そんな中国人にとって、彼らの思想からみて「下」にある日本が、ことあるごとに西洋人から褒めそやされることは、まさにフトドキセンバンだったし、懲らしめるべきことであったわけです。
こういう背景のもとに清国北洋艦隊がやってきました。
そして明治19年8月13日、500人の中国人水兵を無許可で長崎の街に上陸させたのです。
長崎には、日本三大遊郭のひとつである丸山遊郭がありました。500人の中国人水兵たちは、その丸山遊廓に殺到しました。
いくら丸山遊郭が大きな盛り場だったとはいっても、いきなり500人もの「ならず者」たちがやってくれば混乱します。
そして登楼の順番をめぐる行き違いをきっかけとして、中国人水兵たちは、遊郭の備品を壊したりして、いきなり暴動を起こしはじめたのです。
なにせ500人です。
いまでも中国人の暴動の激しさは有名ですが、彼ら水平たちは、日本では考えられないような破壊活動をしはじめました。
そして彼らは集団となって長崎市内をのし歩き、商店に押し入って金品を強奪し、泥酔して市内で婦女子を追いかけまわし、乱暴狼藉の限りをしはじめたのです。
「丸山遊郭がたいへんなことになっている。」
連絡を受けて派出所の巡査二名が現場に向かいました。
その巡査を、中国人水兵たちが取り囲みました。
暴行に及ぼうとしたのです。
ところが、当時の巡査というのは、武家上がりの武道の達人です。
通常の帯剣もせず、警棒しか持っていませんでしたが、たった二名で中国人たちを蹴散らし、中でも暴力的な態度であった二名の水兵をその場で現行犯で逮捕したのです。(残りは逃走しています)。
そして逮捕した水兵二名を、巡査たちは派出所に連行しました。
普通なら、これで一件落着です。
ところがしばらくすると、中国人水兵十名が派出所にあらわれました。
その中に先ほど逃げた水兵もいたので、巡査がその者を逮捕しようとしたところ、中国人水兵たちは警察官に日本刀を抜いて襲いかかってきたのです。
日本刀を事前に長崎市内の骨董品店で奪っていたのです。
巡査らは、負傷しながらも応戦しました。
そして水兵たちの刀を取り上げて押さえつけ、刀を取り上げました。
そこに応援の警察官らも到着しました。
巡査らは現行犯逮捕した水兵たちを、長崎県警察部に送りました。
長崎県警察部では、犯人らを取り調べ、清国領事館に引き渡しました。
日本側のここまでの対応は、きわめてまっとうなものです。
非の打ち所のない処置といえます。
日本側は、翌日長崎県知事の日下義雄が清国領事である蔡軒と会談し、
一、清国側は集団での水兵の上陸を禁止する
二、清国水兵の上陸を許すときは監督士官を付き添わせる
という二つの約束を交しました。
これまた、当然過ぎるくらい当然の措置です。
ところが翌15日になると、前日の協定に反して午後1時頃から、中国人水兵約300人が長崎の街に、手に棍棒や刀剣類を持って上陸しだしたのです。
そして交番の前に集結すると、わざと交番に放尿したり、大声や奇声をあげ、交番にいる巡査らに対して、露骨な挑発と嫌がらせをはじめたのです。
巡査らは彼らに注意しました。
この時点ではまだ彼らは人に対する暴力には及んでいないからです。
ですから口頭での注意です。
すると、彼らのうちのひとりが巡査の警棒を奪おうとしました。
巡査はこれを防ごうとし、もみ合いになりました。
いかに巡査が猛者といっても、3対300です。
しかも、報復のためとて、中国人側も屈強な武道の達人を連れて来ています。
中国人水兵らは、派出所にいた3人の巡査を袋叩きにしてしまいました。
三名の巡査は果敢に戦いました。
けれど、ついにひとりが死亡、ひとりが重体(翌日死亡)という事態に至りました。
たまたまこの様子をみていた人力車の車夫が激昂して、清国水兵に殴りかかりました。
すると、これまた頭数にものを言わせた中国人水兵の一団が加勢しました。
そこに人力車引きの仲間たちも集まってきました。
そして一般市民も加勢しました。
こうして清国水兵たちと、長崎市民との間で、路上の大乱闘が発生しました。
そこに長崎県警本部から応援に駆けつけてきた警察官もまじりました。
ついに乱闘は、斬り合いに発展しました。
結果、中国人側は士官1人が死亡、3名が負傷、水兵3名が死亡、50人が負傷。
