陵島の東側境界は当然「竹島」としたはずだ。ところが沈能益郡守は、鬱陵島の東側の境界を日本の隠岐として鬱陵島から距離が1千海里だと記述して、独島が鬱島郡の管轄であることを示してくれているのだ。」
この人は、245コマでは、「鬱島郡の配置顛末」の記事についても解釈しています。
あまりにも思考感覚が違うので、脱力感を覚えます。
2018/4/29(日) 午後 5:08 [ 小嶋日向守 ] 返信する
洪政院氏は、「配置顛末」と「池田公函」の記事について、コマ番245で見解を述べています。
「内部は「独島」を十分に熟知していたと思われる。それにも関わらず、日本との独島領土問題が発生する可能性のある時期に鬱島郡の所管の島を独島ではなく、「石島」と述べた。この理由は、むしろ石島がすぐに独島であることがあまりにも明らかだからではないかである。」
として、柳美林の論文を引用して、里数の記載は、伝統的な鬱陵島本島の大きさの認識だろうとしています。またこの時期の統監府と内部のやりとりに関して、
「これについては、今後、追加の資料調査が裏付けされることを期待したい。」
と書いています。
洪政院氏は、1900年の請議書と1909年の郡守報告にある、鬱島郡の範囲の里數を鬱陵島本島の大きさを示すものだと誤魔化しています。
2018/5/7(月) 午後 5:07 [ 小嶋日向守 ] 返信する
1900年の請議書に関する珍解釈も「面白い」です。
コマ番200
「ではなぜ于山島が石島に名称が変遷したのだろう。これに対する手掛かりを探すために「勅令第41号」(1900年)の根幹となる内部の設郡請議書、すなわち「鬱陵島を鬱島に改稱し島監を郡守に改正する件に關する請議書」(1900.10.22)を入念に調べなければならない。」
「ラポルテが1899年に視察した後の報告書と、これを紹介した皇城新聞の記事はあるが、ラポルテの1900年の鬱陵島視察後の報告書は、伝わらないので具体的な内容を知ることができないのが実情である。」
「内務部の資料を根幹に作成された「勅令第41号」(1900年)の鬱島郡の管轄区域は、この3人の中で誰かの報告によって決定された可能性が非常に高い。その報告は、独島を指す名称だった于山島ではなく、石島と表記されたものと思われる。鬱陵島の人々にとって于山島はすでに忘れてしまった島の名称だったからだ。」
2018/5/7(月) 午後 6:17 [ 小嶋日向守 ] 返信する
コマ206から207でも洪政院氏は、この説を強調しています。
「前にも述べたように內部は鬱陵島管制を改正する「欝陵島を欝島に改稱し、島監を郡守に改正する件に関する請議書」(1900.10.22)を議政府に上げながら、島監の裵季周の報牒、鬱陵島視察官禹用鼎と釜山税関税理士ラポルテの視察録を参酌して作成したと報告した。現在、これらの報告書が伝わらないので確認することはできないが、「勅令第41号」(1900年)の鬱島郡管轄区域は、これらの報告書を使用して決定された可能性が非常に高い。当時の鬱陵島の人々にとって于山島はすでに忘れてしまった島の名称だったのは、先に明らかにしたとおりである。」
へぇー。ふーん。たしかに、1898年の鬱陵島に島監を置く請議書にも「該島は海水中に孤立して、陸地から距離があり絶遠して舟楫がなければ通行不能」としていて、「于山島」の記述はないですもんねぇ。
2018/5/7(月) 午後 6:29 [ 小嶋日向守 ] 返信する
コマ197にあるように、新聞記事を書いた記者は、歴史書を紐解いたので于山の名称を知って書いたのであって、この当時は、于山の名称は、忘れられてしまっていたという解釈です。
でもそれじゃ、フェルディナント・H・メーゼルの1895年の「朝鮮知識の宝庫」の鬱陵島と于山島の説明をどう解釈するのだろう。
blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/57654775.html
