194センチ、100キロの巨体から“デカ”の愛称で親しまれた高橋智さん(52)は、1992年(平4)に29本塁打するなどオリックスで一時代を築いたスラッガーだ。現在は名古屋市内で、エレベーターの保守・点検などの仕事をこなす。

「復刻パ・リーグ伝説」で厳しく鍛えられた若手時代の思い出や、出場機会を失って苦しんだことなど、激動の野球人生を振り返ってもらった。【取材・構成=高垣誠】

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高橋さんは現在、エレベーターの保守・点検などの仕事で名古屋市近辺の得意先などを駆け回っている。ビルなどの人を運ぶエレベーターだけでなく、荷物を運ぶ小型のものや、自動車生産ラインの工業用のものなど、さまざまなエレベーターを扱う。190センチを超える巨体を作業着で包み、月100台ほどを定期的に点検する。

現役引退後、野球解説者などを経て自動車関連の鉄鋼業の仕事をしていたが、08年のリーマン・ショックの時、安定した仕事として知人に声をかけられ転職した。この仕事に就いて10年ほどになる。

プロ野球選手だったことを知っているお客さんもおり、そういうときは野球の話もする。だが、元プロ野球選手のプライドは「ないですね」と言い切る。「そういうのを出したら迷惑だし、お客さんには関係ないですし。エレベーターの保守でサービス業としてやってますから。今は会社、お客様に(仕事で)迷惑をかけないことだけですね」。

現役時代は“デカ”の愛称で、豪快なバッティングが人気だった。投手として入団したが、2年目の秋に野手に転向。当時の水谷打撃コーチに徹底的に鍛えられた。「(秋のキャンプでは)めちゃくちゃ打ちました。手首を疲労骨折するくらい(笑い)。しかも惰性で打っちゃダメだ、場面を想定して打てと」。

猛練習に耐え、素質が花開いた。87年には当時のウエスタン記録となる21本塁打。1軍に昇格して4本塁打も放った。88年限りで水谷コーチが退団後はしばらく苦戦したが、91年、先輩の松永浩美が「練習からセンターから右方向を意識して打て」と助言をくれた。これは、引っ張っろうとして左肩が開くことを防ぐことにもつながった。同年は23本塁打を放ち、92年には6月に月間MVPを獲得する活躍で、シーズンでもキャリアハイの29本塁打、打率も2割9分7厘をマーク。球宴にも出場してベストナインにも選ばれた。

ところが、松永がトレードでチームを去った93年は腰痛に苦しみ、その後も足や手首の故障などに悩まされた。「完全に調子に乗ってましたね。あのとき大谷くん(エンゼルス)みたいな(謙虚な)精神があれば…(笑い)。全然体のケアなんかしてなかったですし、ぎっくり腰なんて何回やったか…。針や整体とか、体に気を使い始めたのは故障してからですよ」。ウエートトレーニングは好きでよくやっていたが「体幹を鍛えるとか、年齢に合ったトレーニングをしておけばもう少し違ったんでしょうけど、ベンチプレスで160キロ挙げた、とか自慢してるなんて…、アホですね」。