玄倉川水難事故(DQNの川流れ)の事件の時系列まとめ
1999年8月14日に起きた玄倉川水難事故(DQNの川流れ)は後世に伝わる水難事故として大きな事故となりました。
そんな大きな事故となった要因は何だったのでしょうか?事故が起こる前日の13日より時系列でみていきましょう。
事件前日8月13日 ダム管理事務所の警告
1999年8月13日の10時に玄倉川を渡り中州にテントを張ります。その後、天候が悪化したため15時頃より巡回をしていたダム管理事務所員が、キャンプ客に警告をしました。
この日玄倉川ではキャンプ指定地外の6か所に50張り程度のテントが張られていました。増水と水位上昇の危険性の警告の1回目の呼びかけに、大部分のキャンプ客は水際から退避しました。
16時50分には神奈川県全域に大雨洪水注意報が発令され、19時35分頃には雨足がさらに激しくなり、玄倉ダムの上流が放流予告のサイレンを鳴らしたのです。
ダム管理事務所による2回目の警告
19時50分頃にダム管理事務所員が2回目の巡回を行い、中州にいた一行に中州から退避するように直接勧告しました。しかし、中州にいた一行は全員がテントの中にいて全く反応がなかったそうです。
20時06分にダム管理事務所員は「これ以上は危険だ」と判断をし、警察に連絡をいれます。
警察が現場にて避難を勧告
21時10分に松田署員の警察官が到着し、ダム管理事務所員とともに中州にいる一行に退避勧告を行いました。これにより、比較的年齢の高い社員と妻ら3名が支持に従い中州を離れました。
しかし、残りの18名は中州に残ったままで、警察官の退避勧告に従いませんでした。この時、すでに中州と岸辺の水位の勢いは増しており、直接中州に行くことができなくなっていました。
警察官が再び退避を勧告しますが、酒に酔った状態で「うるせえ、警察にそんなこと言われる筋合いはない」との暴言をはきました。
子どももたくさんおり夜中に川を渡るのは危険だと判断し、安否と人数確認をし明るくなってからの移動をすることにしました。この時は急激な豪雨は予想できなかったと言います。
14日5時大雨洪水警報が発令
翌日の14日朝の5時35分になるとさらに雨が激しくなっており、神奈川県全域に大雨洪水警報が発表されました。6時頃にまだ水流は膝下くらいの深さだったため、なんとか徒歩で中州まで渡れる深さでした。
前夜に退避していたメンバーが川を渡り、中州のテントにいる一行の元へ向かい、退避するように呼びかけました。しかし、反応はなく退避することはありませんでした。
そして、7時30分頃には警察官も巡回しテント付近より退避を呼び掛けますが、反応はまたしてもありませんでした。警察は対岸とは陸続きになっているため大丈夫だと判断をし、その場を離れます。
8時 避難者からの119番通報、中州が水没
さらに8時04分に熱帯低気圧の接近により、本格的な暴風雨となりました。前夜に岸に退避していた3人のうちの社員から消防に119番通報で救助要請が入りました。
この時、中州のテントに残っていたのは大人が12人に子供が6人いました。そして、8時30分頃には下流の水深が普段より85㎝も高い1m程度となっており、中州もついに水没してしまいます。
この時、対岸まで腰以上の水位があり距離は80mもありました。川を渡ることは大人でも危険な状態となっていました。、この時すでにテントは流されており、一行はパニック状態となっていました。