4-13

「うまいものだろ? 翻訳機がなくても通じる」


「犬」が笑う。


 そうは周囲に目を走らせた。複数のがいがこちらにやってくる。取りかこもうというはらか。


上原うえはら蒼、説明してくれ。こんなところで何をやっている」


「犬」の声は落ちついている。彼も動揺が声に出ないよう一度深呼吸した。


「走っている」


迎賓館げいひんかんのまわりを?」


「そうだ」


「日本政府がウィラックの使節団を招いて晩餐会ばんさんかいを開く日に?」


「たまたまだ」


「なるほど、か」


「犬」が口を、耳まで裂けたかと見えるほど大きくひろげ、笑った。蜥蜴とかげに似ていると彼は思った。


「では鹿じかプルーデンスが死んでから迎賓館のまわりを走るようになったのもたまたまか?」


 彼は並木道に目をやった。車列が入ってくる。晩餐会の出席者たち――人間とウィラック。プラカードの集団が騒ぎだす。「ウィラックは謝罪しろ」の大合唱だ。


 がはじまってしまう。


「おまえのことはずっと監視していた。いまはお偉いさんを護衛するのが仕事でね」


「犬」が目を逸らす。アイコンタクトを交わした4体の魔骸が彼を押しつつもうとする。


 彼の肩に魔骸の手がかかる。大きくて重い手だ。


「助けて!」


 彼は声を張りあげた。「ウィラックは謝罪しろ! ウィラックは謝罪しろ!」


 こちらに近づいてくる人影が魔骸たちの隙間から見えた。


「おい、何やってんだ」


 プラカードの集団が彼と魔骸の間に割って入る。


「その人から手を離せ!」


「この蜥蜴野郎!」


「帰れ! 帰れ!」


 小競りあいがはじまった。魔骸たちは囲まれ、小突かれても抵抗しない。自分たちよりはるかに小さな人間たちをどう扱っていいのかわからない様子だ。


「犬」が彼をにらみつけ、近づいてくる。人間たちを掻きわけて進むが、周囲の気をかない。体格がかわらないので魔骸の一味だと見なされていないようだ。


 白髪の男が彼の肩に手を置く。


「きみ、だいじょうぶ?」


 蒼は笑ってみせた。


「ありがとう。助かった」


 男の髪をつかみ、その頭を「犬」の顔面に叩きつける。「犬」が悲鳴をあげる。


 蒼は「ブラッドレット・ランセット」を生成し、地面に突きたてた。


 と念じる。爆風で体が浮きあがる。


 群衆を飛びこえ、車道におりたった。車列の先頭車両がつっこんでくる。


 ふたたび「ランセット」で飛ぶ。舞いあがる彼の眼下を車が走りぬけていく。


 トラックのような大きな車の上におりる。魔骸の乗る車だ。このあたりを走っているときに何度か見かけた。


 後続の車を見渡す。4台向こうの運転手に見おぼえがある。


 車の屋根にやりを突きたて、飛ぶ。沿道でかれるフラッシュが目に刺さる。


 ボンネットに着地する。助手席の男が目を丸くしている。これも見た顔だ。後部座席の男も。


 フロントガラスと屋根の一部をりとばす。ガラスの粒がきらきら光って車の後方へ流れていく。


「死にたくなければ車を止めろ」


 運転手に槍を突きつけながら、もう一方の手に投げ槍を生成する。


 車が急停止する。慣性で振りおとされそうになるのを、ボンネットに突きたてた槍で持ちこたえる。


「おまえらに用はない。消えろ」


 彼がいっても前の2人は座ったままだった。ならばと、投げ槍を消す。ボンネットが吹きとぶ。沿道から悲鳴があがる。


 ようやく前の2人があたふたシートベルトをはずし、車から降りる。後部座席の男も逃げようとする。


 蒼は車の屋根に飛びのり、それを見おろした。


たすきせい!」


 ドアを開けて走りだそうとした男の背中に飛び蹴りを食らわせる。男は倒れ、地面にいつくばった。


 起きあがろうとするところをさらに蹴り、仰向けにする。


 テレビで、そしてあの町で見た顔――襷木清二。


 その体をまたいで眼前に槍を突きつける。


「私を殺す気か」


 襷木は槍の先端を見つめている。蒼は答えない。


「私を殺してもきみの仲間たちは生きかえらない」


「そりゃそうだ」


「ウィラックとの共同宣言に反対なのか? あれは人類全体を巻きこむ大きな流れだ。きみひとりの力で止めることはできない」


「そんなもん、どうだっていい」


 蒼は顔をあげた。沿道の人々がスマホのカメラをこちらに向けている。


 大きな流れというものは確かにある。それにみこまれて2万人があのとき死んだ。それに流されながら蒼は、死んでいく人々を見た。その流れに必死であらがおうとした。同じように抗い、命を落とした者たちがいた。


 そんな彼らを利用する者もいる。手柄をすべて自分が取り、長生きをする。


「武器を捨てろ!」


 背後でとがった声がする。


 ふりかえると、警官隊が彼を包囲し、銃を構えていた。別の一派が群集を遠ざけようとする。


 蒼は襷木に目をもどした。高そうなスーツがすなぼこりで汚れている。表情がすこしゆるんで見えた。警官が来たので安心したのか。


 槍の先端で彼ののどに触れる。体を強張らせる彼に蒼は顔を近づけた。


「いまここで撮られた写真や動画がこれからネットに流れる。いったいこの槍は何なのか、なぜおまえが狙われたのか、みんな知りたがる。それをおまえの口から説明しろ。俺はもう疲れた。何も話したくない」


