旅の演者はかく語りき 作:澪加 江
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カランカランと第二幕が始まる事を知らせる鐘が響く。
ざわついていた観客達の声はやみ、その中で少しずつ小さくなっていく涼やかな響きだけが印象的に耳に残った。
そのまま幕が上がる。
舞台の上は未だ暗く、一体どのような場面なのか判断がつかなかった。
そこへ黒いローブに包まれた者がスポットライトを浴びながら現れる。
「遅クナッタ」
軋むような、不快な声。低い事からその者が男だという事が分かった。
そしてその男は舞台の半分も行かないうちに立ち止まり腰を下ろす。
すっとライトが広くを照らす。
半円の卓。座る5人の男女。一人だけ立ち、観客達に背中を見せる屈強な男。
「さて。些細な。しかし見過ごせぬ問題が起きた」
「それは?」
「娼館から娼婦が連れ去られた。なんでも身なりの良い執事が捨てるところを見咎めそのまま、だそうだ」
「はぁん? それは間抜けな事だこと」
「そこで、“八本指”から“六腕”へと依頼が来た。その不届き者を殺してくれ、だそうだ」
話を主導するのは屈強な、巌のような男。体の至る所に描かれた刺青が印象的だ。
後の者は面白そうな笑みを顔に浮かべて大人しく話を聞いている。
「ソンナニ強イノカ?」
「店一番の力持ちが一瞬だったそうだ。何よりもーー」
「「舐められる訳にはいかない」」
耳障りな不協和音。
異口同音に告げられたその答えに満足したかのように男は客席へと振り返る。
「その通りだ! “八本指”は、“六腕”は――何よりも俺は舐められるのが嫌いだ。愚か者にはその体でもって対価を支払ってもらわねばな」
渇いた笑い声、それは徐々に暗くなる舞台の上によく馴染んだ。
「“六腕”。とてつもない力を持った闇社会の掃除屋。親組織である“八本指”最高の戦力であり
単純な武力のみで言えば組織内最強」
「そんな者に目をつけられたツアレニーニャとセバスチャン。一体二人は――」
――ああ。温もりを感じるわ。
「――……。一体二人の運命はどうなってしまうのだろうか」
語り部を遮る美しい女性の声。
そそくさと舞台から去る語り部と入れ替わるように、その声は辺りに満ちる。
――ああ。心地よい温もりを感じるの。
――もう二度と感じる事は出来ないと思っていたのに。心が安らぐの。
――もう二度と戻ってこられないと思っていた場所にいる気がするの。
――ここは何処なのかしら。
――ここは何処なのかしら?
コンコン。
控えめなノックの男。
暗いままの舞台に浮かび上がるのは皿を持ったセバスチャンの姿だった。
「失礼。入りますよ」
かちゃりと音をたて中に入ると、舞台照明が一気につく。
そこは広く、簡素ではあったが客間として十分な内装の部屋であった。
――ああ。貴方は。
――ええ。私は。
美しい協和音。
それに驚くように照れるように、お互い顔をそらす。
――さあさあ。今まで頑張りましたね。辛かったでしょう。
――さあさあ。どうぞこれを食べて下さい。とっておきの料理、麦と野菜、それに肉を入れた粥です!
手に持った皿をすっと差し出し、セバスチャンは笑みを浮かべる。それを受け取るとツアレニーニャはひとすくい、そしてもうひとすくい口に運び、残りは流し込むようにお腹へと収めた。
――ああ、ああ。そんなに慌てる必要はございません。ご安心なさい。貴女は私と、そして私の偉大なる主人の下に保護されたのですから。
背中をさすり労わりながら言葉をかける。それにツアレニーニャは過剰に反応した。
「主人! 私はまた貴族に囲われたのですか?」
空になった器を取り落とし、布団に包まりカタカタ震える。その姿はひどく哀れを誘った。
「ご安心なさい。貴女がどのような半生を生きたのかはわかりません。しかし、私の主人は慈悲深いお方。貴女を害する事など万に一つも無いでしょう」
「…………」
――心配する事は無いのです。意志の強いお嬢さん。貴女は正当な対価を支払いました。
――いいえ。私は何も支払ってなどおりません。誰かと取り違えをされているのだわ。
――そのような事はありません。助かりたいという思い。それを行動で示し、口に出して請われれば助ける理由としては十分です。
――“困っている者を助ける事は当然である”。我が敬愛する方の言葉でございます!
