4. アシカ漁労に対する課税を「実効支配」の証拠として提示したことに対しては、なぜ反論しないのか? 島根県竹島問題研究会は、前回韓国側が『「竹島問題100問100答」に対する批判』において日本の「Q36 日本の竹島領土編入前に韓国(朝鮮)が竹島を実効支配したという証拠があるのか?」に対する反論として、「韓国人は日本が編入する前から独島に渡海していた。」という題名で反論するとすぐに、今回は「反論の題名をこのようにタイトルを変えてしまったのは、朝鮮・大韓帝国時代を通じて韓国が「実効支配」していたという明確な証拠が全くないという事実を吐露していると考えられる」と批判した。批判というのは、普通、内容に対して行うことだ。題名だけを持って、それが日本側の批判に対応できないということを意味するのだと判断するのは本末転倒であることをまず指摘したい。 張漢相は「鬱陵島事蹟」(1694)において鬱陵島の他に別の島たり得るものについていくつか言及している。一つは鬱陵島の東側に海蔵竹が育つ島で、他の一つは聖人峯に登って見た東南側のかすかに見える島だ。私たちは海蔵竹が育つ東側の島を竹島と、東南側のぼんやりした島を于山島(独島)と見ている。鬱陵島の周囲には島が多くないので、張漢相が記述した島を特定することができるためだ。したがって、張漢相の記録に基づいて彼が描写した東南側の島を「于山島=独島」と見ることは暴論にならない。 山﨑は「そもそも張漢相は後に‘于山島は鬱陵島の西側にあって広大だ(其西又有于山島而亦且広潤云矣)’と言及していて、張漢相が考えた于山島が現在の竹島だとは到底考えることはできない。柳美林氏の主張は資料に基づいておらず、また、論理的にも欠陥があるというほかはない」とした。山﨑は引用文の根拠に『朝鮮王朝実録』英祖11年(1735)1月17日付けの記事を提示したが、この記事にはそのような内容はない。これは張漢相のことばではなく、江原監司趙最寿の状啓に対する英祖の質問に対してキム・チュイロがした返事だ(注17)。キム・チュイロは鬱陵島の西側に牛山島があって非常に広大だといった。張漢相が行った年度を間違えているほど英祖年間の情報は不確かだった。 山﨑が引用した内容は『東史約』にも載っているが(注18)、これは李源益(1792~1854)の編纂だ。純祖年間に編纂されたものだからより不正確だ。批判するには一次史料に基づくほうが良いだろう。 (注17)『備辺司謄録』英祖11年1月18日;『国朝宝鑑』第61巻英祖11年(乙卯) 1月。『備辺司謄録』には張漢相が行った年を丁丑年(1697)と戌寅年(1698)とあるが、張漢相が行った年は甲戌年1694年だ。 (注18) 「江原監司趙最壽啓請 今年歉荒停鬱陵島搜討 上以問筵臣對曰 往在丁酉倭人來請此島 故朝廷特遣張漢相 圖形蓋其地廣土沃有人居舊址又有于山島亦廣闊 遂定三年一搜之法矣 遂命搜討如例」 地図に普通于山島が西側に描かれている場合は、朝鮮初期の「八道総図」に于山島が鬱陵島の左側に描かれていた慣行が中期まで持続していたためだ。実測図以前の地図において私たちが認識しなければならない事実は、東海上に二島があるという二島認識がその根底にあるという点だ。しかも張漢相は「于山島」と言明したことがない。 日本は「柳美林氏の主張は資料に基づいておらず、また論理的にも欠陥があると言わなければならない」というが、誤った資料に基づいて主張を述べる側に欠陥があるのではないのか反問したい。 日本は繰り返し韓国側に1905年以前に独島を実効支配した証拠を提示することを要求してきた。筆者は1882年開拓令以前から朝鮮人が鬱陵島に往来して独島にも往来したという事実、そして独島での漁労、特にアシカ漁労に対して1905年以前に郡守が課税した事実を挙げて「実効支配」を立証してきた。 これに対し、日本は、アシカ課税は鬱陵島で加工した[産品]を輸出したことに対する課税であるから独島に対する主権行為と見るのは難しいと主張する。この時、傍点(強調点)が鬱陵島での加工品というところにあるのか鬱陵島からの輸出品というところにあるのかも曖昧だが、二つの場合をどちらも検討してみよう。 まず、鬱陵島での加工品であるから独島と関係ないかを見れば、当時は原産地と加工地の区分がなかった時代であった。だから鬱島郡守が(独島)アシカに課税した理由は、鬱陵島で加工されたためではなかった。それでもあえて日本が原産地と加工地を区分して話しをしようと思うならば、原産地は二種類の場合に区分される。当時、日本の船舶が独島を大韓帝国の領海と見てアシカを捕獲したとすればこの時のアシカは大韓帝国産に分類されるが、日本の主張のように独島を無主地と仮定するならば、日本人が日本の船舶で捕獲した独島アシカは旗国主義により日本産になる。