日本人側も警部3名が負傷、(はじめの)巡査2名が死亡、16名が負傷、一般市民十数名が負傷という大惨事に到ったのです。
8月20日、天津にいた李鴻章(直隷総督兼北洋通商大臣)は、天津領事の波多野章五郎を呼び出しました。
そして「わが方の死者は5名」と犠牲者を一人水増しした上で、
「我が国の水兵と貴国巡査との間で喧嘩があった。
武器を持たない我が水兵を殺傷した」
と事実に全く反したデタラメを並べ立てて、日本の領事を恫喝しました。
死者だけをいうなら、日本側2名、中国側4名です。
しかも手に武器を持って暴れ回ったのは中国人水兵たちであり、しかもその数、300名です。
日本側は市民の加勢があったとはいっても、人数は十分の一以下です。
そういう事実がありながら、あまりに李鴻章が言い張るものだから、日清両国で事故の調査委員会を発足することになりました。
そして調査の客観性を確保するために、欧米の法律家にも参加してもらって、正確な事態の調査を行うことになりました。
日本と清国の交渉は、何度も行われました。
けれど客観的証拠に基づく日本や欧米弁護士などの主張に対し、清国側の対応は、とにかく「言い張る」というものでした。
やむなく決着は、政治に委ねられることになりました。
そして明治20(1887)年2月、事態をまるくおさめようとする井上馨外務大臣と徐承祖欽差全権大臣の両名によって、日本側が一方的に悪いとする条約が締結されました。
さらにその条約の中で、
「日本の警察官は今後帯刀することを禁ずべし」
という要求まで突き付けられて、日本はこれを承諾しています。
なぜそのようなことになるのでしょうか。
悔しい事ですが、当時の日本の海軍力は、清国の定遠、鎮遠が、共に排水量七千トン級の大戦艦であるのに対し、日本側は排水量四千トン級の巡洋艦浪速(なにわ)、高千穂を擁するのみだったのです。
「道理に合わない無理を言われても、
軍事力の前には屈さざるを得ない」
それが、いまも昔も変わららない、国際社会の冷徹な原則なのです。
そして軍事力という面において中国の方が圧倒的に「強い」状態にありました。
なにせ兵力は優に十倍です。
当時の日本の陸軍兵力は、総動員しても最大で25万人ですが、清国は200万人以上の動員兵力を持っていました。
ですから彼らは日本に対して、「楽に勝てる」と踏んでいたのです。
ただし国際社会では、諸外国を味方に付ける必要があります。
そのためには、先に手を出したら負けです。
ですから彼らは日本に対して、ありとあらゆる挑発を行い、日本に先に手を出させて、自分たちは被害者を装って国際世論を味方に付けようとしました。
清国の日本に対する挑発は、その後も度々重なりました。
一方で朝鮮半島も、火種となっていきました。
長崎事件から8年後の明治27(1894)年7月25日のことです。
朝鮮半島の北西岸の豊島沖で、日本の巡洋艦「秋津洲」「吉野」と「浪速」が、会合予定だった巡洋艦「武蔵」と「八重山」を海上で捜していたところ、突然あらわれた清国巡洋艦の「済遠」と「広乙」から、21センチ砲の砲撃を受けました。
清の軍艦が、突然、何の警告もなく一方的に撃ってきたのです。
やむなく日本も反撃しました。
あきらかな正当防衛です。
日本の巡洋艦が応戦をはじめると、「済遠」と「広乙」は逃走し始めました。
一方的に撃ってきておいて、反撃したらスタコラサッサと逃げ出したわけです。
日本海軍は「秋津洲」で清の「広乙」を、「吉野」と「浪速」で、大きいほうの「済遠」を追いかけました。
「広乙」は追い詰められて座礁しました。
「吉野」と「浪速」は、「済遠」を追ったのだけれど、「済遠」は国旗を降ろして降伏の意を示したかと思えば突如、逃走を図ことを繰り返しました。
そして海上にあった清国軍艦「操江」と「高陞」(英国商船旗を掲揚)のもとに逃げ込みました。
「浪速」は、清国軍艦「操江」に、「済遠」を引き渡すように要求しました。
「押し問答をするのだけれど、その隙に「済遠」はさっさと逃げてしまいます。
「吉野」は、これを追いかけました。
「吉野」の最高速度は23ノットです。
「済遠」は15ノット。
ですから日本の巡洋艦「吉野」のほうが、断然、船足が速いのです。
ところが「済遠」は逃げながら二門の21センチ砲をバンバン撃ってきます。
