「日本人は個性がない」
「日本人は、和を乱すまいとして、みな同じように行動する」
ほんとうだろうか?
まわりの日本人を見わたしてみよう。「自己チュー」や「へそまがり」、「空気が読めない人」はいないだろうか? 引っこみ思案、目立ちたがり屋、瞬間湯沸かし器、一言居士……いろいろな人が居はしないだろうか?
しかし、「日本人は、みな同じように考え、同じように行動するので、個性がない」というのは、今や世界の「常識」なのである。
「日本人は、集団の和を何よりも大切にするので、集団と一体化しようとするあまり、自分というものをなくしてしまっているのだ」――そう日本人論は繰りかえし説いてきた。
だが、科学的な研究は、この「常識」を真っ向から否定しているのである。
そもそも、「日本人は集団主義」という「常識」は、科学的な研究から出てきたわけではない。
その「証拠」とされてきたのは、ほとんどが個人的な体験や伝聞、ことわざなどの「事例」にすぎない(参照:杉本&マオア『日本人は「日本的」か』)。
たとえば、「出る杭は打たれる」ということわざ。「日本人の集団主義」の象徴として頻繁に引用されてきた。英語の学術論文にまで登場する。
しかし、ことわざといっても、さまざまである。なかには正反対のことわざもある。「出る杭は打たれる」のかわりに、「憎まれっ子世にはばかる」とか「先んずれば人を制す」とかいったことわざを持ちだせば、「日本人は個人主義のエゴイストだ」という主張を「証明する」ことだってできるだろう。
「事例」は、好き勝手に選べば、どんな主張でも「証明する」ことができる。
だから、「日本人は……」というような議論をするためには、「事例」に頼るのではなく、きちんとした比較をしてみなければならない。たとえば、「世界でいちばん個人主義的」というのが通り相場になっているアメリカ人との比較を。
「きちんとした比較」をするためには、同じような人たちを同じような場面で比較する必要がある。
なぜ「同じような人たち」なのか?――身長209㎝のジャイアント馬場と身長(一説には)170㎝のトム・クルーズを比較して、「日本人のほうがアメリカ人より背が高い」と結論できるだろうか? もちろん、できない。
「平均的な日本人」と「平均的なアメリカ人」とか、「20歳の日本人男子」と「20歳のアメリカ人男子」とか、いずれにしても、「同じような人たち」を比較する必要がある。
なぜ「同じような場面」なのか?――100m走の世界記録をもっているボルト選手がジョギングをしているところと、桐生選手や山縣選手がレースで走っているところを比較して、「日本人のほうがジャマイカ人より足が速い」と結論できるだろうか? もちろん、できない。
当然のことながら、「同じような場面」、たとえばレースでのタイムを比較する必要がある。