『新増東国輿地勝覧』には次のような内容が記述されている。 于山島、鬱陵島 【武陵ともいい、羽陵ともいう。二島は県の正東側の海にある。三つの峰が高く聳え立って空をつくが、南側の峰はやや低い。天気がよければ峰の上の樹木と山の下の砂浜を歴々と見ることができる。】(注9) (注9)【一云武陵 一云羽陵 二島在縣正東海中 三峰岌嶪撑空 南峰稍卑 風日淸明 即峰頭樹木及山根沙渚歴歴可見 風便則二日可到 一説于山鬱陵本一島 地方百里......】 これに対して日本は次の通り主張する。 『新増東国輿地勝覧』には「見える」の前に「峰頭の樹木と山の下の砂浜」という内容がある。これは岩礁であるタケシマを指すのではない。タケシマには「峰頭の樹木と山の下の砂浜」がないためだ。したがって、ここで「見える」というのは「管轄の官庁から管轄される島嶼までの距離と方向」を記述することにした「規式」のとおりに蔚珍県から鬱陵島が「見える」と記述したのだ。 『新増東国輿地勝覧』では「于山島、鬱陵島」として二島に共に言及している。そして二島は県の「正東の側にある」としているので、本邑からの方向を記述することにした規式のとおりに記述している。ただ、ここで「三つの峰」以下の内容がどの島を指すのかは明らかでない。峰頭の樹木と山の下の砂浜が見えるということなので、樹木が全くない「于山島」すなわち独島を形象化したものと見るのは難しい。「武陵ともいい、羽陵ともいう」とある事実から推察するところ、この内容は「鬱陵島」に関したものだということが分かる。したがって「〔歴歴可見〕」とある内容も陸地(蔚珍県)から鬱陵島が見えるという事実を言ったものであって、鬱陵島から于山島が見えるという事実を言ったものではないことが分かる。それならば、『新増東国輿地勝覧』が歴々と「(可見)」と言っているのは、『世宗実録』「地理志」が「天気が良ければ眺めることができる」とする時の「〔可望見〕」と言ったこととは、その脈絡が全く違うということが分かる。 ところが、下條は「同じ基準の「規式」で編纂された「見える」という内容が『世宗実録』「地理志」では于山島と鬱陵島の間のことを指して、『新増東国輿地勝覧』では陸地から鬱陵島が見えるというなど別に解釈されることはできない」と主張する。そして「『東国輿地勝覧』(蔚珍県の条)の「見える」が陸地から見た鬱陵島を示すならば、『世宗実録』「地理志」が「見える」としたのも朝鮮半島から見た鬱陵島を示す」と主張する。二つの文献に記述された内容と脈絡が違うのに、これを「規式」云々して同じ基準で把握しなければならないと主張するのは論理が合わない。 この問題を実証するために、『新増東国輿地勝覧』に記述された例を見よう。『新増東国輿地勝覧』にも島嶼に関して記述した内容がある。例えば、慶尚道鎮海県の大凡矣島と小凡矣島については「【いずれも県の南側にある(倶在県南)】」と記述している。大酒島と小酒島については、「大酒島【周囲は20里だ(周二十里)】、小酒島【水路は16里だ。 二島の間は20歩で、引き潮になれば陸地に続く(水路16里両島隔二十歩潮退則連陸)】」と記述している。慶尚道熊川県の白山島と黒山島については、「【いずれも県の東側にあり、水路は20里、二島は1里離れている。 (倶在県東水路二十里両島隔~里)】」と記述している。 上の記述で共通しているのは、二つの島嶼名を羅列した場合ではあるが、「いずれも県のどちら側にある」という式で方向を記述するものの、二つの島間の距離が分かれば記述して分からない場合は方向だけを記述しているという点だ。水路を記述した場合でも、陸地から「20里」、二島間の距離は「1里」とあるように、非常に近い距離だということが分かる。大酒島と小酒島について「両島隔二十歩」と記述したことは、二島が互いに20余歩以上は離れていない島であることを意味する。 