そしてこれを鬱陵島で加工して輸出したとすれば、大韓帝国が日本産を輸入して加工した後に再び日本に輸出したことになる。それなら、これは日本産の日本への輸送、すなわち内国輸送あるいは再輸入(搬出)に該当する。したがって、これを輸出ということはできない。それなら鬱島郡守は日本人から輸出税を徴収できない。このような論理のとおりならば、当時日本外務省が主張した「輸出税」は成立し難い。したがって当時日本外務省が主張したとおり日本人たちが郡守に「輸出税」を納付したという事実が成立するには、鬱陵島で加工された独島アシカといっても大韓帝国産と見ればこそ可能だ。換言すれば、日本人たちが独島を鬱陵島の属島と認めてこそ独島アシカは大韓帝国産となって「輸出税」という名目が成立するのだ。 二番目に、鬱陵島からの輸出品であるから独島とは関係ないと言えるかを見れば、「朝日通商章程」(1883)に基づいて説明することができる。この通商章程の第9条によれば、通商港での輸出入貨物は関税を納付することになっているが、当時はこれを通商入港税と出港税と呼んだ。鬱陵島は通商港ではないので原則的には関税を徴収できないが、日本が慣行的に納税してきたので通商章程を鬱陵島に適用することができる。鬱陵島輸出品に対する税金はまさに「朝日通商章程」にいう関税に該当して、1902年「鬱島郡節目」にある「出入りする貨物に対する税」に該当する。ただし、鬱陵島では輸入品に対しては関税を賦課しなかったので輸出品にだけ該当する。鬱陵島の通過貨物に賦課される税金であるから独島と直接的な関係がないという主張は、関税でない今の「出港手数料」を念頭に置いたものだが、船舶に対しては別にトン(t)税を徴収していた。 港に入ってくる貨物〔進口貨〕や出て行く貨物〔出口貨〕に対する税金については入港税と出港税と呼んだし、これらはいずれも(輸出入)関税を意味する。したがって、鬱陵島を通過する貨物に対する税金であるから独島と関係ないという論理は成立しない。 通商港において貨物を規定により手続きを踏まなかった場合、海関はその貨物を没収する権利があったが、まして通商港ではない場所での輸出入貨物に対してはどうだったのか? 日本人たちが税金という名目の下に納税を志願したことはこのためだ。また、鬱陵島の日本人たちが郡守の課税を避けることに目的を置いたとすれば、島根県から来た中井養三郎を始めとする漁業人にアシカを販売して来る方法もあった。ところが鬱陵島の日本人たちは、あえて鬱陵島に運んで税金を納付した後に日本に輸出した。そして、当時の外務省はこのような自国民の納税を「輸出税」と主張して居住権を要求した。 今回の反論で、山﨑は鬱島郡守の課税権行使に伴う「実効支配」に対しては再反論をしなかった。その代わり、1900年代の外務省官吏の復命書と地図で「于山島」を独島と見るのは難しい場合だけを抽出して于山島が独島でないことを立証するのに援用している。韓国側史料で独島と関連付けることができる島嶼としては、于山島の他にも三峰島、可支島、石島、独島がある。このうち三峰島と可支島は鬱陵島を示す時もあって独島を示す時もある。于山島もやはり同じだ。于山島が一貫して独島を示すのではないが、全体的な脈絡で見れば鬱陵島よりは独島を示す時がより多い。文献の内容を文脈上で見ずに断片的な事実だけを選別して自身の主張を後押しするために歪曲することは、客観的な研究だというのは難しい。 4. アシカ漁労に対する課税を「実効支配」の証拠として提示したことに対しては、なぜ反論しないのか? (終) |
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コメント(11)
「これは李源益(1792~1854)の編纂だ。純祖年間に編纂されたものだからより不正確だ。」
たしかに、王朝実録の方にはその記述はないです。
英祖實錄 卷四十 英祖十一年 一月十三日 甲申條
江原監司趙最壽啓言 欝陵島搜討 今年當行 而歉歳有弊 請停之 金取魯等曰、 徃在丁丑 倭人請得此島 朝家嚴斥 而遣張漢相 圖形以來 定以三年一往 不可停也 上可之。
しかし、英祖年間の「備辺司謄録」に出ています。
備辺司謄録 英祖十一年 一月十九日の條
又所啓、江原監司趙最壽状啓、(中略)
丁丑·戊寅年間朝家送張漢相、看審圖形以來、而聞鬱陵島、廣闊土沃、曾有人居基址、或有往來之痕、其西又有于山島、而亦且廣闊云矣、其後仍有三年一搜討之定式
(後略)
2017/12/6(水) 午後 5:06 [ 小嶋日向守 ] 返信する
先だって富山大の藤本教授が見いだされた写本にも記述がありました。
blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/57804298.html
「欝陵島地廣土沃有人居旧址、而其西又有于山島、亦廣濶」
blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/53024845.html
「英祖11年(1736年)、江原道監使の趙最寿が状啓をあげて言うには.....(以下略)
英祖十一年(享保二十年)(1735年)一月十三日甲申 西暦1735年2月5日
英祖十一年(享保二十年)(1735年)一月十九日庚寅 西暦1735年2月11日
一次史料で、「而聞鬱陵島、廣闊土沃、曾有人居基址、或有往來之痕、其西又有于山島、而亦且廣闊云矣」と明確に出ているわけです。なお、「備辺司謄録」の英祖十一年一月十九日の條は、画像が見られず、「基址」なのか「舊址」なのか確認できません。張漢相の「鬱陵島事績」の表現には、「人居之舊址」と「人居基址」の二つがあります。
dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2009/05/1693-1703.html
2017/12/6(水) 午後 5:21 [ 小嶋日向守 ] 返信する
なお、1694年から1703年までに書写された朴世堂の『西渓雑録』の記述では
dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2009/03/1693-1703.html
(前略)
雨霽雲捲之日、入山登中峯。則南北兩峯、岌嶪相向、
此所謂三峯也。西望大関嶺、逶迤之狀。東望海中、
有一島、杳在辰方。而其大、未満欝島三分之一。遠不
過三百餘里。而、南北両方、即杳茫。無際水天一色。是
齊。自中峯、西至海濱三十餘里、東至二十餘里、南近
四十里、北至三十餘里。互回往来。四(西)望遠近、臆度[如斯]
是齊。西邊大谷間、有人居基址三処。又、有[人居基地、二]
所北邊長谷、又有人居基址二所。東南長[谷、有人]
居基址二所、西南間大谷、有基址七所、石葬[十九所]
(後略)
2017/12/6(水) 午後 5:51 [ 小嶋日向守 ] 返信する
備辺司謄録の乙卯(1735年)正月十九日の画像がありました。
dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2012/09/1735-jan-19_12.html
Huuum? うーん? 一体何の事を話題にしているの?
という方は、以下の記事をお読み下さい。
dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2007/10/1694-jang-han-sang-finds-sambongdo.html
dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2009/05/1693-1703.html
2017/12/6(水) 午後 6:25 [ 小嶋日向守 ] 返信する
備辺司の記録にある「鬱陵島、廣闊土沃、・・・・・其西又有于山島、而亦且廣闊云矣」は、これを言ったのはキム・チュイロ(金取魯)のようですが、そういう情報の出どころは調査のために送った張漢相ということなんでしょうかね。
2017/12/6(水) 午後 9:46 [ Chaamiey ] 返信する
この「鬱陵島の西には于山島があり、また広大である」という文章は様々な文献に引用されているようです。于山島の情報として、朝鮮国内で広く知られていたものだと思われます。
◎『國朝寶鑑』 「其西又有于山島者 亦甚廣潤」
http://db.itkc.or.kr/imgviewer/item?itemId=BT#imgviewer/imgnode?grpId=&itemId=BT&dataId=ITKC_BT_1295A_0620_010_0020
◎『大東地志』 「其西又有于山島 亦廣闊」
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=sd.d_0043_0010
◎『紀年便攷』 「其西又有于山島 亦甚廣闊」
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=sd.d_0030_0010
◎『小華亀鑑』 「又有于山島 亦廣闊」
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=sd.d_0100_0010
