同盟して仲良しになったら、もう軍事は考える必要はないなんて甘いことはないのです。
常に硬軟両方を使い分け、軍事的強者の地位を保持することでしか、世界の中において自国の安全と権益を守ることができないのです。
こうした情勢にあって開催されたのが、ワシントン軍縮会議です。
これによって大戦艦の保有率で、欧米諸国は日本を抑え込むことに成功します。
そして日英同盟は破棄となり、新たに英米同盟が開始されます。
このままいけば、日本を弱国にすることができる。
当時の日本は、世界に向けて人種の平等を提言する国でした。
有色人種だって人間なのだ、というのが日本の主張です。
ところがそれは、欧米諸国の植民地で巨富を築いている白人オーナーたちの財産をすべて奪ことにつながります。
戦後日本が、ずっと「侵略国」呼ばわりされてきた理由も、実はここにあります。
植民地のオーナーたちからすれば、まさに日本は侵略者そのものであったからです。
つまり人種の平等という正義を主張する日本は、欧米にとっての敵でした。
そしてこの時代の日本は、東亜における最強国です。
だからこそ、いろいろときれいごとを並べて、軍縮条約を締結したわけです。
これで日本の海軍力を削ぐことができるはずでした。
ところが日本は、今度は巨大戦艦ではなく、小型の巡洋艦を数造りだしたのです。
実は、日露戦争の戦いを子細に検討すると、大艦以上に、小型艦が実に重要な働きをしていることがわかっていました。
小が大を制する。
これはまさに日本のお家芸です。
そこで米国主導で開催されたのが昭和5(1930)年のロンドン軍縮会議です。
この軍縮会議には、米、英、日、仏、伊の五大海軍国が参加したのだけれど、そこで決議された条約の内容をみると、
「日本の補助艦全体の保有率を、対米比を、6.975とすること」などと記述されています。
つまり、この会議におけるターゲットは、あきらかに日本であったということです。
この会議を裏で仕切っているのは誰かも、この一文で一目瞭然です。
日本海軍は、政府が勝手に決めてきたこの条約に対処するため、条約上の制限以内で余裕のある軽巡洋艦の枠を利用して、翌、昭和6(1931)年、ロンドン条約でいう15cm砲搭載の軽巡洋艦4隻の建造を決めました。
これが冒頭に述べた最上型巡洋艦です。
今日のお題の「熊野」は、その4番艦でした。
そしてこの年10月に「最上」、12月には「三隈」の2隻が、先行して起工されました。
昭和10(1935)年7月、8月に、「最上」と「三隈」が竣工します。
両艦は、小粒ですが、重巡洋艦に匹敵する艦載装備が施されていました。
重巡は20センチ主砲搭載ですが、これに対しては15センチ砲の「数」で対抗しました。
しかもこの砲、いつでも20センチ砲に取り換えれるように工夫が施されていました。
つまり、いつでも軽巡から、重巡に変更できるようにしてあったわけです。
加えて、対空火力が、とてつもなく強い。
まるで海の上の高射砲の要塞です。
また防御面では、甲板や舷側の装甲がぶ厚くて、少々の魚雷や砲撃では沈められないよう工夫されました。
走行性能はとみると、エンジン出力があの戦艦大和と同じ15万2000馬力です。
超破格です。
この強力エンジンで、しかも艦が小さいから、速力はなんと37ノットという超高速。
まるで海のフェラーリです。
さらに被害時の不燃化が徹底して図られていて、普通の戦艦なら木を使うところも、ぜんぶ鋼板が使われています。
しかもご丁寧に、木目調にしてある。
さらに毒ガス被害も想定して、ガス対策のための洗浄室まで設けてありました。
軽巡洋艦と侮るなかれ。
中身は、大型戦艦に匹敵する、当時としては最先端の性能を持つ船として、就航したのです。
そして、洋上の訓練航海に出ました。
このとき編成されたのが、第四艦隊です。
そこで、事件が起きます。
訓練中に台風がやってきたのです。
中心付近の最低気圧は960ミリバール。
訓練海域では風速36メートルの暴風が記録され、高さ20メートルの高波が艦隊を襲いました。
この台風の影響で第四艦隊は、参加艦艇41隻のうち、19隻が損傷しました。
