江戸時代の大家さん、現代の大家さんとはどう違う?
現代の「大家さん」といえば、不動産を所有して賃貸収入で豊かに暮らしている富裕層といったイメージをお持ちの方も少なくないことだろう。実際にそういう人も数多くいるし、空き家が増えて維持に苦労している人もいれば、収益を上げるために事業として取り組んでいる人もいる。どちらにしても、現代の大家さんは賃貸業を営む借家の持ち主という意味である。
江戸時代の大家さんは、落語の登場人物の印象が強い。脳天熊にガラッ八、ご隠居さんに若旦那、与太郎と大家さんなどお馴染みのメンバーで様々な騒ぎを起こすわけだが、その中でも大家さんは物知りで面倒見が良かったり、ケチで因業だったりと、他の登場人物と比べて幅広い役柄をこなす名バイプレーヤー的存在感がある。
そこで必ずといっていいほど出てくるセリフが「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」というものであり、現代の大家さんとはだいぶ趣が異なる。というのも実は江戸時代の賃貸事情は今とはだいぶ異なり、大家さんの立場や業務も大きく異なっていたからだ。
実は、江戸時代の大家さんは不動産の所有者ではなく「家持(いえもち)」の代理人、つまり賃貸物件の管理人的存在であった。家持とはその名の通り家の所有者を意味するのだが、これもまた現代とは事情が違う。
家持は江戸幕府が開かれた頃、徳川家と一緒に江戸に入植してきた町民たちで、徳川家から町割りされた土地を拝領し、そこに家屋敷を建て生活基盤を開いた最初の江戸市民である。
彼らは徳川家の武士団が存続するために必要な職能集団で、現在風にいえば一線で活動する営業職を支えるバックオフィス的な役割を担っていた。
しかし、江戸の都市化が進むにつれ人口が増加し、拝領した広い土地を自分達だけで使うのは非効率な状況となった。そこで社会からの求めに応えるように、家持たちは敷地の裏側部分に貸家を建て、賃貸しするようになった。その雇われ管理人が大家さんだったのである。
「大家は親も同然」は単純な人情噺ではなく、深刻な社会制度に由来したもの
そこでひとつ疑問に思うのが、賃貸住宅は家持の裏庭に建てられていたにもかかわらず、なぜわざわざ管理人を雇う必要があったのだろうか。
それは当時の治安維持政策のためであった。江戸時代には五人組と呼ばれる制度が存在し、武家・農民・町人・僧侶神官などの職制別に自治組織を組ませ、それぞれの組織内で連座制を取ることを基本路線においていた。その上で、監督する役所を設置して政策の徹底や行政を行なっていた。
要は、身分や職制の同じものを一箇所にまとめて住まわせ、隣近所同士で五家を1組とし、何かあれば連帯責任ということでお互いを監視させたのである。
しかしそうなると、今度は口裏を合わせて隠蔽したり、誤魔化そうとしたりするものが出てくる。それに目を光らせるのが各役所の主たる業務だった。
この連座制は、五家の家族だけに留まらず、その敷地内に住むすべての者に適用された。家持たちは様々な商売を営んでいたが、当時の従業員は基本すべて住み込みで働いていたので、従業員の1人が罪を犯せば連座制が適用され、五家の家族はもちろん、それぞれの従業員、貸家の店子に至るまで同罪として処罰の対象範囲とされた。
そこで家持の重要な仕事として従業員の監視があった。そのような状況で、裏庭の店子たちの監視までは手が回らない。そこで、長年一緒に仕事をしてきた信頼できる従業員の中から、長屋の管理を任せられる有能なものを選び、大家さんとして配した。
「大家といえば親も同然」とは単純な人情噺ではなく、もっと切実な社会制度に由来した言葉だったのである。
時代劇で大家さんが岡っ引きの詰所にいる理由とは?