2017/12/6(水) 午後 11:12 [ nob*7*84 ] 返信する
柳美林先生は、キム・チュイロの言葉について張漢相の鬱陵島捜索年が不正確であることを挙げて信憑性を否定しようとしますが、その一方で前回の(11)ではこのようなことを書いています。
>下條は朴錫昌が述べた「いわゆる于山島」が竹島である点、そして安龍福が陳述の過程で若干の偽証をした点、安龍福が竹島から松島までを50里だとした点など不正確な陳述を挙げて于山島が独島であることを否定しようとするが、こういうことは于山島が独島であることを否認するほどの決定的な要因ではない。
いわゆる「自分がすればロマンス 他人がすれば不倫」というやつですね。(笑
2017/12/6(水) 午後 11:13 [ nob*7*84 ] 返信する
最近物覚えが悪くなってきまして…(笑)
「アシカ漁労に対する課税」については、
1.輸出入された加工物の原材料である「アシカ」は、「竹島産」のものか「鬱陵島産」のものか定かではない。
2.特に「鬱島郡節目」は施行されていない法令であり、これに依拠する実効的支配の主張は無意味。
3.民間人の渡海・漁猟は私人の行為であり、領土権取得に関わる「主権者による直接的な占有(実効的支配)」とは異なる。
4.「私人(漁師や加工業者)への課税」は、領土権取得に関わる「主権者による直接的な占有(実効的支配)」とは異なる。
と理解していましたが…
何か新しい進展があったのでしょうか…
「朝日通商章程」云々は、鬱陵島は通商港ではないので適用除外ですし。
2017/12/7(木) 午前 1:07 [ mam*to*o*1 ] 返信する
柳美林が、無理筋のアシカ税にこだわるのはもはや芸風ですね(笑)
丁丑戊寅年間という表現に関しては、1694年に張漢相が鬱陵島を検察して以降、およそ三年毎に検察が行われたというのですから、1697年から1698年の間に、張漢相の二回目の検察が行われた可能性もあるのではないでしょうか。
安龍福の「すこぶる大きな島」という話も含めて、広大な于山島という概念については、1735年以前から1880年代まで多くの朝鮮人が一貫してその存在を信じていたという点が重要だと思います。
張漢相が、1694年の検察報告でどう報告したかではなく、どう受け止められたのかということです。「人居基址」や、鼬イタチの異体字である「犭+由」(獣偏に由)(Unicode3E68) の字が猫と誤読されて猫・鼠になっていく経過など、張漢相の報告は大きな影響を与えながら、鬱陵島の様子は不正確に伝承された。
これこそが韓国人が、日本領土竹島を知らなかったことの証明です。
2017/12/7(木) 午後 6:10 [ 小嶋日向守 ] 返信する
読み直すと
4.「私人(漁師や加工業者)への課税」は、領土権取得に関わる「主権者による直接的な占有(実効的支配)」とは異なる。
が誤解を招きそうな表現なので補足します。
領土取得に関わる実効的支配は「主権者による直接的かつ現実の占有」に限定されています。
そのため行政上の措置の存在がすぐさま実効的支配の証拠として自動的に認めるわけではありません。
それは「領域そのものに対する主権の行使」また「国の領有意思が認められるもの」という意味で「直接的」でなければならないわけです。
「課税」は一見して実効的支配の一つの形態と見えるかもしれませんが、重要なのは「何に対する課税」なのかです。
「(竹島という)領域そのものに対する課税」と「(鬱陵島の)韓国の漁師や加工業者への課税」は別のものです。
2017/12/8(金) 午前 0:13 [ mam*to*o*1 ] 返信する
リギタン・シパダン島事件では、マレーシアの漁師達の経済的活動は「私人の行為」として一蹴されています。
それに対してパルマス島事件では「係争地の土地家屋に対する登記税」、マンキエ・エクレオ事件では「官吏が直接に赴いてその領域の住民から地方税を徴収」は実効的支配として認められています。
特にリギタン・シパダン島事件では、実効的支配に「具体的な資料により疑義の全くない行政権の発現」が求められています。そのため島の名称が直接記載された行政文書に証拠価値を認めているわけです。
「鬱陵島の私人に対する課税だけど、原材料は独島から取ってきた『はず』だから…」などというのは「間接的」な「推測」に過ぎないわけです。
よって
4.「私人(漁師や加工業者)への課税」は、領土権取得に関わる「主権者による直接的な占有(実効的支配)」とは異なる。
ということになります。
言葉足らずで失礼しました。
2017/12/8(金) 午前 0:14 [ mam*to*o*1 ] 返信する