――さあさあお嬢さん、布団から出て顔をあげなさい。
――陽はこんなにも明るく、世界は悪い事ばかりではございません。
――悪い事ばかりではない?
――本当に悪い事ばかりではないのかしら?
「ええ、勿論ですとも。それに、貴女とは話をしなければ。貴女の今後を決める話を」
「私の今後を……」
「ええ」
セバスチャンはニコリと笑い、布団に包まるツアレニーニャの手を取りベッドから連れ出す。
――さあ立てますか? 歩けますか? 身体の調子はいかがでしょう? 我が主人の偉大なる魔法の効果の程はいかがでしょう?
――うそ、立ってるわ! うそ、歩けるわ! 身体の調子はとってもいいわ! こんなに身体が軽いだなんて、一体どんな魔法なのでしょう!
セバスチャンにひかれるままにベッドから立ち上がり、白い寝巻きをはためかせながら、踊るようにツアレニーニャは舞う。
その手をとってリードするセバスチャンは微笑みを絶やさず、舞台は明るい雰囲気に包まれた。
――ああ、良かったです。ああ良かったです。貴女の心は晴れたようですね。さあ着替えましょう、こちらをどうぞ、我が主人からの下賜品です。
くるりくるりと回るツアレニーニャに合わせながら、セバスチャンは部屋の箪笥から一着のメイド服を取り出す。
「取り敢えずはこちらを。貴女さえ良ければ貴女を雇いたい、そう主人は考えておられます」
「そんな……! そこまでして頂く訳には!」
「大丈夫。ああ、大丈夫ですお嬢さん。我が主人は慈悲深いお方。貴女に良いように計らってくれるでしょう!」
それでは、と言い残しセバスチャンは部屋を出る。
ツアレニーニャは取り残された部屋で一人天井を見上げて途方にくれる。
――これは夢なのかしら?
――ああ、こんな事があって良いのかしら?
――地獄から救い出してもらっただけではなく、こんなに慈悲をかけて頂けるだなんて。それに……
――ああ。なんて素敵な方なの! ドキドキと高鳴る鼓動で胸が張り裂けそうよ。
――ああ。なんて魅力的な方なの! あの眼差しを向けられるだけで身体が熱くなってしまうわ!
――でも。
――私はどうなってしまうのだろう。あの方の主人は確かに慈悲深いお方。縁もゆかりもない私にこんなに良くしてくださるだなんて。でもだからと言って……
俯いて渡されたメイド服を見る。落ち着いた意匠のそれは、ただのメイド服のように見えた。
――いいえ。大丈夫よツアレニーニャ。
――大丈夫よツアレニーニャ。
――幸運が巡ってきただけよ、きっとそう。
――大丈夫よツアレニーニャ。きっと大丈夫。
―大丈夫。そう大丈夫に決まっているわ。
徐々に小さくなる歌声。それに合わせて暗くなる舞台。
再び灯りがともされた時には、場面は変わり、豪華な執務室と応接間が一緒になったようなセットになっていた。
豪華な机にはサトゥール卿。優雅に深く腰掛け、カリカリと紙にペンを走らせていた。
コンコン
ノックの後に続く声はセバスチャンのもの。
それに返事を返すと、ペンをペン立てに置き顔をあげた。
深く礼をして入るセバスチャンに続くように、セバスチャンの真似をしてぎこちなく礼をするツアレニーニャも入ってくる。
それに満足したように頷くと、サトゥール卿は声を上げる。
「よく来たセバスチャンそれで? 後ろの娘がそうなのか?」
身体を傾け覗き見るサトゥール卿。
セバスチャンは肯定の返事を返しツアレニーニャを前へと誘う。
――御機嫌よう閣下。私の名はツアレニーニャ、助けていただいてありがとうございます。
――気にするな娘。私の名はスンズキィ・イア・マー・サトゥール。礼は私よりセバスチャンに言うべきだろう。
――さて、
椅子から立ち上がりツアレニーニャに近寄ったサトゥール卿は上から見下ろすように立つとツアレニーニャに問いかける。
――さて、ツアレニーニャ。お前はこれからどうするのだ? 私のセバスチャンが自らの信念にかけて助けた娘だ、望むのならば長閑な村に住わせよう。
――望むのならば、この王都で職を探してやってもよい。
――さて、ツアレニーニャ。
――……サトゥール様、私は貴方様にお願いがございます。
――私をここに置いてほしいのです。
――受けた恩を返す機会を与えて下さい。
――ふむ?