「南東には、一つの小島があります。深い水道によって、本島とは、4分の1 マイル(463m)隔たっていて、高さは、約500フィート(150m)あり、「于山」と呼ばれます。至近距離から調査してみないかぎり、上陸は不可能に思えます。しかし、本島から突き出ている地点と、「于山」との間に小さな海岸があり、船舶は、この海岸に近いところで、深さ16尋から25尋の錨地を見い出すことができます。しかし、この停泊地が利用できるのは、天候が良いときに限られます。」
dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2011/08/1895-korean-repository-vol-2-page-412.html
2018/5/7(月) 午後 7:04 [ 小嶋日向守 ] 返信する
細かな訂正です。
二つ上の5月7日午後 6:29のコメントで、
「1898年の鬱陵島に島監を置く請議書」としましたが、内容がよく似た
「1895年の欝陵島に島監を択(えら)んで置く請議書」でした(笑)。
本ブログでの参照URLは以下です。
blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/58089789.html
2018/5/11(金) 午前 0:56 [ 小嶋日向守 ] 返信する
洪政院氏の主張に反論してみます。
当該地域の東西南北の4方面にある主要な地名と距離を書くことで、該当地域の位置を説明する手法は、朝鮮の地理書に見られる伝統的な手法ですね。
結論から言うと、鬱島郡の説明文は国境を意識したものではなく、周囲の主要な地名を書いたものに過ぎないということです。
鬱島郡における説明を抜書きしてみます。
【鬱島郡】
東日本國隱岐縣海里一千里
西三涉地海里八百里
南釜山港海里一千里
北元山港海里一千里
また、釜山付近にある機張郡では、下のように書かれています。
【機張郡】
東接梁山界四十里
西接東萊界二十里
南海門二十里
北接梁山界四十里
http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/VolView.jsp?aa10no=kh2_je_a_vsu_23637_001&aa15no=001&aa20no=23637_001_0003&keywords= %E5%9C%B0%E6%96%B9%E7%8B%80%E6%B3%81
2019/3/10(日) 午前 8:37 [ nob*7*84 ] 返信する
機張郡は東・西・北で別の郡県と接しており、郡の中心地(邑城)から各境界までの距離を説明しています。
方角に続いて「接」の字がありますので、境界を意識しているものと思われます。
また、南には海までの距離を書いており「接」の字はありません。
ここであらためて鬱島郡の記述を確認すると、機張郡と違って「接」の字がないことが分かります。
すなわち鬱島郡の説明文は周囲との境界を記述する意図はなかったということです。
鬱島郡は海上の島嶼であり周囲の境界線は不明瞭ですから、自らの位置を大まかに説明するだけに留めたのでしょう。
さて、自らの位置を説明するための比較対象となる周囲の地名は、有名かつ主要な土地である必要があります。
北と南は元山港と釜山港を書いていますし、鬱陵島からの航路先でもあった主要な土地を書いたことは明らかです。
その意味で隠岐と竹島を比較すると、どちらを記述するのがふさわしいか?
明らかに隠岐です。
当時は鬱陵島との間に定期航路があったし、面積・居住性・歴史を考えても韓国にとって隠岐は主要な土地です。
東方面に竹島ではなく隠岐が書かれたのは当然です。
2019/3/10(日) 午前 8:42 [ nob*7*84 ] 返信する
おお素晴らしい
. ∧∧ ....。:*゚
(*‘∀‘)b.. ☆ nobyさん グッジョブ!!
.(| ...../´...... ゚*:。..