とりわけ吹雪型駆逐艦2隻は、波によって艦橋から前の艦首部分が、まるごと切断されています。
「最上」、「三隈」も甚大な被害を被りました。
強度上の問題で外板に亀裂や凹凸ができ、船体が歪んで一部の砲塔が旋回困難になってしまったのです。
日本近海での台風遭遇ですらこれです。
実際に遠洋に出れば、波はもっと高く、風も雨もケタ違いに大きい。
そうしたあらゆる災害に耐えれなければ、軍艦といえません。
この事故は、第四艦隊事件と呼ばれ、日本海軍は、このときの被害を受けて、海軍艦艇全部に、補強工事施を施しました。
「最上」「三隈」は、そのために重量が重くなり、最高速度は37ノットから、35ノットに低下してしまいます。
こうした一連の事故や改装を経て、昭和12(1937)年、最上級軽巡洋艦の三番艦として「鈴谷」、四番艦として「熊野」が完成しました。
そして「鈴谷」と「熊野」は、昭和13(1938)年に艦隊に編入され、昭和14(1939)年には、当初主砲として搭載されていた15.5センチ砲を、晴れて20センチ砲に換装し、軽巡洋艦から、重巡洋艦へと転換しています。
*
昭和16年12月、大東亜戦争が開戦となると、「熊野」は、マレー上陸作戦、アンダマンやビルマの攻略戦、バタビア沖海戦などに参加し、次々と大きな戦果をあげていきました。
そして昭和17(1942)年6月、ミッドウェー海戦が起こる。
この海戦で「熊野」兄弟の長女にあたる「最上」が中破、二女の「三隈」は沈没してしまいます。
闘いの最中「熊野」も米艦載機の攻撃で大被害を受け、混乱の中で「最上」と衝突事故まで起こしてしまうのですが、それでも「熊野」は沈むどころか、ますます強靭に敵への砲撃を加え続けました。
あまりの「熊野」の強靭さと火力に、むしろ米軍の方が、驚いたと記録されています。
不思議なことに「熊野」は、開戦当初から、数々の海戦に参加するのだけれど、敵の空襲でそれなりの被害を受けながらも、沈むような状況に追い込まれたことがまるでありませんでした。
これはもう、幸運としかいいようがない、ということで、戦争半ばから、「熊野」を旗艦として、「鈴谷」「利根」「筑摩」の3艦を率いた第七戦隊が編成されました。
そして昭和19(1944)年10月、運命のレイテ沖海戦に参戦します。
10月24日、栗田艦隊旗艦の戦艦「武蔵」は、米艦載機の猛攻撃を受けて、航行不能に陥りました。
戦艦5、重巡10、軽巡2、駆逐艦15の威容を誇った栗田艦隊は、旗艦の武蔵が大破し、重巡の「麻耶」「愛宕」が潜水艦の魚雷で沈み、「高雄」も雷撃で大破、「朝霜」「長波」「妙高」も、中破してしまいました。
ところがこれだけの激しい戦いの中、なんと「熊野」以下4艦で構成する第七戦隊は、まるで無傷でした。
悠々と敵を倒し、さらに翌25日早朝にはサンベルナルジノ海峡を突破しています。
そして夜が明けた午前6時44分、艦隊は艦載機を満載した米機動部隊を発見しました。
これまで敵航空機にさんざんやられっぱなしだった艦隊は、喜び勇み、7時3分、敵艦隊に向けて主砲を発射します。
このときの敵艦隊は、米海軍の護衛空母部隊です。
兵力は空母6、艦隊駆逐艦3、護衛駆逐艦4です。
「熊野」は、猛然と最大出力で米空母に向けて一直線に詰め寄りました。
すると敵艦隊は、空母を守れとばかり、煙幕を張り、「熊野」が空母を目視できないようにしました。
ところが目標が視認出来なくなった「熊野」は、さらに速度を上げる。
そのとき、煙幕の中から、米駆逐艦の「ジョンストン」が、「熊野」の真横に飛び出してきました。
体を張って、「熊野」の突撃を阻止しようとしたのです。
日本艦隊は、もちろん「熊野」一艦ではありません。
煙幕から飛び出すということは、自身が敵前に身を晒すことになる、きわめて危険な行動です。
それでも「ジョンストン」は我が身を晒しながら、突進する「熊野」に向けて、5門の主砲を全開にして砲撃を加えながら、さらに5連装発射菅2基から10本もの魚雷を一気に発射して、「熊野」を倒そうとしました。
距離、約9000メートルです。
