現代物理学は4つの力の統一に向けて研究がすすんでいますが、力の性質を研究する際のきわめて有効な道具として、 場の量子論というのがあります。 場の量子論は、きわめて有用な結果を出す反面、ある物理量を計算すると無限大になる(「発散の困難」と呼ばれる)と いうやっかいな難病をかかえており、これを根本的に解決することが、現代物理学の最重要課題となっていることはよく知 られています。しかし、長いこと解決されないままになっていて、くり込み理論という一種のトリックを使った方法で(問題点 をかかえつつも)なんとかしのでいるというのが現状です。 さて、昔からこの問題が気になって仕方がありませんでした。 私は、一介のサラリーマンで物理を趣味としている者ですが、頭の鈍さも手伝ってか、いまだ高度な場の量子論の計算 まではマスターできていません(時間がないこともある!)。しかし、一般書は昔からよく読んできたため、先の困難のイメ ージはつかめています。 そして砂川重信博士や高橋康博士の著書を眺めているうちに、相対性理論が、どうやら場の量子論の発散の困難に大 きくかかわっていることに気付きました。 すなわち、相対論という病理を現代物理学からとり除くだけで、場の量子論の発散の困難がかなり解消されるといえるの です(根本的解決に至るかどうかは不明)。 数式を用いての解決はできませんが、困難の解消への方針は示すことができますので両博士の著書を参考にしながら、 以下記していきます。 まずはじめに要約を述べます。 [要約] 発散の困難の解消の方針 特殊相対性原理は間違っているので、ローレンツ変換共変という概念も無意味。よって、これまで全ての物理理論に 必ず要求されてきた「ローレンツ変換共変性」も今後は要求する必要はない。現代物理学を呪縛している「ローレンツ 変換共変」という制約を取り除くだけで、場の量子論の発散の大問題は、解決へ向けて大きく前進する。 以下、詳細に説明します(引用文中の”・・・”は「中略」を意味します)。 [説明] 砂川氏は「理論電磁気学」第2版(紀伊国屋書店)で、古典電子半径の計算から、つぎのような困難が生じることを指摘 しています。 「理論電磁気学」p.51~52 古典電子半径 電子半径をa、電荷-eの古典的な小帯電体とみなす。このとき、電子のまわりには、 E(r)=(-1/4πε0)・e/r^2 であたえられる球対称の静電場が生成される。 この静電場のエネルギーを求めよう。(4.2)から、電場のエネルギーは次のようにして求められる。 W=1/2∫E(x)・D(x)d^3 =ε0/2∫E^2(r)・4πr^2dr =ε0/2(e/4πε0)^2・4π∫0->∞(1/r^2)dr =1/2・(e^2/4πε0)・(1/a)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(4.6) つまり、電子にはつねにこれだけのエネルギーがまとわりついている。あとでくわしくのべる相対論によると、静止質量が mの粒子には、 W=mc^2・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(4.7) だけのエネルギーが内臓されている。そこで、この静止質量の原因は(4.6)の静電エネルギーにあると考えると、 mc^2=1/2・(e^2/4πε0)・(1/a)・・・・・・・・・・・・・・(4.8) なる関係がえられる。これから質量mの電子の半径aは、 a=1/2(e^2/4πε0mc^2) であたえられることになる。まえの1/2の因子をのぞいたものは、古典的電子の大きさの目安をあたえると考えることがで きるので a0=e^2/4πε0mc^2 を古典電子半径という。 ・・・・ 電子の半径が0である、すなわち点電荷であるときには、(4.6)の静電場のエネルギーは無限大になり、したがって (4.8)より電子の静止質量もまた無限大になってしまう。このことを、点電子の自己エネルギーは無限大であるといってい る。量子力学においては、電子は点電荷であるとみなされているので、古典論における無限大の自己エネルギーの困難 は量子論でもそのままひきつがれている。 