――私に行く場所などありません。故郷に戻ってもまた連れ戻されるだけでしょう。ですからどうか、サトゥール様、憐れみをお与えくださいますよう。
深く深く頭を下げたツアレニーニャに、白い手袋のままサトゥール卿は触れる。
――お前の全てを許そう、ツアレニーニャ。さて、そうと決まれば忙しくなるぞ!
――セバスチャン。お前に彼女の教育を任せよう。
――さあ面をあげるがいいツアレニーニャ。お前の全てを私に捧げるのならば、お前の全てを私は守ろう。
深く礼をするセバスチャンとツアレニーニャを見て満足したように頷く。そして二人を下がらせた後、サトゥール卿はゆったりとした歩調で部屋を歩く。
それに合わせて強いコントラストが出るように舞台は暗くなり、ライトに照らされたサトゥール卿は浮かび上がる。
「さて、その後のツアレニーニャの話をする前に、いくつか確認をしておかねばなるまい? 観客の諸君」
「諸君は知らぬだろうが、この度敵対する事となった連中は強い」
「正確無比な突きに込められた凶悪無比な毒により命を奪う剣士」
「神速の速さを以って鞭のようにしならせた剣で遥か遠くを切り裂く重戦士」
「数多の剣を操り敵を追い詰める女暗殺者」
「幻影を以って敵を翻弄する魔法剣士」
「異形種にして不死者、第三位階の魔法を操る魔法詠唱者」
サトゥール卿の言葉と共に舞台セットの二階部分に現れる“六腕”の者達。暗闇の中に浮かぶ彼等はしかし、その誰も、同じく現れたセバスチャンと数度の攻防をするだけで倒されていく。
「もっとも、そのような有象無象などセバスチャンの敵ではない」
ド派手な魔法の演出が終わり、術者がその骸骨の姿を晒すと共に一旦その殺陣は終わった。
「しかし、最大の障害であり最強を目指す男は一筋縄ではいかない」
巌のような屈強な男。
その残忍な顔には酷薄な笑みが浮かび、舞台を見下ろしていた。
「私とセバスチャンの不在をついたその男は、ツアレニーニャを連れ去った。そしてツアレニーニャを人質としてセバスチャンに決闘を申し込んだ」
男が暗闇に手を伸ばすと、メイド服を着たツアレニーニャがライトの中へと引き込まれる。
そのまま、嫌がる彼女をいなしながら、男は舞台を後にした。
目の前が白むほどの光量に観客が目をつぶった一瞬のうちに舞台は元のサトゥール卿の執務室に戻っていた。
頭を垂れたセバスチャンとウロウロと普段とは違う様子のサトゥール卿は、その荒れた執務室を気にすること無くそこにいた。
「なんと腹立たしい事だ」
バンと叩かれた机の音に反比例して、その声は冷たく落ち着いていた。
「私が、この私が直々に。直々に守ると言った娘を拐かすなど許される事ではない」
サトゥール卿の言葉に深く頭を下げたまま、セバスチャンは感情を抑えた声で進言する。
「まさか外出時を狙われるとは迂闊でございました」
苦味走った声色のセバスチャンはガバリと音がしそうなほどの勢いで顔を上げると叫ぶように言った。
「ツアレニーニャを攫った愚か者は私との一騎打ちを申し込んできています。どうか我が主人よ、私にこの闘いに赴く許しを!」
「だめだ。この私を蔑ろにしたのだ、私が直々に滅ぼしてくれる。愚かな男め、部下を殺されたところで手を引いていればよかったものを」
ローブと仮面に覆われた姿から本心は見えない。しかし、その言葉には確かに怒りが見えた。
「しかし、お前の気持ちを汲んでやるのも主人の度量ではあるか……。明日の日の出まで時間をやろう、セバスチャン。もしもその間にツアレニーニャを取り戻せなければ私がでる。私はこれから用事があるが、供は不要だ」
言葉を区切り、窓の側に立つ。
「お前はお前のなすべき事をするがいい」
そういうとサトゥール卿の体が浮く。
そのまま部屋の窓を開き外に出ると、残されたセバスチャンにもう一度念をおした。
「いいかセバスチャン。夜明けまでだ。それまではお前を信じてまとう」
そしてそのまま舞台袖へと消えていく。
許しを得たセバスチャンはゆっくりと立ち上がると、寄った服のしわを伸ばすようにはたき身だしなみを整える。
「行ってしまわれた。我が主人の、あそこまでの怒りは久しぶりだ」
――ああ、ツアレニーニャ。貴女は今どこにいるのか。息災であってほしい。
――ああ、ツアレニーニャ。貴女と過ごしたこの半月がどれほど私の心を満たしたか。
――ああ、セバスチャン様。貴方は今もきっとあのお屋敷にいらっしゃるのね。
――ああ、セバスチャン様。貴方と過ごした半月がどれほど私の心を満たしたことでしょう。
どこからともなく聞こえてくるツアレニーニャの声。それは悲しみに彩られていた。
――やっと掃除の勝手がわかってきたのに。
――――やっとこの屋敷に慣れてきたようだった。
――ようやくサトゥール様に褒めていただけたのに。
――――我が主人もツアレニーニャを気に入ってきていたようだった。
――それなのに。
――なんと酷いことなのだろう!