もはや、敵空母は目前です。
「熊野」は、これまでの幸運を信じ、「ジョンストン」の発射した主砲や魚雷に目もくれずに、空母に向かって突進しました。
7時25分、「熊野」は左舷から突進してくる3本の魚雷を補足。
やむをえず回避行動をとりました。
2本の魚雷はかわしました。
けれど3本目の魚雷が「熊野」の左舷側から、艦首一番砲塔横に命中しました。
轟音とともに、「熊野」は艦首の錨孔から前を吹き飛ばされてます。
「熊野」は、双方の砲声響くど真ん中で、艦首から浸水が始まり、停船を余儀なくされます。
そして砲弾が渦巻き、米空母から次々と敵航空機が発艦してくる中を、必死で、吹き飛んだ艦首の修繕を行いました。
そしてどうにか、時速20キロで航行できるところまで、艦を回復させます。
その間に、煙幕から飛び出して「熊野」を叩いた「ジョンストン」に向けて、「榛名」が報復の主砲を撃ち込みました。
日頃の訓練の賜物です。
「榛名」の主砲弾は、全弾が「ジョンストン」に命中します。
さらに第十戦隊の「雪風」なども砲撃に加わり、ついに「ジョンストン」をレイテの海に沈めてしまいます。
一方、艦首を吹き飛ばされた「熊野」は、これ以上の戦闘の継続ができません。
やむをえず「熊野」は、米軍の空母艦載機が空を舞うレイテ近海を、12ノットという超ノロノロ運転で、単艦、修理のためにマニラへと後退しました。
この後退のための航海中、「熊野」は何度も敵の哨戒機に見つかっています。
ところが「熊野」は単艦です。
しかも超ノロノロ航行です。
そして艦首が吹き飛ばされているので、艦様が変わっています。
このため上空から見る「熊野」は、幸いにも敵機に襲われずに航海することができました。
ところが、見分けがつかないのは、友軍機も同じです。
「熊野」はなんと日本軍の飛行隊に襲われてしまうのです。
最初は水上爆撃機「瑞雲」3機でした。
続いて艦上攻撃機「天山」1機が飛来して爆弾を投下してきたのです。
そこで幸運が起きます。
およそ、目標を補足した日本機が、投下した爆弾を目標から外すなどいうことは、普段なら絶対に考えられないことです。
ところが「熊野」の航行速度があまりに遅かったことから、爆弾が逆にはずれてしまったのです。
もっとも「熊野」の乗員たちは、友軍機の錬度が落ちていること、彼らが敵味方の区別すら満足に出来なくなっていることを痛感したといいます。
そんな「熊野」も、ついに米軍機に見つかるときがきました。
17時15分、ノロノロ走行を続ける「熊野」を、米軍の爆撃機35機が襲撃してきたのです。
「熊野」は単艦です。
航空隊の護衛もありません。
しかも満身創痍です。
しかし、かくなるうえは、戦わなければなりません。
「熊野」は、猛然と対空砲火を開始しました。
そしてノロノロ運転ながら、なんと、敵艦載機から投下された爆弾をすべて回避し、ついに敵爆撃機を全部追い払ってしまうのです。
いやはや、たいしたものです。
ところが翌朝8時過ぎ、再び米艦載機が襲ってきます。
こんどは戦雷爆合わせて30機の編隊です。
「熊野」は猛然と高射砲で対抗したのだけれど、敵さんも今度は作戦を考えています。
3機が朝日を背負った目くらましで「熊野」に突進して、爆弾を投下したのです。
なんとか一機目の爆撃は回避したのだけれど、2番機の3発が艦橋と煙突に命中、「熊野」は25ミリ機銃群が全滅し、艦橋左舷の高射砲、高角測距儀、水上電探室まで壊滅してしまいます。
そして破壊された煙突の鋼鈑が、横の高角砲に垂れ下がり、高角砲も使用不能になってしまう。
この戦いで、乗員40名が戦死しています。
それでも「熊野」の乗員たちは、残りの砲塔で粘りに粘り、ついに敵戦雷爆を追い返してしまいます。
しかし煙突をやられました。
「熊野」は、ついに航行不能に陥ってしまいます。
その「熊野」を、1時間後、さらに15機の米軍雷撃機が襲ってきました。
すでに航行不能です。
人で行ったら、瀕死の重傷を負った状態です。
それでも残った砲の全てを使いきり、砲弾を米艦載機の鼻先に集中させました。
そうすることで、敵機が雷撃行動をとることの阻止を図ったのです。
