秋葉原の事件報道を見たときに、まず思ったことは「ロックだな」という、不謹慎を禁じえない感想であったことを告白する。
当事者は社会からの疎外感に悶え、悩み苦しんでいた様がいろいろなエピソードから伺える。
そして、バーチャルの世界にも不適応状態を呈した挙句、件の凶行に及んだのではなかろうか。
あの事件の前後から、現代社会の矛盾や闇、欺瞞性などにいきなり太陽光が当てられたように、突然、色々なモノが、万人にも目に見える形でさらけ出されたように思う。
インターネットを主体とする幻想だらけの共和国の存在というものも、かなり多くの人が知ったのではなかろうか。
そうなのである。
このバーチャルな「セカイ」では、数限りない蛮行が、おびただしいほどの欺瞞に満ちた日常が、数少ない「真実への回帰と認識」などがごった煮状態で溢れかえっていたのだ。
その中に「生きること」に、自らの生きがいを見出した人もいれば、逆に、幻滅してそのセカイを後にした人もいる。
また、その世界から爪弾きにされた人や、不適応状態になった人もいる。
バーチャルでないセカイと比較にならないほどハードで、生々しく、えげつなく、おどろおどろしい。
匿名性の世界だからこそ、人間の本質がさらけ出されまくるという諸説は正論に違いない。
仮想現実なのに、「現実よりももっとリアル」なセカイなのである。
そういうセカイの中であぶれた人、なんと表現すればいいのか。
「バーチャルの世界で異邦人化したヒッピー」とでも言おうか。
秋葉原の事件はそういう当事者によって引き起こされた犯行ならぬ「反抗」、つまりはロックだと、そう思ったのである。
以前、カミュの「異邦人」を何度か読んだ。
が、未だによく理解できない点が多々ある。
すごく難解なのだが、しかし好きか嫌いかといえば、生理的に好きである。
この感覚はうまく説明することができない。
ところで、カミュの言う「異邦人」とはすなわち、「社会不適応者」のことである。
そういう自分も多かれ少なかれ「異邦人」的な要素を持っている「半不適応者」だと思うので、そう意味でとっつきやすい小説だ。
だから生理的に好きなのかどうかは自分でもいまいちよくわからない。
この不適応状態とは、かなり無意識的なものであり、同時に生理的に社会に嫌悪感を持つことによって起こる気がする。
カミュの中の「異邦人」ムルソーは太陽が眩しくて暑いから、不愉快だからという理由のみで殺人を犯す。
裁判所は法に則って彼を裁くことは可能だが、本質的には、人間としての彼を裁くことは不可能なのである。
後味の超悪い作品である。
秋葉原の事件についても、それ以外の事件についてもそうだと思うが、裁判所と法は、犯人たちを裁くことはできても、人間としての彼らを裁くことはできない。
それは「人が人を裁くこと」自体が矛盾したことだからなのではないかと思う。
犯罪の抑止力とか云々以前に、まずは最初の時点で矛盾しているのではなかろうか、人が人を裁き、時に死刑を宣告するというシステムが、である。
生まれながらに原罪にまみれた人間が、原罪にまみれた人間を裁き、時に死を宣告するという、この滑稽なシステム。
それが古代から培われてきた社会のルールなのだという意見もある。
事件報道や裁判での決定などの報道を見たときに、僕は、それらに対して根源的な疑問というか、違和感を感じとり、なんとなく納得、適応出来かねる時がある。
生理的な嫌悪感を感じとることもある。
たんに表面上、「とにかく罰を与えました」というように思えてしまうのだが、それが良いのか悪いのかは、実は僕もよくわからない。
Number Girl-透明少女(LIVE)
小山卓治/ひまわり - YouTube
オフコース 夏の日 PV 撮影風景 1984 - YouTube
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