しかし、電磁場の自由度が無限大であることにもとづく、量子論特有の自己エネルギーの発散もあり、問題は古典論にお ける困難よりさらに複雑である。古典論において、古典電子半径a0を考えたように、量子論においてもそのような長さの次 元をもつ自然定数を理論のなかにもちこむことにより、この困難を克服しようという試みは多くの人によって考えられたが、 現在までのところすべて失敗したといってもよいであろう。 その失敗の原因としていろいろ考えられるが、電子に大きさをもたせたとき特殊相対論との矛盾をさけることができないの が最大の障害になっている。一方、このような発散の困難は、実際に観測される物理量にはあらわれてこないことが知ら れているので、上にのべたような試み自体が物理的に無意味であるという意見もある。なお、電子の自己エネルギーの問 題については、第9章§5でよりくわしく考察する。 以上。 (註:青色は杉岡がつけました) 砂川氏は、このように場の量子論の発散の困難が、特殊相対性理論と密接に関わっていることを指摘しています。 上の青文字のところは決定的に大切です。 電子に有限の大きさをもたせれば発散は避けられるが、しかし今度は相対性理論と矛盾してしまう。あっちを立てればこっ ちが立たず、どうにもならない!と嘆いているわけです。 この嘆きは、砂川氏のみならず現代の理論物理学者全員の嘆きとなっているのです。 ところが、・・・ そうです、もうおわかりですね。 相対性理論は間違っているのですから、それを放棄すればよい。それだけで、上で指摘されている困難をさけることがで きます。 また砂川氏は、別ページで、電子の自己エネルギー発散の問題を、古典論の範囲でいかに特殊相対論と矛盾してしまう かを同本で具体的に論じておられます(下記)。 p.296周辺 放射の反作用 ・・・この節にはいるまでは、あたえられた電磁場のなかの点電荷の運動を求めるという問題と、電荷の運動が決まってい るとき、それにより生ずる電磁場を決めるという問題だけを主としてとりあつかってきた。 ・・・・・ 放射の反作用の問題を考えるとき、われわれは必然的に素粒子の世界の問題にたちいることになり、そのときには古典 物理学をこえて、さらに相対論や量子力学をも考慮しなければならない。 そこで以下の古典論的考察はあまり意味のあることではないと考えるかもしれない。しかし、古典論にあらわれる困難は 現代物理学にもひきつがれ、それは現在の理論物理学の最も深刻な問題にもつながるものである。そして、一部の研究 者は、現在の場の相対論的量子力学の困難は、古典論におけるこの困難を克服することによってはじめて解決されるされ るものと考えている。このような観点からみると、将来の理論へのふみ台として古典論の困難を体験しておくことはあなが ち無意味ではないであろう。・・・ 以上。 砂川氏は、このように述べたあと、具体的にどのような困難が発生するかを示します。 ごく簡単にのべると、電子自身が作った電磁場からその電子自身が受ける力(自己力)を考慮した場合の運動方程式を作 った場合、その電子の電磁質量meが me=(4/3)・(e^2/4πε0a0c^2)・・・・・・・・・・・(5.32) と計算されるのですが、この”4/3”という係数ががなんと、特殊相対論の要求と矛盾するのです! 相対論の要求とは、すなわち、ローレンツ変換共変(不変)ということです。 古典論の場合は、電子は剛体球であるとして計算しているのですが、すると、”4/3”という係数が必然的に出てきてしまう。 しかし、それでは天下の相対論に矛盾してしまう!おかしい・・というわけで、ここでまた砂川氏はため息をつきます。 しかし、嘆いてばかりもいられないと氏は次のように進めます。 p.303周辺 放射の反作用 ・・上の議論では、電子は半径a0の剛体球であると仮定した。この剛体球という概念は後にのべるLorentz変換に対して 共変的な概念ではない。そこで、a0 ―>0とすると、電子の構造に関係した(5.28)の項は消えて、点電荷の運動方程式は ・・・・ とかくことができる。Diracによってなされたように、この方程式は相対論的に共変な形に拡張することができる(第11章参 照)。 