――なんと酷いことだろうか!
セバスチャンは懐に入れていた本を取り出すとその表紙を観客にも見えるように掲げた。
「“今宵例の場所で待つ”! よりによって我が主人の書物にこのような落書きなど、あって良いはずがありません!」
「そもそも神聖なこの屋敷に立ち入る事すらも、この私が許さない!」
「ツアレニーニャの事も含めて、この事はきっちり償ってもらいましょう!」
決意を新たにしたセバスチャンは部屋を出て速足でさる。
それからは焦燥に駆られながらも毅然とした佇まいでいようとするセバスチャンの強さが窺えた。
暗く落とされた照明。
重く不気味な楽器の音。
ジャラリジャラリと聞こえる金属音。
青い光に照らされた円の中に両手を鎖で繋がれたツアレニーニャの姿が浮かぶ。
よれてくしゃりとしわの寄ったメイド服。金色の髪から覗く顔色は、青い光の中でより一層やつれて見えた。
「そろそろ時間だ」
暗闇の中から男が出る。
それは巌のような男であった。
「……」
「俺としちゃあきても来なくてもいいんだがな。来れば殺せばいいし、来なけりゃそもそも相手するまでもないってことなんだからよ」
「…………」
「ふん。こんな愛想のねぇ女のどこが’いいんだかな」
――俺の名前はゼロ。
――この国の裏側で最強の男。
――俺の名前はゼロ。
――そして何この国最強となる男。
「チンケな依頼だと思っていたら、あのセバスチャンとかいう男は中々に手強い」
「自慢の部下だったんだがな……。まあ、死んだんならそれまでの奴らだったってことだ」
巌のような男――ゼロはそう言いあげると歩きだす。
それにつられて、ゼロを照らすライトも移動する。ライトに照らされ、全身の刺青が生きているかのように蠢く。
――俺の名前はゼロ。
――ではゼロ殿、メイドのツアレニーニャは返してもらいましょう。
予想外の方向から割り込む声にゼロは緊張感を持って振り向く。
そこには、セバスチャンが立っていた。
「泥棒の真似事かい? 執事殿」
「気がつかなかった己の間抜けさを人のせいにするのは感心いたしませんね」
ニ、三言の応酬で空気が張り詰める。
「俺は言葉で言うのは不得意なんだ」
「奇遇ですね。私もです」
「ここは一つの、拳と拳で話をしようか!」
ゼロは大ぶりな拳を繰り出す。
それを迎え撃つようにセバスチャンもまた拳を打ち出す。
ガキン。
肉と肉とがぶつかったとは思えない音が響き、空気が凍る。
「あんたもモンクって訳か!」
「ぬう!」
二人の体が勢いよく離れる。
ゼロはニヤリと笑みを浮かべ、セバスチャンは顰めっ面をしている。
「裏社会に名の知れた武人とは聞き及んでいましたが、まさかこれほどまでとは!」
「はっは! なるほどな! これはあいつらじゃあ倒せねぇ訳だ!」
右、左、下、左。
次々と繰り出される拳をいなしながらゆっくりと後退するセバスチャン。
「セバスチャン様!!」
ツアレニーニャの必死な声援を受けながら反撃の機会をまつ。
「どうだい爺さん! こちとらあんたのせいで人材不足だ。俺の下につく気はねぇか?」
「笑止!」
声とともに大きく弾きとばし、攻守が入れ替わる。ジリジリと押し返しはじめるセバスチャンに観客も手に汗握りながら見守る。
「交渉決裂か。じゃあ俺が最強だって事の証明に死んでもらおう!」
ゼロの体の刺青が光る。
これは特殊な魔法の塗料で描かれたもので、任意のタイミングで光らせる事ができるといったものだ。舞台の小道具としては一般的で、魔法の発動を演出する時によく使われるものである。
腕と脚、身体中が光に包まれ、劇場内が悲壮な興奮に包まれる。
「“猛撃一襲打”!!」
ビリビリと痺れるような破裂音。
それとともに吹き飛ぶセバスチャンの体。
高い悲鳴はツアレニーニャと観客の声が混じり耳障りに響いた。