高速で空を飛ぶ敵航空機が、まさに雷撃しようとする瞬間を狙って、その鼻先に砲弾を集中させるのです。
これは相当の練度がなければできない技(わざ)です。
こうして「熊野」は、15機の編隊の攻撃を、なんと、全弾かわしてしまいます。
一発の命中弾も受けずに敵機を追い払ってしまったのです。
いやはやすごい。
こうした激しい戦いの最中にも、乗員の一部は、艦の復旧作業を続けています。
そして夜の10時過ぎ、「熊野」は、かろうじて航行できるようになります。
速度はやっと時速18キロくらいです。
その速度で「熊野」は、必死でコロン湾に向かいました。
15時、やはりレイテから後退してきた重巡「足柄」と駆逐艦「霞」がようやく「熊野」と合流します。
16時05分、コロン湾に入港。
油槽船「日栄丸」から燃料補給を受け、やはり撤退してきた重巡「那智」、駆逐艦「沖波」とも合流する。
そして敵に見つからないように、夜間に出航し、他の船とともに、10月28日午前6時にマニラ港に入港しました。
ところがせっかくマニラに入港したのに、「熊野」は投錨できないのです。
艦首を吹き飛ばされて、主錨が失われていたのです。
そこで、先にマニラに入港していた特務艦「隠戸」に横付して、両艦を縄でくくり、工作部に応急修理をしてもらうことにしました。
さすがは工作部です。
わずか6日で、めちゃめちゃに破壊された艦首を成形し、煙突を破壊されて使えなくなっていたエンジンを、8基のうち、4基まで復旧させてしまいます。
連合艦隊司令部からは、「熊野は青葉とともに適当なる護衛艦を付し、または適宜の船団に加入の上内地に回航すべし」との命令が出ます。
時間があれば、完璧に修理したいところです。
けれど、このままマニラにいたら、さらなる空襲を受ける危険がある。
とにかく動ける以上、同じく日本に帰還するマニラの油槽船や海上トラック船を護衛しなければなりません。
それが帝国軍人であり、巡洋艦の使命です。
3日後の11月6日午前7時、「熊野」は、同じく巡洋艦の「青葉」とともに、日本に向かって帰投する輸送船団らを守って、マニラを後にします。
船団の速度は、わずか時速15キロです。
しかも「熊野」も「青葉」も、敵に襲われたときの迎撃用の高射砲の弾薬が残り少ない。
「熊野」に至っては、この時点で使える砲塔は、一部の主砲と、25ミリ機銃30門だけです。
その状態で「熊野」は、13隻の輸送船の護衛の任にあたったのです。
船団は、沿岸ギリギリを北上しました。
右舷をギリギリ岸に近づけていれば、敵潜水艦が襲ってきても、船は沖に向いた左舷だけ注意すれば足りるからです。
出発から3時間経った午前10時、リンガエン湾の北側で、艦隊は、哨戒にあたっていた米潜水艦団、「ブリーム」「グイタロ」「レイトン」「レイ」の4隻に見つかります。
10時10分、米潜水艦団は、日本の輸送船団に襲いかかる。
4隻の潜水艦は、わずか35分の間に、全艦が、輸送船団に向かって計4回の波状攻撃で魚雷を放ちました。
日本の船団は、この魚雷攻撃をいち早く察知して回避行動をとりました。
最初の魚雷攻撃は、全艦が、これを回避します。
米軍の魚雷は、むなしく岸の岩に激突して爆発しました。
2度目の魚雷攻撃も、全弾、回避に成功しました。
輸送船はどれも小粒で、的が小さいうえに日本人乗員の操船技術が巧みなのです。
そうと知った米軍潜水艦群は、その標的を全艦、「熊野」に向けてきました。
なにせ船団の中で、「熊野」がいちばん的が大きいのです。
まず「レイトン」が6本の魚雷を全弾「熊野」に向けて放ちました。
「熊野」はこれを回避するために、取り舵を切り、そのため背にしていた岸から離れてしまいます。
その直後、米潜水艦の「レイ」が、「熊野」に魚雷攻撃を仕掛けました。
「熊野」は、ようやっと動いているだけのエンジンを全開にして、そのうちの2本をかわすのですが、次いで放たれた3本目の魚雷をかわしきれません。
魚雷は、レイテで直撃を喰らい、応急処置で修理したばかりの艦首に再び命中したのです。
「熊野」は、第一砲塔から前を、吹き飛ばされてしまう。
