■佐藤浩市氏インタビューの「僕らの世代」が意味するもの
来週公開される大作映画『空母いぶき』に総理大臣役で出演している佐藤浩市氏のインタビューが大きな話題になり物議を醸している。
原作における総理大臣のキャラ設定が、今回の実写映画化にあたり、ストレスに弱い総理大臣に変更されてしまったらしく、それが今回の騒ぎになった、そもそもの発端であるらしい。
よく話題の映画が上映される直前に、タイミングよく出演キャストのスキャンダルネタ(交際発覚など)がリリースされるようなことがあるので、今回の話題も、穿った見方をすれば、映画公開前の壮大な宣伝になったとも受け取れてしまうのだが、それは扨措き、そのインタビューで佐藤浩市氏は次のように述べられたらしい。
>「(総理の役は)最初は絶対やりたくないと思いました。いわゆる体制側の立場を演じることに対する抵抗感が、まだ僕らの世代の役者には残っているんですね。」
この台詞の中にある「僕らの世代」という言葉は、佐藤浩市氏の年齢から推察すると、「学生運動世代」ということになるのだろうか。体制側に反感を抱くことが当然の時代に生まれた世代なので、体制側の総理大臣を演じるのは抵抗があるということなのだろうか。
あるいは、この映画は、中国(映画では架空の敵国)との戦闘を描いたものなので、そんな映画の総理大臣を演じると、今後の俳優活動にリスクが付いてまわる可能性があるということで、リスク回避のために、お断りを入れたということなのだろうか。
そういった邪推も扨措き、ここで問題にしたいのは、佐藤浩市氏が語った「体制側」という言葉である。
■戦後日本の「体制側」における誤解
「体制側」とは、「権力を握り現在の社会を支配している側」のことを意味している。
おそらく、佐藤浩市氏は現在の自民党、ひいては安倍総理が体制側の人間と思っておられるのだと思われるが、これは少し誤解があるのではないかと思う。
もし、安倍総理がバリバリの体制側の人間なら、消費税の増税も躊躇することなく行うだろうし、憲法の改正も遠慮することなく強引に行うだろう。
しかし、実際はどうかというと、消費税は本音では上げたくないという姿勢が透けて見えるし、憲法も、反対派の批判が恐くて、なかなか実行にまで漕ぎ着けることができずにいるように見える。はたして、独裁体制として忌み嫌われる体制側に、そんな弱腰の指導者がいるものだろうか?
本来、「体制側」というのは、現状の社会システムを、既得権益を守るがために頑として変えようとしない組織や勢力のことを指すのではないかと思う。
そう考えると、憲法に限って言えば、憲法を変えることに反対している護憲派(護権派)こそが体制側とも言える。安倍総理は、ある意味、弱腰の改革派の側であって、バリバリの体制側とは言えないのではないだろうか。
日本では、戦後の歴史的(思想的)な捻れによって、与党の政治家になったからといって、必ずしも体制側の人間とは言えない部分がある。
強権的な体制側の総理であるならば、憲法の改正についても、消費増税の延期についても優柔不断な態度を見せる必要は無いように思われるのだが…。
この映画に登場する総理大臣も、ストレスによる緊張で下痢をするという設定に脚色されたらしいので、おそらくは弱腰の総理大臣として描かれているのだろうと思う。
緊張で下痢をする体制側の人間、そんな独裁者とは程遠い人物を演じることで抵抗感は少なくなったのだろうか。
佐藤浩市氏は同インタビューで以下のようにも述べておられる。
>「僕はいつも言うんだけど、日本は常に「戦後」でなければいけないんです。戦争を起こしたという間違いは取り返しがつかない、だけど戦後であることは絶対に守っていかなきゃいけない。」
この映画に登場する総理大臣も、このような考えを持った指導者として描かれているのだとすれば、幸か不幸か、映画を観に行くタイプもガラッと変わってしまうのかもしれない。
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