旅の演者はかく語りき 作:澪加 江
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――ツアレニーニャ、ツアレニーニャ。
美しき娘よ。
――ツアレニーニャ、ツアレニーニャ。
哀しき娘よ。
広く豪華な劇場には満員の人。
立ち見席では足りずに、手すりや通路に座り込むものまででる大盛況。
この日この劇場では人気の演目である歌劇“ツアレニーニャ”が公演されていた。
この演目の始まりは、ある男が集めた魔導国時代以前から魔導国の黎明時代の英雄譚の中の一編、“セバスチャン”が元であると言われている。
内容はありふれた悲劇から始まり、運命の相手と結ばれるところで終わる簡単なものである。
しかし、その魅力的な登場人物は人々に愛され、長く愛される演目として現在まで語り継がれている。
今回この“ツアレニーニャ”を主題にした歌劇は驚くほどの手間と費用がかけられていた。
書割が作られ、背景の垂れ幕が用意され、何よりも幾人もの役者を使って話が再現される大掛かりなものとなっている。
当然、それに伴い観劇に必要な値段は跳ね上がっている。だがそれでも見たいという人々が詰め寄せていた。劇場の方もこれに伴い上演数を増やし、上演日数を増やすなど急な対応を迫られた程だ。それでもこの混みようは一向に改善される様子は無い。公演予定は一週間だというのに開始から既に5日が経つ今、さらに上演日数を延ばせないかと劇場関係者が方々を説得しに回っている程である。
赤い幕が上がり、客席側の照明が落とされる。かわりに徐々に明るくなる舞台。
“ツアレニーニャ”の幕開けである。
――ある寂れた村にその娘はいた。美しくなびく金糸は整った顔を飾り、娘に華をそえる。
後ろの垂れ幕には牧歌的な村の絵が書かれ、語り部である男の声に合わせて娘役が現れる。
粗末ながらも清潔な服を着た娘。長い金の髪を靡かせて十分な広さの舞台を歩き、今日の主役は幸の薄そうな笑顔を観客へと振りまいた。
今回の劇に目玉となる役者は三人いる。
一人はツアレニーニャ役のマリエ。
彼女は普通の顔立ちをした女である。しかし、その演技力は国内随一であり、溌剌とした少女の役から、鄙びた老婆の役まで声と所作を使い分ける。今回の主演もトントン拍子に決まった程だ。
そして二人目は旅の独演家を自称する男、モモンガ。彼を連れてきたのは今回の劇の脚本を書いたフェルナンドであった。
道端で子供相手に話を聞かせている姿を見ての大抜擢。しかし、そんな事はおくびにも出さずに堂々舞台に立つモモンガは彼の語り部としての才能を発揮している。事実、今こうして多くの者が彼の声に引き込まれていた。
語り部は舞台の左端に立ち、弱い光を当てられている。“ツアレニーニャ”の冒頭は場面の転換が多く舞台上がめまぐるしく変わる。そのつなぎの役目ももつ彼は十分にその役割を全うしている。
時に声を張り上げ、声を潜め、大袈裟な身振りで観客の注目を集めていた。
――それに目を留めたるは横暴で名高いその地の領主。娘の両親に端た金を握らせて、妾として迎えるという口実のもと、家族と娘は引き離された。
領主役の煌びやかな衣装に身を包んだ男が現れ、小ぶりな袋を放る。袋は軽い音をたて床にぶつかると、中身から銅貨が溢れた。
そしてそれには目もくれず、領主は娘の腕を引き寄せて舞台袖へと消えていく。
――可哀想なツアレニーニャ。領主に弄ばれ虐げられる。
再び現れた娘はひどく汚れてほつれたボロ切れを巻きつけ、その体にはいくつもの痣が作られていた。
ーー不運で不幸なツアレニーニャ。領主に飽きられ捨てられる。
舞台袖から再び現れた領主に追い立てられ、娘は反対側の袖へと消えていく。
――捨てられた先では畜生にも劣る扱いを受け、ツアレニーニャは人の持つ尊厳を捨ててしまった。
首輪と手枷、そして足枷をつけた娘は貧相な見た目の男の前で這い蹲り、家畜のように食事をする。男はそんな娘を踏みつけると蹴り倒し、高笑いをして去っていく。
