友達…と言うのも違うかな
同志…これも違う。
会えなくなって28年の時が経ってしまっていました
十代だったあたし達には、探す術もなく…
いつも、みんなが心の何処かに悲しい思いでとして残ってました
タレントの仕事をさせて貰ってて本当に本当に良かったです
入院前に、事務所に1通の
手紙をくれた方は…なんと、あたし達がずっとずっと会いたいと思ってた子のお母さんでした
共に泣き笑い同じ夢を追いかけた、あたし達のかけがえのない
当時十代だった、あたし達…
真紀が練習中に倒れて亡くなり、皆が死ぬほど泣きました
寮で皆で暮らし…
寮から、いつも一緒だった真紀の姿がなくなり…
若かったあたしは、初めて別れの辛さを味わいました。
歳を取っての別れとは違う別れ
倒れる寸前まで真紀と一緒だったあたし…
真紀の最後の言葉も声も30年近く経った今でも鮮明に思い出します。
最後の言葉は…練習を見てくれてる先輩達への
当時は真紀のお墓も出来てなく…
ご自宅は事務所のおばさんしか知らなく…
後に佐藤さんも引っ越しされ
全日本女子プロレスも倒産…
あたし達は、もう一生真紀に御線香の1本もあげる事が出来ないと思っていました
真紀のお母さんが…
そう思って行動してくれた事が、あたし達のずっと思い続けた
その思いを叶えさせてくれました
沢山いた同期
プロレス界で言う
途中で挫折した子
デビュー出来なかった子
デビューしても直ぐにやめた子
連絡も取れない子も沢山いるけど…ずっと付き合いのある同期で集まり
仕事で来れない同期も居たけど…
来られない同期の分も居場所の分からなくなってしまった同期の分も…
今日来れた四人で伝えました
ただ、あたしの中で
人には後悔や
元気に生きていれば、いつか悔いを改められる日も来ると思う。
その一人に選ばれた
リングに上がれてたら凄い選手になってたと思う
生きていたら
出来る事なら、当時の懐かしい話しを一緒に笑いながらして…旦那さんや子供の話しを一緒にしたかった。
いつか…あたし達が上に上がったら、その時は皆で真紀に色々話してやろう
大嫌いだった先輩の話しとか
今、生かして貰ってるあたし達
あたし一生懸命生きるよ
素晴らしい1日になりました
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無題
きっかけはブログに書いてある佐藤真紀のことです、小学校の時はよく遊んでいました。中学校では、同じクラスになったりプロレス技ヘッドロックを掛けられたりいろいろでした。
真紀のお母さんにはよくあだ名でジロちゃんと呼ばれていました。
北斗さんと佐藤真紀が同期なんて知りませんでした。
思い出します、通夜・お葬式のこと。
10カウントのゴングが鳴っていた事も、女子プロの方々も来ていた事も、雑誌のカメラマンが赤いシャツを着ていてみんなで取り囲んだ事も、すべて思い出します。
妹とお袋さん元気なのかな?墓には行っていましたが、昔の団地に何十年か前行ったら引っ越ししたよと言われお墓しかたまに行っていない状態です。
親父さんは真紀に会えただろうから、お袋さんと妹が元気ならいいと思いますが。
本当に思い出します、ガキの頃遊んだことプロレスラーになると学校で言われたこと真紀の家に行っておにぎり貰った事、参ったきりがない。
北斗さんも体に御自愛下さい。
久し振りに佐藤真紀の顔を見ることができ有難う御座います。
清水 優一
2016-06-15 12:08:48
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