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【書評】

歌は分断を越えて 在日コリアン二世のソプラノ歌手・金桂仙(キムケソン) 坪井兵輔(ひょうすけ)著

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◆歴史の痛み 温かく包み込む

[評]佐川亜紀(詩人)

 「歌で人々をつなぎたい」とは、人間の源にある当たり前の願いではないだろうか。だが、国家や社会の壁が立ちはだかるとき、なんとすさまじい苦しみを被ることだろう。それでもなお夢をあきらめない熱意は、在日だけではなく歴史の痛みを抱えた人たちを温かく包み込む。

 在日コリアン二世のソプラノ歌手・金桂仙さんは、幼いころから民族の歌に親しんだ。父母は、在日一世で日本の植民地支配による離郷の悲しみに耐え、懸命に子どもを育てた。桂仙さんは朝鮮学校コーラス部から実力が認められて在日の歌舞団のプロ歌手へと進む。だが、国籍問題で海外公演に参加できず、歌手への道が閉ざされた。南北分断は在日の若い心を押しつぶすのだ。

 育児のためにいったんは歌をやめ、夫を支え、焼き肉店の女将(おかみ)としてがむしゃらに働き、義母の介護も果たした。夫は一九四八年に約三万人の住民虐殺が起こった済州島で生まれ、家族の味さえ知らなかった。また、桂仙さんは北朝鮮に行き、胸を裂かれる現実に涙するが、政治のためには歌わないと意志を固める。

 四十八歳にして大阪音楽大学短期大学部に入学した前向きな生き方はまぶしい。歌を学ぶ意欲ばかりではなく、後年、韓国残留日本人妻たちを慰問したように、歌で共に人間を回復したいという切望が不屈の活力のもとだろう。

 桂仙さんの人格は豊かで、魅力が尽きない。「分断」が朝鮮半島にも、在日にも、日本社会との間にも存在するのに心を痛める。すべての人に「心のふるさと」を歌で届けたい。差別の中でも、日本の歌曲を習い、違う個性を見いだし、世界の歌の神髄を求める。

 著者は、桂仙さんに尊敬と感動に満ちた眼差(まなざ)しを向け、十年に及ぶインタビューを中心とした丁寧な取材を行い、人生を濃密に描き出した。背景となった在日の歴史と社会を分かりやすく説いている。

 歌と人間への信頼を決して失わず、困難を乗り越えて歌い続ける桂仙さんの姿が、今の時代に一層光って見える。

(新泉社・2052円)

1971年生まれ。MBS毎日放送で報道などに携わり、現在は阪南大准教授。

◆もう1冊 

康潤伊(カンユニ)ほか編著『わたしもじだいのいちぶです-川崎桜本・ハルモニたちがつづった生活史』(日本評論社)

 

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