原監督は幸運に笑い、与田監督は不運に泣かされた。中日には巨人に劣らぬ長い歴史と伝統がある。その看板を背負う責任と覚悟。僕がその重さに触れたのは、ナゴヤドームの監督室の壁に掛けられた26枚の写真である。
1936年に「名古屋軍」として産声を上げた職業野球チームは、初代監督に早大出身の池田豊を迎えた。そこから数えて第33代にして26人目が与田監督だ。もちろんその間には星野仙一や落合博満といった、ファンにもおなじみの名前が入っている。その全員の写真が、監督室の壁に飾られたのは、昨秋の就任直後。与田監督たっての要望を受け、球団がそろえた。なぜ頼んだのか。これが与田改革の第1弾だからだ。
「僕はこのチームの歴史を知りたかったんだ。ここ(ナゴヤドーム)で全ての監督が戦ったわけではないんだけど、このチームがどんな歴史を歩んできたかを僕が知っておくことは、すごく大事なことだから」
83年の歳月を刻んだ老舗球団が、低迷にあえいでいた。再建を託され、引き受けるにあたって身の引き締まる思いだったはずだ。監督とは決断の連続だ。勝野を先発させることもそう。続投、継投、代打、作戦…。どれもが勝敗に結び付き、選手の人生をも左右する。その全てを背負い込むには、相応の覚悟が求められる。同じ重圧を味わった25人の先輩たちを知り、腹をくくりたかったのか…。この話を聞いたとき、僕はそう解釈した。
初めて優勝した54年は天知俊一が率い、西沢道夫、杉下茂、水原茂といった名選手も激務に耐えた。伝統とは歓喜だけではない。傷を負い、屈辱にもまみれる。監督とは全てを引き受け、次代に渡さねばならない。
「いつか僕が辞めて、次の人になっても、この額だけは外さないでください。球団にはそう言っておいたんだ」。写真は増え、伝統は継承されていく。そのときに、長期低迷に終止符を打った監督として、与田剛の名を残すのも使命の一つだ。