「吉野」はジグザグ航法で、敵の弾を避けながら、これを追跡しますから、なかなか追いつけません。
「吉野」の砲門は15センチで小さいけれど、狙いが正確です。
「吉野」は、「済遠」を2500メートルまで追い詰めました。す
ると「済遠」は面舵をとって船を浅瀬へと向かわせたのです。
「済遠」はドイツ製巡洋艦で2300トンで、喫水は4.67メートルです。
「吉野」はイギリス製の4216トンで、喫水は5.18メートルです。
浅瀬に逃げられたらどうしようもない。
「吉野」は、追撃を中止し、「済遠」は逃げてしまいました。
一方、「浪速」艦長の東郷平八郎大佐は「高陞」に停船を命じ、臨検を行おうとしました。
けれど、「高陞」は停船要求に従いません。やむなく「浪速」は、「高陞号」を撃沈したうえで、「高陞」に乗っていた英国人船員ら3人と、清国兵50名を救助して、捕虜にしました。
これが豊島沖海戦です。
この海戦による日本側の死傷者及び艦船の損害は皆無です。
他方、清は「広乙」が座礁、「高陞」が撃沈しています。
ところが「吉野」が追撃を中止し、逃げたはずの「済遠」は、なぜか清国は「大破」であり、日本によって一方的に攻撃され大破したと発表されたのです。
さらにこの戦いで清国の軍艦「高陞」は、「英国商船旗」を掲揚していました。
「英国商船旗」を掲げた「高陞」が撃沈されたことで、英国内では、日本に対する反感が沸き起こりました。
いまも昔も変わらぬ中国の宣伝工作です。
ところが日本の「高陞」攻撃は、完全に国際法にのっとったものでした。
そもそも一方的に撃ってきたから、撃ち返したのです。
当時の日本政府によって、その正しい事実が報道されると、英国世論は理解を示し、沈静化しています。
あたりまえのことですが、ここは重要なポイントです。
いかに不当な宣伝工作が行われようと、堂々と
「日本がなぜそのような行動をとったのか」
という理由をきちんと説明すれば、世界は納得する、ということです。
いうべきことは、ちゃんと言う。
それが国際ルールです。
そこをちゃんと説明しないと、いいように貶められてしまう。
この海戦の二日後、朝鮮王朝の負う王妃の閔妃から、半島にいた大鳥圭介日本公使に対して、
「牙山(あさん)に上陸した清国軍を撃退してほしい」
という要請が出されました。
やらなければ、半島にいる日本人に危害を加えるというのです。
これまた、めちゃくちゃな話ですが、邦人保護のために、日本はやむなく7月29日に、第九歩兵旅団を牙山に立てこもる清軍の攻撃に向かわせました。
現地に到着した午2時、いきなり攻撃してきた清国兵によって松崎直臣陸軍歩兵大尉が戦死しています。
これが日本の明治以降における初の戦死者です。
やむなく日本は攻撃を開始しました。そしてわずか五時間で、清国正規軍陣地を完全に制圧してしまいました。(成歓の戦い)
この戦いにおける日本側の死傷者は八十二名です。
これに対し、清国軍は五百人以上の死傷者を出し、武器を放棄して平壌に逃走してしまいました。
この戦いのとき、第二十一連隊の木口小平(きぐちこへい)二等兵が、死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話が残っています。実に立派です。このお話は、戦前は尋常小学校の修身の教科書に載っていました。
翌々日、清国軍は牙山から逃げ帰った兵士とあわせて、合計一万二千の大軍を平壌に集結させました。日本は、あくまで開戦を避けようと、外交交渉を継続しますが、清軍はこれに応じません。
やむなく日本は、けじめとして、8月1日に清国に宣戦布告文を発しました。
清国が朝鮮の意思を尊重して、兵を引かないなら、日本は戦いますよ、という布告文です。
ここで注意が必要なことがあります。
日本は、自分の国がさんざん騙されたり、ひどい目に遭わされたりしていても、それをずっと我慢し続けてきたということです。
和と結いを大切にし、隣人と対等なおつきあいを望む日本は、どこまでも不条理に我慢をし、関係の良好化を希求し続けていたのです。
もちろん、かかる火の粉は払わなければなりません。
しかし、どこまでも和平を願い続けて、不条理に絶え続けていたのが日本であったということを、わたしたちは忘れてはならないと思います。