すかさず4本目の魚雷が発射されます。
これは「熊野」の一番機械室に命中し、機械室を破壊して隔壁が吹き飛ばされました。
「熊野」は、この攻撃で、エンジンルームが浸水し、完全に航行不能に陥ってしまう。
船体は、右舷に8度傾き、26名の乗員が死亡。
残りの乗員は、手作業で海水を汲みだしました。
もはやようやく船が浮かんでいるだけの状況となりました。
この様子を見た米潜水艦の「レイ」は、「熊野」にトドメめを刺そうと、「熊野」に近づいてきました。
ところが、そこには、海底に大きな岩が突き出ていたのです。
「レイ」は座礁し、船体をバックさせてこれを逃れるけれど、浸水が激しく、それ以上の追撃が出来なくなります。
そして魚雷を撃ち尽くした米潜水艦たちは、その場を去っていく。
この時点で「熊野」は、またしても航行不能です。
乗員たちの必死の作業で、なんとか浸水を喰い止めたものの、機関が動かないのです。
やむなく船団の中の油槽船で、曳航しようとするのだけれど、浸水を含めて1万トン以上の重量となった「熊野」です。
2200トンの油槽船でまともに曳航できるはずもありません。
ところが、そこに幸運が訪れます。
強い追い風が吹いてきたのです。
おかげで船団は、わずか時速3キロという、這うようなスピードだけれど、なんとか航行し、翌7日15時に、サンタクルーズ港に入港しました。
サンタクルーズ港というのは、小さな漁港です。
なんの港湾設備もありません。
とりあえず、そこで船を停泊させ艦の修理をしようとするのですが、そこに折からの台風が襲いかかります。
やむなく「熊野」は、輸送船団を先に行かせました。
いよいよ台風がやってきました。
「熊野」は、船首を敵に吹き飛ばされています。
ですから錨(いかり)がありません。
しかたがないので、錨口にロープを結んで岸につないだのですが、暴風雨は強力です。
ロープは切られ、船は湾内を流され始めました。
そのまま岸辺に激突したら、一巻の終わりです。
乗員たちは、艦に積んであった約3トンのホーズパイプを海底に垂らしました。
なんという偶然か、これがかろうじて海底にひっかかってくれました。
ようやく艦が流されずにすみます。
またしても「熊野」は生き残ったのです。
台風が去ったあとの11月12日、救難艇「慶州丸」が到着しました。
「慶州丸」は、マニラから、第103工作部隊を乗せてきてくれました。
そこで乗員全員で力を合わせて、艦の復旧作業を始めました。
9日後、努力の甲斐あって、ようやくエンジンの一部が回復し、艦は、時速10キロほどで航行できるようになりました。
けれど、あちこちで蒸気漏れを起こしています。
これでは、たちまち真水が不足してしまう。
長時間の航海ができないのです。
そこでどうしたかというと、乗員たちは、手作業で真水500トンを艦内に運び込んだのです。
500トンです。
それを手作業で運んだのです。
しかも、ろくな設備もない艦内で、船の修繕中や、水を運び込んでいる最中に、どこからともなく米軍機が現れては、空襲を仕掛けてくる。
その空襲の都度、乗員に戦死者が続出します。
やむなく敵を追い払うために高射砲を撃つのだけれど、そのためにただでさえ不足気味の弾薬が、急速に欠乏していきます。
11月22日、マニラから補給船が到着しました。
「熊野」は、高射砲機銃弾4500発と応急資材、糧食、軽油等の補給を受けます。
4500発とはいっても、30門の高射砲で割ったら、一門わずか150発です。
速射したら数分で、なくなってしまう。
25日、マニラから海防艦「八十島」が応援にきてくれます。
そこで「熊野」は、負傷者を「八十島」に移乗させ、マニラの病院に搬送してもらうことにしました。
けれど「八十島」は、出発直後に攻撃を受けて撃沈してしまいます。
負傷者も、海に沈んでしまう。
「八十島」を撃沈させた敵機は、続けて湾内にいる「熊野」に集中攻撃をしかけてきました。
迎え討つ「熊野」には、弾がありません。
そこでどうしたか。
「熊野」は、敵機めがけて、一発必中で弾を撃ちました。
連射できるだけの弾がないのです。
狙い定めて、一撃必殺!