娘は蹴られたお腹を押さえながら再び餌としか言えない食事を再開する。
――尊厳を捨てたツアレニーニャ。抵抗を止め。
――抵抗を止めたツアレニーニャ。思考を止め。
――思考を止めたツアレニーニャ。生きることを止め。
髪を振り乱し暴れ回っていた娘が徐々に静かになり、とうとう倒れ伏せたまま動かなくなった。
そんな娘の狂演を背景に、語り部は粛々と話を進める。
――そうしてゴミのように扱われたツアレニーニャはゴミのように捨てられた。
バチン。
劇場内が完全に真っ暗になる。
ガタガタという音が響き舞台の衣替えが行われる。
その時、――――。
「ただいま戻りました我が君! お探しのスクロールが見つかりましてございます」
張りのあるバリトンと共に、劇場の一番後ろ、その扉を開けて煌びやかな執事服に身を包んだ男が現れた。
当てられたスポットライトに浮かぶのはプラチナブロンドの髪に彫りの深い顔の持ち主。皺が幾つか刻まれた顔は歳よりも威厳を感じさせるものであったが、スラリと伸びた背筋は男を若々しく見せた。
“ツアレニーニャ”におけるもう一人の主役にして最後の目玉役者、執事セバスチャンことアルフレッドの登場であった。
アルフレッドは長いキャリアを持つ美丈夫であり、その見た目から若い頃はあの“漆黒”すら演じた事のある一流の役者である。40に近い今では年嵩のある役を危なげなく演じる大御所である。
そんなアルフレッドの演じるセバスチャンは観客の上を歩く。
劇場に備え付けられている“見えざる床”の上だ。この床は不可視化の魔法がかけられており全く見えない、慣れた者でも歩くのを躊躇うほどである。その床をセバスチャンは武人の身のこなしで優雅に歩き舞台まで進む。そして暗いままの舞台の中央で膝をつくと、手に持っていた羊皮紙を捧げ持った。
徐々に舞台の明るさが戻り、そこにあったのは貴族の館と見まごうばかりの空間であった。
そしてその中央に背を向けて立っている人物。セバスチャンの主人であるサトゥール卿。近隣の国の大商人にして貴族位を持ち、魔法を修めた大人物。
「礼を言おうセバスチャン。さてはて、この地のスクロールはどのような内容かな?」
黒いローブを翻し、明らかになった姿は酷く怪しいものであった。
ローブのフードを深く下げ、銀に輝く仮面を被り、手には白の手袋。
その手を差し出しセバスチャンからスクロールを受け取ると興味深く広げ読む。
「ふむ。ふむ。これはとても興味深い!」
パチンと指を鳴らしてばさりとローブを広げると舞台に置かれた豪華な椅子に座り机の上にスクロールを放る。
「大儀であったセバスチャン。この地の魔法も実に興味深い! 私の知識欲を存分に満たしてくれる」
「勿体なきお言葉でございます」
「はてさて。素晴らしい働きをしたお前には褒美を与えねばなるまい? このスンズキィ・イア・マー・サトゥールに言ってみよ」
セバスチャンは顎を上げて促すサトゥール卿に一層頭を下げた。
「おお、慈悲深く優しき我が主。お気持ちだけで大変嬉しく存じます。貴方様へ仕えさせて頂けること、それが私の望みでございます!」
サトゥール卿は思案げに仮面で隠されて口元へと手を持っていく。数度頷くと椅子から立ち上がりセバスチャンの肩へと手を置いた。
「勿論だともセバスチャン。お前の願いは聞き届けよう。しかしいつも心を砕いて私に仕えるお前に私も主人として相応の対価を返さねばなるまい」
「ありがたきお言葉でございます……!」
「うむ。それでは今日は十分に働いてくれた。日が暮れるまでの時間好きにして良い」
「はい。失礼いたします」
そう言うとセバスチャンは立ち上がり舞台袖へと歩き去る。
残されたサトゥール卿は何度も頷きながら立ち上がる。そして舞台の中央まで来ると大きく腕を広げた。
「さて。今宵この屋敷に迷い込んだ者たちよ、私は君達を歓迎しよう。私の忠実なる従者、セバスチャンとその伴侶を祝いに来たのだろう?」