けれど、それが現実に他国を巻き込んだ戦闘にまで発展したのなら、いつまでも我慢というわけにもいきません。まして朝鮮からの要望で出兵したのです。
責任は果たさなければならない。
この日清戦争の宣戦布告分について、ウィキペディアの「日清戦争」をたまたま開いたら、この
「詔勅は名目にすぎず、
朝鮮を自国の影響下におくことや
清の領土割譲など、
自国権益の拡大を目的にした」
と書いてありました。
どこのだれが書いた文章かしらないけれど、日本が国家として戦争を行う上で、明治大帝の名で出された詔勅に対し、「名目にすぎず」と書くのは、あまりにも不敬です。
そのことは、開戦の詔勅を読んだらわかります。
そこで日清戦争の宣戦布告の詔勅を、はじめに現代語訳、そのあとに原文を掲載します。
(現代語訳は私が行っています)
【清国ニ対スル宣戦ノ詔勅】
われわれは、ここに、清国に対して宣戦を布告します。
われわれは明治維新以来二十有余年の間、文明開化を平和な治世のうちに求め、外国と事を構えることは、極めてあってはならないことと信じ、常に友好国と友好関係を強くするよう努力してきました。
おかげで諸国との交際は、年をおうごとに親密さを加えてきています。
ところが清国は、朝鮮事件に際して、日本に対して、日本側の隠すところのない友好の姿勢にそむいて、互いの信義を失なわせる挙に出ました。
そのようなことを、わたしたちはどうして予測できたことでしょう。
朝鮮は、日本が、そのはじめより、導き誘って諸国の仲間となした一独立国です。
しかし清国は、ことあるごとに自ら朝鮮を属国であると主張し、陰に陽に朝鮮に内政干渉してきました。
そして朝鮮半島内に内乱が起こるや、属国の危機を救うという口実で朝鮮に対し出兵までしています。
わたしたちは、明治15年の済物浦条約によって、朝鮮に平和維持部隊を出して治安維持をはかり、事変に備えさせ、また朝鮮半島から戦乱を永久になくして、将来にわたって治安を保ち、それをもって東洋全域の平和を維持しようと欲し、まず清国に(朝鮮に関して)協同で治安維持にあたろうと告げました。
けれど清国は度々態度を変え続け、さまざまないい訳をしてこの提案を拒み続けました。
わたしたちはそのような情勢下で、朝鮮には、彼らの悪政を改革して、治安の基盤を堅くし、彼らが対外的にも独立国としての権利と義務をきちんと全うすることを勧めてきました。
けれども朝鮮が、われわれの勧めを肯定し受諾したにもかかわらず、清国は終始、裏にいて、あらゆる方面から、その目的を妨害し、それどころか言を左右にしながら口実をもうけて、時間をかせぎながら、水陸の軍備を整え、それが整うや、ただちに その戦力をもって、(朝鮮征服の)欲望を達成しようとして、大軍を朝鮮半島に派兵し、またわたしたちの海軍の艦を黄海に要撃してきました。
清国の計略は、あきらかに朝鮮国の治安の責務を担おうとするわたしたちの行動を否定し、わたしたち日本が率先して独立諸国の列に加えた朝鮮の地位を、それらを明記した「天津条約」と共に、めくらましとごまかしの中に埋没させ、日本の権利や利益 に損害を与え、東洋の永続的な平和を保障できなくすることにあるといえます。
清国のたくらみのありかを深く洞察するならば、彼らは最初から朝鮮はじめ東洋の平和を犠牲にしてでも、その非情な野望を遂げようとしていると言わざるをえないのです。
そして事態はここまできてしまいました。
われわれは、平和であることこそ国家の栄光と、国の内外にはっきりと顕現させることに専念してきましたが、残念なことではありますが、ここに公式に宣戦布告を行います。
わたしたちは、国民の忠実さと勇武さに寄り頼み、すみやかに、この戦争に勝って、以前と同じ平和を恒久的に取り戻し、帝国の栄光を全うすることを決意します。
御名御璽
明治27年8月1日
【原文】
天佑ヲ保全シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国皇帝ハ、忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス。
朕茲ニ清国ニ対シテ戦ヲ宣ス。
朕カ百僚有司ハ宜ク朕カ意ヲ体シ、陸上ニ海面ニ清国ニ対シテ交戦ノ事ニ従ヒ以テ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ。