 槍を持ちあげ、爆破する。轟音ごうおんが並木道に響く。警官たちが一瞬ひるんだ。


「両手を頭のうしろで組み、ひざまずけ!」


 その声にこたえず蒼は、槍の中で握っていたこぶしを開いた。てのひらから球が落ちる。


 山の中でれんが見つけ、由一ゆういちが放ってよこした、あの球だ。


 蒼は目を閉じた。


 光が炸裂する。まぶたとおして血のような赤に視界を染める。


 それに背を向け、蒼は歩きだした。沿道の人々が目を押さえてうずくまっている。襷木や蒼を囲んでいた警官たちはもっと近くであの光を浴びたのだから、何も見えなくなっていることだろう。


「ランセット」で飛ぶ。人の群れを飛びこえ、走りだす。


 この日のために走りこんできた。速度をゆるめることはない。


 またひとりの世界に入っていく。




 湖まで1日かかった。


 彼はたつ橋の欄干らんかんに寄りかかり、山の向こうに沈んでいく夕日を眺めた。山の間に押しこめられた湖面が小波さざなみに西日を溶かす。


 8月とはいえ、湖を渡ってくる夕風は冷たい。彼はバックパックからウインドシェルを取りだし、着こんだ。荷物はルートの途中にあらかじめ隠しておいたものだ。自転車も用意してあったので、それに乗って山まで来て、昨夜は山中で1泊した。


 あの頃と同じように町は無人だった。それでもここにひとりで暮らそうという気はもう起きない。など何もない。ここにはハルカがいない。


 財布に入れてあった彼女の押し花を取りだす。病室からこっそり持ってきたものだ。乾いた花弁が風に吹かれて頼りなく揺れる。


 湖に投げこもうとして思いなおす。ハルカはここにいない。彼女の心もここにはない。蒼だけが彼女をこの地に結びつけて考えている。


 何の夢もかなえられなかった。誰のことも守れなかった。


 無人の町を風が吹きぬけ、山の木々を揺らす。同じ風が湖面に波を立て、そこに映じた陽光を砕き、彼に吹きつける。


 太陽はみずからがオレンジ色に染めた空の中に溶け、輪郭を失っている。


 あらゆるものが遠くから来て、一瞬だけこの場に留まり、また遠くへと去っていく。すべてはつながっている。


 涙があふれた。ハルカをうしなったときにも泣かなかったのに。


 欄干らんかんを乗りこえて橋のへりに腰かける。足をぶらぶらさせるその空間は何のへだてるものもなく、はるか下の湖面へと続いている。いまいる時間は、ハルカと湖底に沈んだ時間、山道を歩きながら軽口を叩きあった時間、砂浜で目を見交わし口づけを交わした時間へと続いている。


 涙の粒が落ちる。暗い影となった湖面に紛れてすぐに見えなくなった。


 空に大きな音が響いた。甲高い、耳障みみざわりな音だ。


 夕焼け空の黒い点だったものが、膨らみ、やがて橋の上におりたつ。


「犬」があのふんの長いヘルメットをはずした。赤い髪がこぼれでる。


 彼は眼鏡をはずし、掌で涙を拭った。


「美しい」


「犬」は欄干に寄りかかり、西の空を見つめた。「きっと何千年何万年もむかしからかわらぬ光景なのだろう」


「この湖は70年前にできたものだけどな」


 彼がいうと「犬」は笑った。


「細かいことをいうな」


 橋を支えるケーブルや欄干に風が身をこすりつけ、音を鳴らす。


「俺を捕まえに来たのか?」


 彼は背後に立つ「犬」を見あげた。


「我々にその権限はない。この国の警察がやることだ」


「俺のこと監視してたくせに」


「こっそりやっていた」


「犬」は両手をわきの下に挟み、おどけた顔をしてみせる。


 彼はまた水を飲んだ。水道でんだものだが、あの川とどこかでつながっていると思う。


「犬」は欄干に足をかけ、その上に乗った。すこし高いところから蒼を見おろす。


「上原蒼はこれからどうするんだ」


「さあな」


 彼は水筒を振り、中で転がる小さな泡を見た。


「行くところはあるのか」


「ここがだった。この町が。そこから先は知らない」


 水筒を回転させると、中にうずが生じる。


 風が吹く。夕日が目に見える速度で山の向こうに沈んでいく。


「行くあてがないのなら、私のところに来るか?」


「犬」がぽつりという。


「おまえのところ?」


 彼は彼女を見あげた。彼女は風に乱れた髪を掻きあげる。


「軍事的なサービスを提供する会社だ。私のチームにおまえが欲しい」


っていわれてもな」


「それに、新人をスカウトするとほうしょうきんが出るのだ」


「本音が出たな」


 彼は鼻で笑った。「犬」が欄干からおりて彼のとなりに立つ。


「おまえはよい戦士だ。どんな状況でも恐れず戦う。私はよい戦士が好きだ」


 彼はポケットから薬を取りだし、かじった。渋さにえきが溢れる。


 地上にあまねく熱を与えつづけた太陽が今日の役目を終えて去っていく。光もまた消えていく。


 その最後を見たくなくて、彼は目を閉じた。風がかわらず、あきれるほどにかわらず、湖を渡っていく。

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