そして、二島を羅列しているが、それぞれの島について分注形式でその島に関して記述していて、『世宗実録』「地理志」のように二島の名前を一つにまとめておいてそれに対して記述した形式とは異なる。つまり、『世宗実録』「地理志」のように「二島相去不遠」と記述したのではないということだ。このような差を無視して全ての島は陸地との距離を基準として記述するのが規式だと主張しながら、二島が一つに括られているものの互いが「遠く離れている島嶼」である場合にまで規式を無差別的に適用することはできない。 『新増東国輿地勝覧』の「歴歴可見」の意味も同じだ。『新増東国輿地勝覧』の記述は「于山島と欝陵島」という二島に関する内容だ。ただし以前とは異なって二島に関する内容を分注で処理している。この時「二島は県の正東側の海にある」としたので地理誌規式のとおりに方向を記述したという面では規式に適当だが、「三つの峰」以下の内容がどの島を指すかは上の記述だけでは現れない。これを地理誌規式に合わせて分析するには、記述方式が一つの島嶼名を書いてそれに関して説明する形態になっていなければならない。ところが『新増東国輿地勝覧』も『世宗実録』「地理志」と同じように「于山島、鬱陵島」という二つの島嶼名を書いている。むしろ、『世宗実録』「地理志」では「于山武陵」が余白なしであるのに比べて、『新増東国輿地勝覧』では「于山島」と「鬱陵島」間に余白がある。これは「于山島」に関しては説明する内容がないということを意味する。それにもかかわらず「于山島」という島名を消さずに「鬱陵島」とともに併記して二島の存在を明確にしている。続けて「天気がよければ峰頭の樹木と山の下の砂浜を歴々と見ることができて、順風なら二日で行くことができる」としたのが見えるから、これは「鬱陵島」という島に対する説明だということが分かる。それは、内容で峰頭の樹木に言及し、「武陵ともいい、羽陵ともいう」としていることにも現れる。したがって、この時の「歴歴可見」は蔚珍県から鬱陵島が見えるということを言ったのであって、鬱陵島から于山島が見えるということを言ったのではないということを明確に知ることができる。 したがって、二つの文章は違うように記述されたのだから解釈も違うことにならなければならないという事実が、この場合にも適用される。『新増東国輿地勝覧』の「歴歴可見」と『世宗実録』の「可望見」の「見」の字に固着して二つの地理誌がいずれも陸地から望んだ鬱陵島を指すと解釈するのは、二つの文献の脈絡を正しく把握できないところから出て来た誤りだ。 一方、朝鮮が中央集権的な郡県制国家であるから地理誌と地図が同じ規式に基づいて編纂されたという下條の断定こそ恣意的だ。上で論証したように、地理誌に規式があるのは事実だがその規式が全ての記述に一括して適用されるのではない。『慶尚道地理誌』から始まって『新撰八道地理志』、『世宗実録』「地理志」、『慶尚道続撰地理誌』、『(続撰)八道地理志』、『東国輿地勝覧』、『新増東国輿地勝覧』、『東国文献備考』につながるが、全て同じ規式に基づいて記述されたのではない。 したがって、それぞれの地理誌はそれぞれ記述されたとおりに解釈されなければならない。『世宗実録』「地理志」で言及した「見える」を「鬱陵島から見える于山島(独島)」と解釈するのは、日本がいうように「弁解のための議論」ではなく、正しい解釈に伴う正しい議論だ。 下條は、1693年に江戸幕府の命を受けた対馬藩が朝鮮側と鬱陵島の領有権を争った時、朝鮮側は『新増東国輿地勝覧』を根拠として鬱陵島は朝鮮領だと主張したし、対馬藩も同じに解釈して幕府に朝鮮領であることを報告したと主張する。しかし、対馬藩が鬱陵島は朝鮮領であることを認めることになった背景に『新増東国輿地勝覧』だけがあったのではない。対馬藩は朝鮮地図と『芝峰類説』も参考にした。そして、江戸幕府が竹島(鬱陵島)と松島(独島)がいずれも日本領でないと判断することになったことには、「朝鮮からは近くて日本からは遠いので朝鮮に属する」と把握した事実が大きく作用した。