大家さんにはもうひとつ大事な役割があった。それは裁判所事務官としての職務である。江戸の町政は町奉行を行政の頂点に置いて、年寄り3家、町名主120家、家持約3万戸(※)という構成になっていて、行政のピラミッドが組まれていた。(※大猷院殿御実紀の記述より算出)
そしてこの年寄り3家(奈良屋、樽屋、喜多村)は、その下に連なる組織の筆頭として自治を行い、町民たちの民事的な訴訟ごとを裁く裁判所として機能していた。
町内の訴訟はまずは町名主が裁き、それでも解決しない時には町年寄りに上訴して、それでも解決しなかった場合は、管轄の奉行所に上訴するという累進性が取られていた。
その際、裁判機能を維持するために、月ごとに家持たちが町名主の補佐役を務めていた。しかし家持は多忙だったため、その代行をしていたのが大家さんである。
また家持には「自身番(じしんばん)」と呼ばれる、現在の派出所と役所の出張所を合わせたような機能を持つ場所に、交代で詰める業務もあった。もちろんそれも大家さんが代行していた。
よく時代劇などのワンシーンで、岡っ引きの詰所のような場所で、お茶を飲む大家さんが登場するが、まさにその光景が当時の江戸町政の日常を表しているのである。
大家さんは店子の監視だけでなく、江戸の刑法をはじめとするあらゆる法令に熟知したインテリで、裁判官の補佐役を務めるほどの存在だった。大家さんという呼び名には、現代でいえば、弁護士さんとかお医者さんといったような、一種の尊敬の念が込められていたのである。
大家さんは超多忙、夜回りや捨て子の親代わりも
この様に社会的にかなり大きな役割を担っていた大家さんの日常業務を、江戸時代の記録から簡単にご紹介しよう。
・町政に関する業務(町名主の補助業務):町触れ伝達、人別帳調査、火の番と夜回り、火消し人足の差配、訴訟や呼び出しでの奉行所への付き添い、諸願いや不動産売買の際の証人
・長屋管理に関する業務:店子の身元調査と身元保証人の確保、上下水道や井戸の保全、道路の修繕、建物の管理、賃料の集金、店子の生活の指導や扶助、病人怪我人の救済、冠婚葬祭の差配
大家さんは主なものでこれだけの業務をこなしていた。量が多く内容も多岐にわたるため、かなりの激務であったと想像できる。
特に病人怪我人、捨て子に関しては、かなり厳しい取り決めがあったようである。江戸時代の法例集ともいうべき御定書(おさだめがき)の中に、大家さんが管理する長屋敷地内に行き倒れた病人怪我人、捨て子があった場合、この面倒を見なければならないと定められていて、これに反するとかなりの重罪となった。
その際の費用は全額、大家さんの持ち出しで、行き倒れた病人が裕福な旅行者でもない限り、経済的な負担は大家さんに掛かってきた。
捨て子が保護された場合が特に大変で、その子どもの養育に関するすべての責任が課せられていた。例えば、乳飲み子が長屋の木戸門内に遺棄されていた場合などは、養子先を探す、適当な里親が見つからなければ、奉公に出られる年齢になるまでの衣食住の世話、手跡指南所(寺子屋)の入所などの教育、奉公先の斡旋など自活するための援助と、生涯にわたり親としての責務が課せられることになっていた。まさに大家さんは親同然だったのである。
大家さんの収入は?訴訟の付き添い料が礼金のはじまり
これだけの激務と重責を担わされていた大家さんだが、どの程度の収入があったのだろうか。江戸時代の労働条件などから推察してみよう。
江戸時代の高給取りの代表は大工職人だった。当時の文政年間漫録という記録によると、1人前の大工職人の俸給は日当で銀5匁4分とあり、1ヶ月だと銀162匁程度になる。文政期の両替相場では銀162匁は金2両3分ということになる。
江戸時代は三貨制度を取っており、武家と富裕層の町人は金貨を使い、中層の町人は銀貨を使い、低所得者層は銭貨を使うという具合に大まかに分かれていた。したがって江戸の市民たちは、それぞれの通貨間での交換レートの変動相場を頭に入れて、日々の生活をしていた。
大家さんの収入はというと、①雇い人からの俸給②店賃の集金手当(賃料の5%程度)③店子からの礼金(訴訟やお願いなどの付き添い料)④下肥料(農家に肥料として売る糞尿代金)などがあった。
これらの総額が収入という訳だが、差配する長屋の規模や条件などにより異なるので一概には言えないが、前出の大工職人の所得の3〜5倍ほどはあったようである。ちなみに③の礼金が現在の賃貸業界での礼金の発祥である。敷金という補償金制度は、商家の習慣の「しきがね」が元になった。
江戸の大家さんは、落語に登場する様にはっつぁん熊さんと呑気にお茶を飲みながら馬鹿話に付き合っていられるほど暇ではなかったようだ。現代の賃貸経営者の方々のご苦労も、江戸時代の大家さんに通じることなのかもしれない。
2019年 01月26日 11時00分