苟モ国際法ニ戻ラサル限リ各々権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ
惟フニ朕カ即位以来茲ニ二十有余年、文明ノ化ヲ平和ノ治ニ求メ事ヲ外国ニ搆フルノ極メテ不可ナルヲ信シ有司ヲシテ常ニ友邦ノ誼ヲ篤クスルニ努力セシメ幸ニ列国ノ交際ハ年ヲ逐フテ親密ヲ加フ。何ソ料ラム。
清国ノ朝鮮事件ニ於ケル我ニ対シテ著著鄰交ニ戻リ信義ヲ失スルノ挙ニ出テムトハ。
朝鮮ハ、帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。
而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ其ノ内乱アルニ於テ口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。
朕ハ明治十五年ノ条約ニ依リ兵ヲ出シテ変ニ備ヘシメ更ニ朝鮮ヲシテ禍乱ヲ永遠ニ免レ治安ヲ将来ニ保タシメ、以テ東洋全局ノ平和ヲ維持セムト欲シ先ツ清国ニ告クルニ協同事ニ従ハムコトヲ以テシタルニ、清国ハ翻テ種々ノ辞柄ヲ設ケ之ヲ拒ミタリ。
帝国ハ是ニ於テ朝鮮ニ勧ムルニ其ノ秕政ヲ釐革シ内ハ治安ノ基ヲ堅クシ外ハ独立国ノ権義ヲ全クセムコトヲ以テシタルニ朝鮮ハ既ニ之ヲ肯諾シタルモ清国ハ終始陰ニ居テ百方其ノ目的ヲ妨碍シ剰ヘ辞ヲ左右ニ托シ時機ヲ緩ニシ以テ其ノ水陸ノ兵備ヲ整ヘ一旦成ルヲ告クルヤ直ニ其ノ力ヲ以テ其ノ欲望ヲ達セムトシ、更ニ大兵ヲ韓土ニ派シ我艦ヲ韓海ニ要撃シ殆ト亡状ヲ極メタリ。
則チ清国ノ計図タル明ニ朝鮮国治安ノ責ヲシテ帰スル所アラサラシメ帝国カ率先シテ之ヲ諸独立国ノ列ニ伍セシメタル朝鮮ノ地位ハ之ヲ表示スルノ条約ト共ニ之ヲ蒙晦ニ付シ、以テ帝国ノ権利利益ヲ損傷シ以テ東洋ノ平和ヲシテ永ク担保ナカラシムルニ存スルヤ疑フヘカラス。
熟々其ノ為ス所ニ就テ深ク其ノ謀計ノ存スル所ヲ揣ルニ実ニ始メヨリ平和ヲ犠牲トシテ其ノ非望ヲ遂ケムトスルモノト謂ハサルヘカラス。
事既ニ茲ニ至ル朕平和ト相終始シテ以テ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚スルニ専ナリト雖亦公ニ戦ヲ宣セサルヲ得サルナリ汝有衆ノ忠実勇武ニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ全クセムコトヲ期ス
宣戦布告は、8月1日です。
日本は、その後もなんとか外交努力で事態を鎮静化しようと努力しました。
ところが事態は一向に改善しない。
やむなく日本は、一ヵ月半後の9月15日になって、平壌にある清軍の基地への攻撃を開始しました。
清国軍は、その日の午後4時40分には、白旗を掲げて翌日の開城を約束しています。
ところが、清国軍は、約束を違えて逃亡してしまいました。
そして、同日夜に日本軍が入城しました。
日本の大勝利です。
二日後の9月17日12時50分、黄海上で、日清両艦隊が遭遇しました。
先に攻撃してきたのはこんどもまた、清国です。
日本側は、初代連合艦隊司令長官伊東祐亨(いとうゆうこう)率いる旗艦「松島」以下12隻。
清国艦隊は18隻です。
敵戦力の方が大きかったのですが、日本艦隊は、果敢に戦い、清国艦5隻を撃沈、5隻を大中破、2隻を擱座させて、大勝利します。
この海戦によって、清国艦隊は威海衛に閉じこもることとなり、日本海軍は黄海・朝鮮の制海権を完全に確保します。
さらに10月25日には、山形有朋率いる第一軍が鴨緑江渡河作戦で清国陸軍に大勝利しました。
10月24日には、大山巌率いる第二軍が旅順を制圧します。
日本は、明治28(1895)年4月の日清戦争の講和条約まで、清軍を相手に連戦連勝し続けたのです。
日清戦争は、信頼を重んじ、必死に努力して富を得た日本と、干渉ばかりして努力をせずに事大主義に凝り固まった清国との戦争でした。
結果は、明らかでした。
正しい者が、最後は勝つのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、
メールでお申し出ください。nezu3344@gmail.com
- 関連記事
-
l ホーム l 義和団事件と大陸出兵 »