むしろ、幕府は対馬藩ではなく鳥取藩の回答に基づいたところがより大きい。 下條が主張した、『新増東国輿地勝覧』は『世宗実録』「地理志」を継承したものであるから、当然、『世宗実録』「地理志」の記述も朝鮮半島本土からの距離を記述したことになるという見解に対して、池内は「後代の解釈を前代に持って来たという点で誤っている」と批判した。また、池内は、『新増東国輿地勝覧』に「二島の距離は遠くなく」という内容はなく、これを持って『世宗実録』「地理誌」に「二島は互いの距離が遠くなく」とあるのが陸地からの距離を記述したものと解釈するのは無理だと指摘した。 下條は、『世宗実録』「地理志」は正本でなく官撰地誌の地位になかったと恣意的に蔑んだ。続けて、彼は『新増東国輿地勝覧』がむしろ官撰地誌の地位にあって以後の地理書における底本になったと評価した。下條がこのように評価する理由は、『新増東国輿地勝覧』に記述された「蔚珍から鬱陵島が見える」という内容は認めて、「鬱陵島から于山島が見える」と記述した『世宗実録』「地理志」を認めまいと思うからだ。しかも、下條は韓百謙と柳馨遠、金正浩、李孟休の地理誌などで「于山島」がなかったり于山島を鬱陵島と同じ島と見た事実、あるいは于山島を鬱陵島の別称と見た事実を取り上げ論じて、これらの文献で「于山島」関連の記述がないという点を『新増東国輿地勝覧』を底本にした事実と連係させている。これまた恣意的な判断だ。これらの文献は実録だけでなく東史などを網羅して記述しているので、『新増東国輿地勝覧』を底本にしたというほどの根拠は薄弱だ。
1 『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』の内容は文脈が異なる(終)
(強調は引用者=翻訳者による) <ちょこっとコメント> え? え? 「二島が一つに括られているものの互いが「遠く離れている島嶼」である場合」ですか? これって、もともと「二島相去不遠」(遠くはない)の解釈の話ですよ。 |
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コメント(8)
文献は記述されたとおりに解釈すれば良いんですよ。
『新増東国輿地勝覧』の「三つの峰」以降にある風景描写の対象は、「鬱陵島」ではありません。「于山島 鬱陵島」の二島が対象です。直前に「二島在縣正東海中」とありますから、二島の風景を扱っていることは明らかです。
もちろん、内容を見ると実際には鬱陵島の島影を陸地から見たものですが、当時の人達はこれを二島が重なって見えていると認識していたのでしょう。
当時の人が「鬱陵島」だけの風景だと認識して文章に記したとする柳美林先生の主張は、後代の解釈を前代に持って来た点で誤っている典型例なんですよね。
話がそれましたが、要するに『新増東国輿地勝覧』の風景描写の部分は、「二島が隣接して重なって見える、その島影は晴れた日に陸地から見ることができる」ということを書いていると思われます。
2017/12/4(月) 午後 10:34 [ nob*7*84 ] 返信する
この「二島が隣接して重なって見える、その島影は晴れた日に陸地から見ることができる」という文章ですが、それ以前の文献にも同じ内容と考えられるものがあります。
『世宗実録地理志』の「二島相去不遠 風日清明則可望見」という風景描写の部分です。
この部分の直前に「二島在縣正東海中」、二島は県(蔚珍県)から真東の海中にある、とありますから、文章作成者の視線は陸地から海を見ていることが分かります。
したがって、『世宗実録地理志』の風景描写の部分も、陸地から見て「(沖に浮かぶ)二島は隣接している」「(二島が重なった島影は)晴れた日に見ることができる」という意味であると解釈できます。
(「二島相去不遠」の解釈について、以前私は陸地と二島との距離のことだと投稿しましたが、最近になって二島間の距離を述べているものと考えるようになりました。管理人さん、ごめんなさい。)
