次は本文です。本文はまず「国際法的争点を中心に」があってその次が「歴史学的争点を中心に」となっていますが、都合により「歴史学的争点を中心に」を先に翻訳します。それで、本日の投稿題は(3)から三段跳びで(6)になりました。(4)(5)は後日に入ります。 <竹島問題研究会3期最終報告書付録に対する反論> 歴史学的争点を中心に (慶尚北道独島史料研究会 柳美林) 1 『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』の内容は文脈が異なる 日本は『竹島問題100問100答』において、「『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』で蔚珍県の条に出てくる「于山島」は竹島ではなく鬱陵島の別の名称だ」と主張したことがある。これに対して、筆者は、これらの文献に出てきた「于山島」はまさに独島を指すことを論証したことがある。これに対して、今回は「『世宗実録』「地理志」の于山島は鬱陵島の異称だとした「Q32 韓国は昔から竹島を認識していたのか」を完全に無視して、『世宗実録』「地理志」の于山島を竹島(独島)と断定したのだ」と批判している。そして、「『世宗実録』「地理志」や『新増東国輿地勝覧』のような地誌には、当然、読む方法がある。地理誌を編纂する時はあらかじめ編集方針となる「規式」を定めて、その「規式」(注2)により記述するためだ」として、「竹島が‘見える’という地理的条件を根拠として『世宗実録』「地理志」の記述を解釈するのは朝鮮史研究の基本を無視した主張だ」と批判している。 日本の批判が成立するには、全ての地理誌がいわゆるこの規式のとおりに記述されていなければならない。日本がいう地理誌の規式とは、島嶼の場合、「管轄する官庁から管轄される島嶼までの距離と方向」を書くようにしたことをいう。すなわち、全ての島は陸地から離れた水路の距離を表記するのが地理誌の規式というものだ。それなら、この規式に基づいて『世宗実録』「地理志」の記述を適用してみよう。 『世宗実録』「地理志」では、二島について、「于山・武陵の二島が県の正東側海にある。分注〔二島は距離が互いに遠くなく、天気が良ければ眺めることができる〕」(注1)と記述されている。ここで二島は「(蔚珍)県の正に東側の海にある」としているので、管轄する官庁は蔚珍県を指す。管轄される「島嶼までの距離」は、「眺めることができる(可望見)」とした内容から察することができる。規式を適用するならば、「眺めることができる」ということが「管轄する官庁から管轄される島嶼まで」の距離を意味するので、蔚珍県から(于山・武陵)二島が「眺めることができる」ことを意味する。果たして蔚珍県からは鬱陵島だけでなく于山島まで見えるのか? この問題を検討するために、地理誌の他の記述を見よう。まず、『世宗実録』「地理志」の記述の底本となった『新撰八道地理志』、『新増東国輿地勝覧』の底本となった『続撰八道地理志』などの規式を調べる必要がある。朝鮮時代の最初の地理誌は『慶尚道地理誌』(1425)(注2)であるが、これは『新撰八道地理志』(1432)につながり、さらに『世宗実録』「地理志」(1454)に続いたためだ(注3)。この中で、『慶尚道地理誌』と『慶尚道続撰地理誌』は現存しているので、この二つを比較してみることができる。 『慶尚道地理誌』には規式が「事目」という名前で載っていて、全13項目だ。この中で島に該当する「諸島」の項目がある。全12個の島嶼名が列挙されている。『慶尚道続撰地理誌』では「事目」が29項目に増加している。『慶尚道地理誌』(1)(注4)と『慶尚道続撰地理誌』(2)の「島嶼」関連の規式を比較して見れば次のとおりだ。 (注1)原文は「于山武陵二島在県正東海中〔二島相去不遠風日清明則可望見〕」だ。 (注2)現存する『慶尚道地理誌』は、春秋館に送った最古本でなく慶尚道監営に保管していた副本で、『新撰八道地理誌』を作るための基礎資料として作られた。 (注3)『慶尚道地理誌』は『慶尚道続撰地理誌』(1469)として補完されて出たし、『続撰地理誌』は『(続撰)八道地理志』(1478)につながった。1481年の『東国輿地勝覧』は、この『(続撰)八道地理志』を基本として成立したのだ。『東国輿地勝覧』は『新増東国輿地勝覧』につながり、『新増東国輿地勝覧』は後日の『東国文献備考』(1770)に続いた。 (注4)(1)は『慶尚道地理誌』を略称するために筆者が便宜上付けた番号だ。(2)も同じ。 (1)諸島 陸地相去水路息数及島中在前人民接居農作有無開写事 陸地からの水路の息数(注5)及び島中の人民の居住の有無と農作の有無を書くこと (2)海島 在本邑某方水路幾里自陸地去本邑幾里四面周回相距幾里田〓幾結民家有無 本邑からの方向、水路、陸地(沿岸)から本邑までの距離、島の周りと距離、田畑、民家の有無を書くこと 上の規式は二つとも、島嶼を記述する時に陸地を基準とするものの本邑からの水路を書くように方針を定めた。この点は日本が指摘したとおりだ。ところが、問題は、『世宗実録』「地理志」のように「于山と武陵」という二島を共に羅列した場合があるのかだ。地理誌の規式を適用するなら、まずこの条件から合わなければならない。これを見るために、『慶尚道地理誌』と『世宗実録』「地理誌」の「島嶼」の記述を比較してみよう。例えば、慶尚道金海の二島(加徳島と馬島)は次の通り記述されている(括弧の中は『世宗実録』「地理志」の記述)。 加徳島陸地相去水路10里因倭寇荒廃 (加徳島在府東水路十余里) 馬島陸地相去水路150歩人民来往耕作 (馬島在府東南水路一百五十余歩【人民来往耕作】) 上の記述を見れば、加徳島は金海の都護府から水路で10里離れたところにあって、馬島は金海の都護府から水路で150余歩離れたところにある島となっている。加徳島と馬島はいずれも陸地の本邑を基準に記述して、「陸地相去水路~里(あるいは歩)(注6)という形式になっている。これは、島嶼の記述は陸地を基準として記述するのが規式だという日本の主張に符合する。 (注5) 1息は30里。 (注6) 10,800歩を30里、1息(12.9km)と見ているので(ゲリー・レッドヤード著 チャン・サンフン翻訳2011 『韓国古地図の歴史』ソナム社p176)、10里は約3600歩、1里は360歩だ。 『慶尚道続撰地理誌』は水路の他に本邑からの距離を追加している。そして、島嶼名や所轄区域が変わることになれば、地理誌は距離関係と水路も再び修正した。ところで、ここに共通点がある。それは、全ての地理誌が、一つの島嶼名を明記した後にその島嶼に関する内容を記述する形式になっているという点だ。換言すれば、ある島嶼の水路と陸路、方向、周囲などを記述する時、その条件は一つの島嶼に関してだけ記述しているという点だ。『世宗実録』「地理誌」の場合のように「于山・武陵」という二つの島嶼名を一つにまとめて記述した場合はない。これは、『世宗実録』「地理誌」の「于山・武陵」の記述方式が他の地理誌の記述方式とは違うという点を示唆する。 『慶尚道地理誌』でも全12個の島嶼名を取り上げ論じているが、12個の島に関する記述はそれぞれ一つの島についてだけ記述している。規式で「陸地相去水路息数」といっているのは、日本が主張するように陸地を基準とした水路を意味する。しかし、この場合も一つの島嶼名を取り上げ論じた後に陸地からの水路〔「陸地相去水路...」〕を記述したのであって、『世宗実録』「地理誌」のように「二島」を取り上げ論じた後に二島相互間の水路〔「相去二島水路...」〕を記述した場合はない。 (続く) |
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