「セバスチャン様!」
鎖で繋がれたままながらも吹き飛ばされたセバスチャンに寄るツアレニーニャ。
セバスチャンは赤い血糊に染まった手でそんな彼女の頬を撫でる。
――ああ、ツアレニーニャ。泣くことは無いのです。泣くことは無いのです。
――ああ、セバスチャン様! セバスチャン様!! 私なぞ見捨てても構わなかったのに。
――“愛する人には――”
綺麗なハーモニー。
――愛する人には生きていてほしいのです。
――愛する人には笑顔でいてほしいのです。
音のずれた協和音。
――ああツアレニーニャ。もしもこの年寄りの願いが叶うのなら。ああツアレニーニャ。笑顔でいてください。
――ああ神様。もしも愚かな私の願いが叶うのならば。ああ神様。この悲しく消えゆく命をお救いください。
思いを告げ合う二人の姿に興味を無くしたゼロが後ろを向き、立ち去ろうとした時、その声は響いた。
「私の命を忘れたのかセバスチャン。私は言ったぞ? 確かに言ったぞ?」
「“お前のなすべき事をしろ”と、確かに言ったぞ」
それはサトゥール卿の声であった。
「さあ、セバスチャン許可をやろう。お前の真の姿を見せる許可をやろう」
――目覚めるがいい竜人よ。私の忠実なる僕よ。“お前のなすべきこと”のため、お前の枷を私が外そう!
チカチカチカ。
明滅するライトの中で煙が噴き出す。それがセバスチャンを包んだかと思うと、そこに立っていたのは見間違えるような化け物だった。
――鋭い牙、硬い鱗。熱を孕む息に目の覚めるような赤い瞳。丘のような体躯。
――お前の全力でもってこの者を蹂躙するがいい。
竜に似た姿形。
さっきまでの冷えた空気はなく、今はただただ劇場内は熱かった。
玉の汗を浮かべながら、観客は只々その姿に見惚れる。
伝説の再現が今目の前にあった。
「聞いてない!! 聞いてないぞ! この化け物め!! 俺が目指すのは人類最強! お前のような化け物は勘定外だっ!」
ゼロはその姿に恐れ慄き、へたり込む。そしてジリジリと後ずさりながら逃げ出す。戦意を失ったゼロに対して、化け物はその大樹のような脚を振り下ろす。
肉の潰れる音と赤い照明。
それと対比されるかのように、ツアレニーニャは未だ真っ青なライトに照らされていた。
「恐ろしい」
歯の根が噛み合わない程震えるツアレニーニャ。
「恐ろしいモノがここにいる」
――ああ、ツアレニーニャ。
轟くような、低くしかし思いやりに満ちた声。それは未だその場を支配している巨大なモノから聞こえてくる。
――ああ、ツアレニーニャ。やはり貴女には耐えられないでしょう? こんな化け物と暮らすことなど。
――サトゥール卿。やはりツアレニーニャは人の国で暮らすべきです。どうかこの娘に今一度の温情を。
「そんな!」
――人の世に帰り幸せにおなりなさい。
俯き、何かに耐えるようなツアレニーニャ。しかし彼女は毅然と頭をあげる。そして睨むように、挑むように、その怪物を見据えた。
――人の世に私の幸せなどありはしません。
――ただ。
――ただ、貴方の隣にのみ私の幸せはあるのです。
「だから」
――どうか美しく恐ろしく、そして優しく思いやりに満ちたヒト。私を拒絶するのならば。
――どうか勇猛で勇壮で、そして私を思いやる慈愛に満ちたヒト。私を拒絶するのならば。
――その鋭い爪で、巨大な脚で、私の命を刈り取ってください。
その姿は祈りを捧げる女神のように、断罪を待つ咎人のように、その姿は見るものの心を動かす。
――ツアレニーニャ。
セバスチャンの声には覇気は無く。化け物の姿は幻のように薄らぎ消えた。
残されたのは許されたような、救われたような、そんな情けない顔の男だけだった。
――ツアレニーニャ。
二人の顔は近づき、その唇と唇が重なろうとした時――――。
幕は閉じられ舞台は終わった。