あまりに正確な「熊野」の迎撃に、米軍機は、全機、離反してその場を去っていきました。
残りの弾薬は3000発です。
砲門1門あたり、残り、わずか80発です。
数時間後、再び敵機が来襲しました。
これは米空母「タイコンデロガ」の搭載機で、SB2Cという、米海軍の主力爆撃機でした。
しかも20機以上の大群でした。
場所は狭い湾内です。
しかも「熊野」は、エンジン出力を全開にしても、時速10キロしか速度を出せません。
そんな「熊野」に、海上の艦船爆撃を専門とする米軍のSB2Cの爆弾や魚雷が、次々と命中しました。
まず、艦橋後部に1発が命中。
そして艦橋後部に、連続して2本の魚雷が命中。
一番砲塔横と飛行甲板横にも、1本ずつの魚雷が命中。
爆弾が二番砲塔に命中。
その他、数十発の砲弾を浴びて、ついに「熊野」は、左舷に傾き、そのまま転覆してしまいます。
このとき、艦長以下400名も、一緒に海に沈んでしまいました。
昭和19(1944)年11月25日15時30分のことです。
沈没時、船を逃れて岸まで泳いでたどり着いた生存者は639名でした。
けれど、その大部分は陸戦隊としてフィリピンに残り、そのうち494名がフィリピンの山野で散華されています。
「熊野」の戦死者、累計989柱。
乗員の9割に達しています。
昭和43(1968)年、観光中のダイバーが、サンタクルーズで、海底に沈んだ「熊野」を発見しました。
そして船内から、ご遺骨約50柱を海底から持ち帰っています。
***
重巡洋艦「熊野」のお話をさせていただきました。
どんなにつらくても、苦しくても、泣きたくなるほど悔しくても、周りに誰もいなくなっても、満身創痍でも、最後の最後まであきらめず、未来を信じて戦い抜いたのが「熊野」です。
そして日本人です。
重巡洋艦「熊野」は沈んでしまいました。
船は女性名詞で、「she(彼女)」と呼びます。
ボクたちは彼女のことを決して忘れない。
「熊野」を忘れない。
死には二通りがあります。ひとつは命を失う死、いまひとつは人々の記憶から失くなる死です。
何があっても最後まであきらめずに戦い続けた「熊野」は、ボクたち日本人の心に、未来永劫、永遠に生き続けるのだと思います。
彼女たちが、私達の心に生き続けること。
それこそが、彼女たちへの最大の供養です。
※この記事は2011年5月の記事のリニューアルです。
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幾多の不条理に対して、私たちは胸を張って美しく立ち向かわなければならないことを、海に沈んだたくさんの美しい艦が教えてくれているように思う。
必死に救助する自衛隊員の姿とダブり、グッときました。
熊野…重巡に川の名前?
軽巡として誕生したのですね。
今朝も勉強になりました。
有色だって人間だぞ!
人種平等を叫ぶ我国。
しかし…植民地のオーナーから見れば我国は侵略者そのもの。
今も変わらぬ「侵略国」扱い。
満身創痍の彼女と多くの兵員の帰国は叶いませんでした。
熊野は沈みましたが、我国と私達は沈む訳にはいきません。
彼女の粘り!
心に刻みます。