2019/3/10(日) 午後 4:20 [ 小嶋日向守 ] 返信する
nobyさんGJです。この09年の史料は、06年「鬱島郡の配置顛末」を補強する史料として使えそうです。「配置顛末」での向こうの主張は、珍説の類いです。石島=独島はあまりにも明らか< ならそれ相応の根拠があるはずで説明すべきです。東西・南北の里数は、< 鬱陵島本体の里数だというのも、統監府からは”郡”の範囲を訊かれていますしね。
この09年史料の解読する実力はありませんので、nobyさんと管理人さんにお任せします。これについても、里数は、鬱陵島本体としています。史料表題は、慶尚南道鬱島郡地方状況< としていますので、鬱陵島本体と観音島などの岩石島を含む郡の里数と解する方が自然です。最大の論点は、nobyさんが提示しています>東日本國隱岐縣海里一千里< です。これも隠岐という島ではなく、隱岐縣との行政区画です。当時竹島は、隠岐島司(具体的には当時隠岐島庁五箇村)所管です。これも、意味があるかも知れません。
2019/3/10(日) 午後 7:31 [ Gくん ] 返信する
>nobyさん
沈能益が、「海里一千里」という記述をしている意味について、洪政院氏は、「鬱陵島から距離が1千海里だと記述して」と解釈しています。
本来は、「海里一千里」という意味は、「海里」が、「海上の距離」、「海上のルート」で「千里」という意味でしょう。1909年の朝鮮の千里は、すなわち、約400km(厳密には、392.727km)と解釈するべきです。しかし洪政院氏の「1千海里」という記述では、「1000海里(浬)=1852km」という意味にも受け取れてしまいます。この表記も学者としては無頓着で、杜撰です。
なお、沈能益の日付は、1909年1月となっていますが、報告書のデータそのものは、1908年中のものと考えられます。
2019/3/10(日) 午後 11:38 [ 小嶋日向守 ] 返信する
さて、そうすると、このわずか二年前の1906年3月に、前郡守の沈興沢が、「独島は外洋百余里に在る」と報告したわけですから、千里という数字とは大きな開きがある。
この点で、洪政院氏は自信をもって、「沈能益は、隠岐県の竹島所管を認めていなかった」と主張しているわけですね。
nobyさんの論理でも、ここに書かれている「隠岐県」とは、隠岐支庁のある島後、または島前・島後を示しているという理解だと思います。
こうして、nobyさんは、「千里」の矛盾を見事に論破したわけです。
それなのに、そこを蒸し返すのは、些か無粋な感じは否めません。
ところが、それは、問題ないのです。なぜなら、1906年5月ないしは、1906年7月には、「鬱島郡更新地図」が完成していたわけで、韓国政府は、それを日本側に示して、竹島の日本帰属を認めていたことが明らかだからです。もともと、千里という数字の距離は、厳密なものではなく、極めて遠いという程度の意味合いでしょう。
2019/3/10(日) 午後 11:44 [ 小嶋日向守 ] 返信する
過去記事「1906年鬱島郡の範囲を示す地図?」< 初めて拝読いたしました。そうであるならば、06年7月の「鬱島郡の配置顛末」記事は、ますます補強されますね。
2019/3/11(月) 午後 0:16 [ Gくん ] 返信する
「鬱島郡の配置顛末」・「池田公函」・「各郡地形更図」の記事は、三つとも、1906年7月13日の記事ですので合わせて読むと状況が判ります。
萬歳報の「各郡地形更図」の最初の「統監府에서内部로公文하야」は
皇城新聞の「統監府から内務部に公函があって」にあたる部分ですね。
大韓毎日申報の「池田氏が説明を求めた公文を送った」という記事はこの画像です。
3.bp.blogspot.com/-GBczNLiBl5c/VY6cOaQKiNI/AAAAAAAACKE/-26bXFJI4O4/s1600/1906%2BJul%2B13%2B-%2BUldo%2BCounty%2BBoundaries%2B-%2BDaehan%2BMaeil%2BSinbo.jpg
参考URL
blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/57250872.html
blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/58084978.html
2019/3/11(月) 午後 9:28 [ 小嶋日向守 ] 返信する
記事画像の補足です。
鬱島郡の人口と戸数の調査が完了したのは、1906年9月のことです。同郡の更新地図は、遅くとも同年9月には完成していたことでしょう。
1906年9月26日付 『鬱島調査』大韓毎日申報
i.imgur.com/aN16OuJ.jpg
1906年9月26日付 『鬱島戸口』皇城新聞
i.imgur.com/h70gjKn.jpg
2019/3/12(火) 午前 11:12 [ 小嶋日向守 ] 返信する
大韓毎日申報では、鬱陵島の戸数が614戸で、男女合計3082人というものです。この足し算は、間違っているかも知れません。理由は、皇城新聞の記事とでは、戸数614戸は一致するものの、男1916人と女1116人を合わせた3032人とは50人違いがあるからです。どちらが正しいのか分かりません。
この記事に関しては、
1906年9月26日付の帝國新聞にも記事があるそうです。
私は、この記事を入手出来ていませんので、数字は不明です。
韓国国立中央図書館には、この新聞のその時期の所蔵が無く、ソウル大学図書館にはこの日付の新聞の所蔵があるらしいです。というのは、洪政院氏はどこかで見ているようだからです。
2019/3/12(火) 午前 11:15 [ 小嶋日向守 ] 返信する