ところが、このとき、(5.32)(杉岡註:上の式を見てください)からわかるように、自己力にもとづく電子の電磁質量meは 無限大になってしまう。すなわち、相対論的理論においては、自己エネルギーの発散をまぬかれない。一方自己エネルギ ーを有限にしようとすれば、こんどは理論は相対論と矛盾してしまう。この困った事情は量子力学においてもあらわれてきて、 現在の理論物理学の最大の難点の一つとなっている。 以上。 (註: 青色は杉岡がつけました) にっちもさっちもいかない状況に、物理学者が困惑している様子がわかるでしょう。 このような危機的状況に直面しても、物理学者は「相対性理論がひょっとしておかしいのではないか?」とは絶対に思わな いのが不思議でなりません。しかし、それもわからないではありません。 20世紀最大の天才アインシュタインの理論がまさか間違っているとは夢にも思わないでしょうし、思いたくもない。それに、 相対論は、種々の実験によって正しさが証明されている・・・・(じつはそれも思い込みにすぎないのですが)。 読んでいて歯がゆい思いにとらわれますが、人間は思い込みをなかなか捨てられません。 相対論へ疑惑の目を向けられないのが、現代物理学の悲しいところといえるでしょう。 物理学者は、方針を間違えているだけです。相対論的要請「ローレンツ変換共変」を放棄するだけでよいのです。 高橋康博士の登場! さて、場の量子論の権威である高橋康博士(Ward-Takahashiの恒等式で世界的に有名)は、発散の困難をどのように見 ているのでしょうか。 「古典場から量子場への道」(高橋康著、講談社サイエンティフィク)の後半部分には、場の量子論の問題の状況がじつに うまくまとめられています。場の理論の問題点を把握するには、格好の教材となっていますので、今回問題にしている箇所 と関わる部分を抜き出して見ていきましょう。 「古典場から量子場への道」p.201~202 §3 場の量子論の困難 さて、これから場の量子論を勉強しようとする読者に対して、場の量子論の成果ばかりを聞かせていたのでは、いんちき 商品を知らん顔して売っている夜店の兄ちゃんと大差ないことになる。そこで、話を転じて、最後に、場の量子論の困難に ついて考えてみよう。困難にはおおまかにいって3種類ある。第1は、場の理論の出発点の仮定に反した結果が得られも の、つまり自己矛盾と、もう一つは場の理論の近似によらない結論と事実が明らかにくい違うもの、すなわち場の量子論の 適用限界の問題、最後に、近似方法の限界にもとずく困難である。言うまでもなく、上記3種類の困難もお互いにからみ合 って出てくるから、そう明瞭には分けられない場合が多い。ここでは紙数の関係もあるので、第1のものを主として考えるこ とにする。 (a)発散の困難 場の量子論が自己矛盾におちいる最も基本的な困難は、前にちょっと触れた発散の困難である。つまり、ある種の積分 が収束しない。この困難は、実は古典的な場の量子論から受けつがれたもので、量子場の理論だけにあるものではない。 いわば遺伝的な病気で、場の量子論になって特に困難がはっきりしたわけである。・・・・・・・ p.214 (e)困難解決への試み(その1) Heisenberg-Pauliによって場の量子論の基礎が提出された直後、指摘された発散の困難そのものに対しては、それ以後 解決への努力が何もされなかったわけではない。くり込み理論が発散の問題を避けて通る道を示す以前にも以後にも多く の努力がなされたが、残念ながら満足な解決は得られていない。そのことを以下ざっとながめてみよう。・・・ ・・・・・ たとえば、核子と中間子の相互作用の場合は・・・しかし、1/gのべき級数に展開するのはそう簡単ではない。第一、核子 のほうを非相対論的に扱って、しかも量子化しなお、大きさの有限な粒子として扱わないと発散の問題にぶつかってしまう。 今のところ、強結合の理論を相対論的に不変な形にできないから、高energyの現象を扱えないばかりでなく、発散積分の 処理がうまくいかない。・・・ その他、異なった種類の近似方法も提示されているが、いつでも相対論的不変性と発散の処理の問題がつきまとい、今 のところ相対論的不変性を満たす近似方法は摂動展開法しかない。