それまでの何処か気安い上位者の声色から一変、歌うような言い回しで言葉を紡ぐ。そして舞台の上で大きく回る。体の後に続く布地はばさりばさりと音たて、それを軽くいなしながら仮面越しでも分かるほど喜色に彩られた声をだす。
「――ツアレニーニャ、その姿は美しく」
奏でる声に静かな伴奏が響く。
「――ツアレニーニャ、その姿は醜く」
“ツアレニーニャ”は歌劇である。
当然多くの劇中歌があるが、その一番最初を飾るのはサトゥール卿が歌う、外なる視点からのアリアである。
劇中においても、サトゥール卿は外なる視点を持つ者として描かれる。それは観客であり役者であり脚本家の代弁者という事だ。そう言った狂言回しの立ち位置に立ちながらも、その歌声は魅力的な高さをもって流れる。
「――美しき髪は泥に塗れ。美しきかんばせは紫に染まる」
「ツアレニーニャ、運無きありふれた女よ。ツアレニーニャ、希望掴みし意志強き女よ」
曲調が変わる。それまでの悲しき音色では無く、軽快で愉快なものへと。そしてそれに合わせ、サトゥール卿もローブを少し引き上げてステップを踏む。
――かつての世界は悪夢の世界? 弱きを挫き強きを助け、私腹を肥やす豚のいる世界。
――かつての世界は悲しき世界? 強きは驕り弱きは奴隷、終わりを迎えるにふさわしい時代。
――ツアレニーニャ、王国の田舎に産まれた可憐な娘。
――ツアレニーニャ、領主に召し上げられ、捨てられた憐れな娘。
「しかしそんな彼女にも転機が訪れる」
――ああ! 腐り落ちる前の果実のような熟しきった王国。熟した果実が実を柔らかくし、その芳香が人を誘うように、王国という果実はその芳香で邪なものを誘う。
――――ツアレニーニャ
――ツアレニーニャ
ツアレニーニャ
――邪な者たちの手に堕ちた憐れなツアレニーニャ。
――自ら命を絶つこともできない可哀想なツアレニーニャ。
ふっ。
ロウソクの火を吹き消すように舞台の灯りが落とされた。
「もしその偶然が無ければ。彼女の命は汚辱の下に終え、名もない数多の女性の一人としてこうして語り継がれる事も無く忘れ去られていたでしょう」
スポットライトが語り部を照らす。
「しかしそうはならなかった。彼女は少しの幸運と、確かな意志によって彼女自身の未来を勝ち取るのです」
再び舞台に灯りがともる。
夕暮れの光に設定された紫色の間接照明は薄汚れた路地裏の書割を怪しく照らす。
「ここは美しい街だ。歴史のある街だ」
セバスチャンはゆったりと歩きながら呟く。
勿論役者が舞台上でする呟きであるから、それは劇場中に十分に響く声量だ。
「強い光によって影が暗くなるように、長く続いた繁栄はこの国を蝕んでいるようだ」
「そして、光が陰り始めた今でも影がの力は変わらず強く。……そこが歪みを生んでいる」
くるりと一周舞台を歩いたセバスチャンの行く手に大きな麻袋が投げ捨てられる。
中からは人の手。
怪訝な表情のままに近寄る。そしてそのまま通りすぎるようとする時にセバスチャンは麻袋から飛び出していたその手に足を掴まれた。
セバスチャンは静かな表情でその手を見下ろした。そして微かなため息をついたところにダミ声が投げかけられる。
そこには筋肉のよくついた厳つい男が立っていた。
「あぁん? 何見てんだよおっさん! 通りすがりならさっさと消えな」
「何を見ているか、ですか」
「あ? あ。あははは! おいおい! 変な正義感なんてだすもんじゃねぇぞおっさん!」
――オレはしがない娼館の下男さ!でも!
――違法? 不届き? そんなのオレらにゃ関係ないのさ!
――この国この街はオレらのシマ! 好き勝手の仕放題。クスリを売ろうと女を抱こうと、咎める奴なんてねぇのさ!
――衛兵も貴族もオレらの味方! 好き勝手の仕放題! 娼婦を潰そうとその後棄てようと、咎める奴なんてねぇのさ!
――訴えたところで意味はねぇ! お前を助けるものは誰もいねぇ!
――さあさあその仕立てのいい服を自分の血で濡らす前に。さあさあさっさとお家に帰りな他所者の執事殿!
