4-12

 そうの日には雨が降った。


 そう横山台よこやまだい駅前からバスに乗り、山間やまあいにあるセレモニーホールの前で降りた。


「おひざもとまいり 鹿じかプルーデンス」と書かれた立看板を写真に撮り、病院の大槻おおつきに送る。どういう意味のことばなのかはよくわからない。


 会場に入らず、傘を差したまま外に立つ。まわりの山が雨に煙っている。こんな日に杉林の下を走ったら気持ちがいいだろうと思う。


 しばらくしてバスがやってきた。降車する客の中に見知った顔がある。


 その中年女性は会場入り口の前を通りすぎ、彼のところへやってきた。


「ご無沙汰ぶさたしてます」


「どうも」


 彼は頭をさげた。


 くにれん の母だ。前に会ったのも葬式だった。


 花蓮はあの病院で首を吊って死んだ。入院中、皮膚ひふの下に針が生成されつづけ、彼女はいつも血まみれだった。顔に針ができるようになってからは病室から出なくなった。


 彼が退院するときには彼女もまだ元気だった。


「となりの病室だし、夜になったら襲ってくるかと思って待ってたんだけど、一度も来なかったね」


 彼女はそういって病院のロビーに笑い声を響かせた。


「下品だな。これだからちまたの人は嫌なんだ」


 彼がいうと、ハルカはむっとした表情で彼をにらみつけた。


 いまではもうふたりともこの世にいない。


 前に会ったとき、花蓮の母は悲嘆のあまり、助けなしで立っていられないような状態だった。今日は落ちついている。


「体調はどう?」


「いいです。いまのところは」


 式がはじまると、会場からは歌声のようなものが響いてきた。


 彼は外に立ちつづけていた。すこし蒸し暑い。かさを肩に預け、腕ににじんだ汗を拭う。


 両親の葬儀は遺骨なしで行った。テレビのニュースによると、避難区域に仮埋葬かりまいそうされた遺体を近々掘りおこすらしい。遺体がもどってきたら、今度はどんな式をするのだろう。


 いま会場内にいる者たちがハルカの死をいたむやり方は奇妙だけれど、彼らにとっては最善のものなのだろうと理解はできる。だが彼らの世界観・死生観がハルカをあのような最期に追いやってしまったのではないか。彼は別のやり方で彼女を送りたかった。


 会場前のロータリーに1台の車が停まった。雨に濡れて嫌味なほどに黒光りして、車に興味のない蒼でも高級なものだとわかる。


 助手席からスーツ姿の男が出てきて、後部座席のドアを開け、傘を差しかける。それを受けとり車を降りた男が周囲を見渡す。蒼をみとめるとほほえんだように見えた。


 男がこちらにやってくる。蒼は大きく息を吐いた。


「中に入らないのかな?」


 たすきせいはわずかに傘を持ちあげ、蒼を見おろした。暑い中で黒いスーツを着て黒いネクタイを締めた相手に対し蒼は、学校指定の半袖シャツを着た自分がひどくみっともなく感じられた。


「もう帰るところだ」


 蒼は傘をさげて、相手の視線をさえぎった。


 ニュースでよく見る顔だ。あの「災害」現場の陣頭指揮をり、いまはウィラックとの交渉役として注目を集めている。


いたましいよ」


 襷木がいう。「前途ある若者をこんな形で失うなんて」


「おまえが殺した」


 蒼の声は傘の下にこもる。「ハルカだけじゃない。『ワイルドファイア』小隊の奴らもみんな。沙也さやがああなったのもおまえのせいだ」


「彼らはみずから望んで避難区域に入った」


 襷木がきっぱりという。まるで何度もくりかえした台詞せりふのようだ。彼の乗ってきた車が駐車場に入るため蒼の前をとおりすぎる。


「自己責任ってやつか。なるほど」


 蒼は歩きだした。傘と傘がぶつかって水滴が放射状に散る。


「きみは? 体調はどうだ?」


 背後から呼びかけられる。蒼はふりかえらない。


「体調はいい。病気だけどな」


 助手席に乗っていた男が会場の入り口に立っていた。蒼を横目に見る。背の高い男だ。襷木も高いが彼はもっと高い。最高潮に達した信者たちの歌が会場内から聞こえてきて、男は入り口に目をやった。


