〈前述〉
今、私は詩客の方針でこの原稿を書いています。
今回の企画における、Aさんのことを慮った立場からの執筆が必要となるからです。
私個人の意見などに関しては、詩客の方針から外れる部分なので書けません。
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またAさんの主張については、私が書くよりも、御本人のTwitterなどでの発言を参照された方が誤解がないと思われます。
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私が今回の件でお話することができるのは、「ミューズ」という言葉における、Aさんのことを慮った立場からの「擁護論」ということになります。Aさんがこの一連のtweetをなさった後に、幾つかの反論が寄せられていたのですが、それに対して「文学をどう思うか」などと問うたなどの新たな問題については、本稿では語りません。
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さて、読者の皆様にひとつお願いですが、今回の企画において関わる全ての人について、あまり批判をしないで頂けるとありがたいです。全員が精神を削って書いている状況にあります。語られるべきは問題点についてであり、個人の人格の否定などは、ご容赦頂けますようお願い申し上げます。
今回書いて頂いた方は「ミューズ」の一連のTwitterでの出来事の際にAさんに対してリプライをしていた方のなかからお願いをしていますが、その方がた以外にもリプライを返していらっしゃる方はいらっしゃいますし、肯定・否定そして、それ以外の様々な意見が出ていました。
特定の誰かが、今回の企画によって責められることは避けたいと思っています。
企画自体を断念する選択肢もありましたが、話し合いの上掲載されています。
以上
〈本文〉
三谷幸喜の舞台「コンフィダント・絆」はゴッホ・ゴーギャン・スーラ・シェフネッケルが、パリにあるアトリエで共に絵を描いていたら、というファンタジー要素を取り入れた芸術家たちの物語だ。そのアトリエに絵のモデルとしてルイーズという女性が現れる。
彼らの創作活動の日々において、ルイーズは被写体であり、恋人でもあり、彼らの創作意欲を駆り立てる存在でもあった。
画家らはお互いの才能に惚れ、ときに嫉妬の感情を爆発させる。恋あり、青春あり、コメディ要素ありの三谷作品らしい秀逸な作品だった。この作品の公開は2007年のことであるが、いまだに忘れることのできない作品のひとつとなっている。
小説では青春小説などに限らずとも、若く多感な時期が、青春と呼ばれる特別なオーラを纏って、輝きを放つ作品がある。短歌について考えたときに、まず思い浮かんだのが「明星」のことだった。与謝野鉄幹・晶子らは恋愛至上主義を世に謳い、特に晶子は恋の歌を量産した。世に衝撃を与えた『みだれ髪』の存在は今日まで、国内外の文学に影響を与えている。鉄幹にとって晶子たちがミューズであったかは分からないが、「明星」に必要な才能として熱心に育成に励んだことは、渡辺淳一の小説『君も雛罌粟われも雛罌粟』に限らず、数多の資料にあるところだ。(本稿の目的と違うため、今回は作品を引いて語ることは避ける)
〈作品〉と〈恋、青春〉は特別な関係性にあるということだ。
例えば、先に話をしたルイーズが、4人の画家たちにミューズと思われていたとして、どう感じるかは分からない。喜ぶか、嫌がるか、ルイーズの気持ちしだいだろう。ルイーズがどのような教育や環境の中に生活をしてきたか、どんな人から影響を受けたかなどにもよるだろう。
〈とあるルイーズ〉は自分が創作をすることよりも、〈誰か〉にインスピレーションを与える存在であることに、生きがいを感じるかもしれない。また、〈誰か〉にインスピレーションを与える存在であると同時に、自分自身も芸術家やダンサーとして活躍したいと思うかもしれない。
それは、なかなか本人でないと知り得ないことだと思う。
Aさんの今回の「ミューズ」についての問題は、発言者と被発言者という「当事者同士の問題」。それから、TwitterやSNSというような公に人が読める媒体で発言したことによって、それを読んで不快に感じた人や、傷ついた人がいるという「公共の問題」の2通りの解決が必要となる。前者については解決済という話を聞いている。後者については謝罪しtweetを削除していると言っている。
「ミューズ」という言葉についてであるが、既に評論等が出ている通り、現代では差別的な意味を含む言葉となっている。これが「マドンナ」や「憧れの的」という言葉であれば、Twitterで読んでも、もうすこし別の反応になっていた可能性もある。
「ミューズ」という言葉の側面としては、ギリシア神話の女神がそのまま差別的だということでもない。その文脈の上で、どのように使われたかを読む必要がある。文脈という点については、今回の2本の論考が詳しい。(もちろん、反論をできる人もいるだろうが、今回はそうした筆者を、時間的にお願いすることができなかった)
今回の企画により、なにが正しいか・間違いかの判断は、各々の人が読んで考えて下さる機会をお持ち頂ければと考えている。また、何十年後かは分からないが、将来的に次の世代の人たちが、一連を読んでいただいた際に、令和がはじまるこの時代の言葉の読み方と、心の読み方について、どう考えて下さるかにお任せしたい。
Aさんから見受けられたのは、文学として、自分の視点から、感じたことを偽りなく書いてゆくという意志である。それが、例えどういう意味として理解されている言葉であれ、訂正や削除はできないものだという考えがあったのではないかと想像する。
執筆をする人に限らないが、自分が、伝えたい言葉のニュアンスがあった場合、それを変更したり、取消すということは、心を曲げることになる。曲げることができないものを、曲げたのならば、心に傷がつくだろう。「ミューズ」という言葉が、適切でなかったとしても、撤回をすることはつらいことだったと察する。
Twitterで批判的なリプライを受けたことと同じ程度には、心を曲げなければならなかったことのつらさがあったのではないだろうか。
さて、作品と出版界の問題であるが、一般的に有名なのは絵本『ちびくろサンボ』(表記は多様に存在する)の販売自粛・絶版とその後の経緯である。詳細は書かないのでネットで参照して頂きたい。この絵本は様々な経緯を経て、現在は市場で手に入れることができる。世界で差別的と判断されたが後に再考された。他にも出版界における、差別への配慮についての事例は幾つかあるが、『ちびくろサンボ』を含めて、表現の自由の問題は、必ずしも結論がつき、機械的に白・黒と判断できる状況とはなっていない。主張する双方が、相互理解をし、その上で作者が作品にどのような想いを籠めたのか。また、その言葉がなにを意図するものなのかを、個々のケースに対して判断してゆこうというのが、昨今の流れとなっている。
前例を鑑み、詩歌の世界も議論が深まればと思う。
最後に、重複となるが個人の人間性が安易に否定されることは避けたいと思う。Aさん本人も想い出を語ったと言うように、その人を指し示して差別しようという目的ではなかったことに嘘はないように思われる。
本稿終
<短歌時評alpha(3) 言葉~想像力と価値観のコウシンを見据えて~>
※短歌時評alphaは短期集中企画です。