「ってなわけだからよ。わかったんだったらさっさと行けよ。今だったら見逃してやるぜ」
ニヤニヤを下卑た笑いを顔に浮かべながら男は軽やかに歌い上げる。
「そうですね。ただ助けられるのを待つ者に差し出す手はございません」
「はははは! だろうよ! いかつい見た目の割にはなんだ、大したことねぇな! はははは」
「ですが――」
「?」
「ですが、貴女がもし救いを求め行動するのならば、私はそれを助けましょう。私の、私の名前にかけて」
静かに語りかけられた言葉に促されるように、手の持ち主はゆっくりと麻袋から這い出る。その手の持ち主は変わり果てた姿のツアレニーニャ。ぼろ切れの布をまとっただけの粗末な格好であった。
そして彼女はことさらゆっくりと顔を持ち上げ、確かな、されどかすれた声で一言言葉をつむぐ。
――助けて。
と。
セバスチャンは満足そうに頷くと驚いた顔の下男に対峙する。
「こういう事になりましたので、残念ですが失礼させていただきましょう」
歩くように自然に下男と間合を詰めたセバスチャンはその拳を的確に急所である鳩尾に叩き込む。
崩れ落ちる下男を尻目に、横抱きにしたツアレニーニャを抱えるとその場を後にした。
「――巨悪に磨り減らされた娘と、その巨悪の対峙せねばならなくなった男。二人が向かったのはサトゥール卿の屋敷でした」
「奇しくもそれは日が落ちる時間。セバスチャンが許された余暇の終わりの出来事でした」
「――我が主! 偉大で慈悲深きご主人様!」
「――我が主! 貴方様の忠実な僕セバスチャン只今戻りましてございます!」
語り部の声を裂くように、張りのあるバリトンへとスポットライトが当てられる。
ツアレニーニャを抱えながら暗闇を歩くセバスチャンは何度も何度も主を呼ぶ。
「聞こえているぞ。して? 何事だ。セバスチャン」
舞台セットの二階部分、しっかりとした作りの階段の上にサトゥール卿は姿を見せた。
――ああ! 慈愛に溢れた我が主。どうぞそのお力をお貸しください。
――おお! 忠実なる我が僕よ。お前の話を聞こうではないか!
「我が君。貴方様から頂いた時間で街を歩いているとこの娘が助けを求めて来たのです!」
「ほう?」
「どうやら非道な娼館で働かせれて居りましたようで、身も心もボロボロ。私に助けを求めたそれきり、動かなくなってしまいました。どうぞ、貴方様の僕に助けられたこの憐れな娘に祝福を!」
――なるほど、なるほど、セバスチャン。
――お前の話はよくわかった。
――主よ!
――しかしその娘を助ける事に何の意味がある? 私にどのような利益がある? 私に不利益はないのか?
――それは!
――娼館から許可は取ったのか? いや、それは助ける上では些細な事だな。しかしその後報復があるのでは無いか?
――ぐぅ!
――まあ、この街の破落戸共の報復などどうでも良いのだ。私が知りたいのはただ一つ。
――さあセバスチャン、我が忠実なる僕よ。答えるのだ。私にどのような利益がある? 私に不利益はないのか?
歌い上げる両者。
一人は片膝をつき深く頭を下げ、もう一人は悠然と構え立つ。
「我が主に利益など! この娘はあの娼館との諍いの原因になる事はあるだろうが利益をもたらす事ができるのだろうか?」
「いや、違う! 偉大なる主は報復など些細な事だと仰られた! ここは助ける事で得られる利益があると示すのだ! それが娘を助けた私の使命!」
――我が主よ!
俯きながら考えを口にしたセバスチャンは、決意を固めて顔を上げ、サトゥール卿へと訴えた。
「従順で決して私を裏切ることのない従者の願いの一つなど簡単に叶えることができる。しかし私はこの者に見せてほしいのだ、主人に意見するという、主人を諌めるという形の忠誠のありかたを……!」
「それに、ああ、セバスチャン、お前の心根はお前の父に似ている。その善意溢れる心のまま、私を説得してほしい。他の誰でもない、私の為に!」
対するサトゥール卿の心情も切々と語られる。
緊張感は高まり、両者は目と目を合わせたまま数瞬の時間がすぎる。
――確かに今は何の価値もありません。しかし今後は必ず貴方様のお役に立ててみせます!
――ほう。私の役に?
――メイドとして一流になるように教育いたします! 命を救われた貴方様に対するこの娘の忠誠心は強いでしょう! 貴方様の為に掃除をし、貴方様の為に湯を沸かし、貴方様の為に日々を過ごす。
「そのように私が確かに育てます。巣立ちを助ける親鳥のように!」
神の信託をまつ巫女のように、深く礼をし頭を垂れたセバスチャン。
それを見下ろすサトゥール卿。
ピンと張り詰めた糸のような緊張感が劇場を支配し誰もが固唾をのんで見守る。
「――――よかろう」
静かで厳かな声。
「その娘の生を私は認めよう」
「感謝致します、我が唯一の主よ……!」
「その娘を私の部屋へ。大魔法によりこの者の治療にあたる」
重たく翻るローブ。
その後を追うように、セバスチャンはツアレニーニャを抱きかかえて階段を上る。
ゆっくりと舞台が暗くなり、そして舞台の幕も閉じられた。