 といった手前、蒼はバス停に行くしかなかった。


 屋根の下にベンチがあるので腰かける。次のバスは40分後だ。


 彼はポケットから熱剤ねつざいを取りだし、かじった。目をつぶり、屋根を打つ雨音を聞きながら、これが湖の底ならどう聞こえるだろうと考える。


 もうどこに行ってもハルカには会えないのだという思いが水圧のようにのしかかってくる。




 彼はまた走りだした。


 山で走るのはひとりになれてよかったが、走ってみれば街でもひとりになれると気づいた。歩く人たちを追いこして、自分だけのスピードに没入すればいい。


 植林された杉のせいで画一的な山の光景よりも、街の方が変化に富んでいる。その光景を見たくて、電車に乗ってランニングコースまでおもむく。家のすぐ裏にある山で走っていた頃を思うと、ずいぶん遠くに来てしまったと感じる。


 街の景色はおもしろい。ウィラックとの共同宣言が締結ていけつされるというので、それを祝福するポスターや横断幕があちこちに見られる。祭りのような華やぎがかすかに漂っている。


 街の道路は平坦で怪我のリスクがすくないのがいい。それでも、のはあの町の方だと思う。離れている時間が長くなればなるほど、あの町の正しさがまるで信仰のような強さで彼を駆りたてる。


 走るたびに記録をつけた。距離や時間、見たものなどをメモする。


「そんなに走って何がしたいのか」と母はいった。いまなら胸を張って答えられる――来るべき本番を成功させるのだ、と。


 のことはテレビやネットで大きく取りあげられていた。彼の計画については誰も触れない。ウィラックとのファーストコンタクトの裏で行われていたあの戦いのように。


 その日、いつものコースに出ると、混雑していた。並木道の左右にマラソンの応援のような人だかりができている。テレビのカメラも来ている。警察官が歩道と車道の間に立って周囲に目を光らせる。いつもは閉じている門が開いている。


 彼は人ごみを避けて走りはじめた。このコースの長所は、横断歩道がないのでノンストップで走りつづけられるところだ。背の高いおお袈裟げさな柵の隙間から西洋の宮殿みたいな建物が見える。しょの石垣に沿う直線で加速する。


 ラストの坂を駆けあがって、彼は足を止めた。呼吸を整え、ウエストバッグからボトルを取って水を飲む。あの町を出てからは怪我もあって運動不足だった。そのため、ランを再開した当初はすぐにバテていた。いまはあの頃のコンディションにもどりつつある。


 並木道の群衆に近づいていく。どこかで配っているのか、日の丸の小旗を振っている者が目につく。「ウィラックは謝罪せよ」「共同宣言反対」と書かれたプラカードを掲げる者がいる。がいの姿もある。彼らは赤と青の細長い旗を手にしている。


 警察官に目をやる。動きがあわただしくなってきている。が近い。


 ふいに肩を叩かれる。


 ふりかえると、赤い髪の女が立っていた。緑色の美しい瞳を彼に向け、ほほえみを浮かべている。


「やあ」


 親しげに声をかけてくる。道でもききたいのだろうかと彼は思った。


「何ですか?」


 彼女は彼の顔を指差した。


「目は治ったのか?」


「……何?」


 彼はすばやく向きなおった。


 相手はほほえみを絶やさない。


「私は湖に落ちて首を怪我した。治るまで時間がかかったよ。おかげでその間に日本語を習得できたが」


「テメエ……」


 彼は跳びすさった。


 ヘルメットはないが、まちがいない。あの「犬」だ。

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