2017/12/4(月) 午後 10:36 [ nob*7*84 ] 返信する
柳美林先生は、『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』の風景描写の部分について、描写の対象が違うと言います。しかし両文献の二島に関する内容が酷似していることを考えると、その解釈こそが恣意的だと思います。
「二島在縣正東海中」「地方百里」の文言は同一ですし、「風日清明 則~可見」の表現方法もほぼ一致しています。
風景描写の部分から後には、両文献とも二島の歴史的経緯を記していますが、挙げられた事件はほぼ同じ内容です。
・512年 異斯夫が于山国を征服
・930年 島民の白吉と土豆が高麗へ貢物献上
・1159年 金柔立が島を調査
・1417年 金麟雨が島民を退去
また『新増東国輿地勝覧』では、この後に以下の事件が記されています。
・1438年 南顥が島民約70人を捕縛
・1471年 三峯島の調査
これらは『世宗実録地理志』編纂(1432年)より後代の事件ですね。
要するに、『新増東国輿地勝覧』は『世宗実録地理志』の内容を増補修正したものと考えられます。少なくとも参考にしていることは明らかです。風景描写の部分だけ対象が違うと解釈するのは不自然です。
2017/12/4(月) 午後 10:38 [ nob*7*84 ] 返信する
結論として、両文献の風景描写はどちらも陸地から二島を眺めたものだと考えられます。
どちらの文献も、現竹島には関わりの無い文献であることが分かります。
・・・管理人さん、翻訳ありがとうございます。
柳美林先生の見解にいろいろと意見を述べましたが、それでもこういう対話形式の議論が進むのはありがたいですね。
議論を通じてお互いの主張が見えてくるのは、とても勉強になりますから。
2017/12/4(月) 午後 10:42 [ nob*7*84 ] 返信する
それにしても、馬鹿らしくてうんざりしますね。
そもそも鬱陵島、欝陵島、茂陵島は、木が鬱蒼と生い茂り、昼間でも暗い森に覆われた山という意味で名付けられたものです。山稜の「稜」と「陵」の旁が同じです。
羽陵島、武陵島、于山島、亏山島も、音が通じる別の漢字を用いて、同じ島を表した名称であることが、漢字が読める人間には明白です。
李奎遠のような過去の両班知識人より、崩し字も読めないような柳美林の曲解した漢文読解が正しいなんて、冗談も過ぎる。
欝陵島を于山としたのは、「済州島」を「瀛洲」と雅号で呼ぶようなものです。
2017/12/4(月) 午後 11:57 [ 小嶋日向守 ] 返信する
nobyさん、お久しぶりですね。詳しいコメントありがとうございます。翻訳に手いっぱいでコメントをつける余裕がありませんので助かります。
「陸地から二島を眺めたもの」であって竹島とは関係のない話だというところは私も常々そう思っています。ただ、「二島相去不遠」の解釈は変更なさいましたか。困ったな(笑)
2017/12/5(火) 午前 0:00 [ Chaamiey ] 返信する
それが二島間の距離を言ったのだとすると、後に続く「風日清明則可望見」とのつながり具合が妙なことになる、と思うのですが、まあどっちにしても結論に差はないし、それくらいの解釈の違いはあってもいいですね。
それにしても、小島さんもおっしゃるように柳美林の文章にはうんざりします。コメントをつけるとなると細かく細かくなってしまうので、そういう気になりません。
2017/12/5(火) 午前 0:09 [ Chaamiey ] 返信する
私も補足的訂正です。
12月4日のコメントで、古代の鬱陵と于山の関係をたとえるなら、済州島の異名として、瀛洲よりも「耽羅」を言うべきでした。
2017/12/8(金) 午前 0:47 [ 小嶋日向守 ] 返信する