その場合にも、相互作用によってはくりこみの考え方 が使えないことが多い。・・・ p.215~218 (f)困難解決への試み(その2) ・・・発散の問題を解こうという努力にはおおまかに言って2つの流れがある。 ・・・空間時間の構造はそのままにしておいて、場の概念を変更しようといういき方に非局所場の理論というのがある。その うちで最も保守的な考え方は1950年ごろに提出されたKristensen-Mφllerの理論であろう。・・・つまり、場と場の相互作 用のしかただけ変更したが、相対論的不変性を要求するかぎり場を量子化することがむずかしく、量子力学的なunitarityを 満たすことができない。相対論的不変性とunitarityと両方を要求すると近接作用をやめても発散積分がどうしても避けられ ない結果となった。 Hietlerは、やはり近接作用をやめ量子化しやすい形に場の相互作用を導入したが、そうすると今度は積分は収束するが 相対論的不変性が破れる。・・・ ・・・・ 1950年にPais-Uhlenbechは無限階の微分(つまり近接作用をやめて)を含んだ場の方程式をきわめて一般的に調べた。 無限階を許すと、粒子が自然に大きさをもってくるという点は好都合だが、やはり相対論的因果律を満たすことがむずかしく なる。・・・ ・・・・ 局所場の概念を捨てて、もう少しradicalに場という概念そのものを変更していこうという考えもたびたび提出された。たとえ ば湯川先生の・・・ この場合も相対論的不変性とunitarityと積分を有限にするという3つの要求を満たすことができない(一般的証明はもち ろんないが)。 ・・・・・ それに対照的な考え方は時間空間の構造を変更してみようというものである。ただし、少なくとも巨視的なscaleでは相対 性理論の要求と矛盾しては困る。この方向への試みもいろいろあるが、・・・その第1はSnyderのいき方である。彼は積分 を収束させるために連続的な時間空間の概念を捨て、・・・・ ・・・ そうすることによって彼は彼の理論が相対性理論と矛盾せず、かつ積分が有限になることを示したが、空間時間が演算子 であり、さらにその上、場の量が演算子としての空間時間を含む演算子であるため、現実的に現象を扱うのはたいへんな ことである。そのためか彼の提出した理論(1947年)に続く者がいない。 ・・・・ 最近、発散積分を有限にする処方としてよく使われるやり方に、dimensional regurationというのがある。これは、波数空間 における積分要素が・・・・・・・このような極限操作を行う理論ではいつでも問題になることだが、極限をとる前のεが0でな いときの理論がまずちゃんと定式化できていないとお話にならない。だいたい4-ε次元ではLorentz変換という概念すら 成立しない。 (g)量子化の問題 ・・・重力場もspin 2の場であり、同様の困難におちいることが予想される。Einsteinの重力場は曲がった空間の場であって、 特殊相対性理論のわくにしめつけられている現在の場の量子論の基本的概念が、曲がった空間と両立するものかどうか 私にはわからない。・・・ p.228~230 あとがき ・・・・ 非相対論的な場の理論に関するかぎり、つまりあまり高いエネルギーの粒子を問題にしないかぎり、場の量子論の前途 は洋々としており、これから先、場の量子論的技術や考え方が物性論や生物物理学にどんどんと染みこんでいくであろうこ とは間違いないと思う。・・・・ ・・・・・ 一方、場の量子論は深刻な持病になやまされている。それは、この本のはじめに議論したように、大きさをもたない試験 体を許し、そのようなもので測定できる局所場という理想化されたものを相手にしてきたむくいであろう。第0章で述べたよ うに、場を有限の領域で平均してやると、確かに積分の収束はよくなる。この平均操作がうまくできるとよいのだが、相対 性理論というやっかいなわくがある。このわくからはみ出さないで平均操作を遂行することは、今のところ誰も成功してい ない。すべてのLorentz系での観測者が同意してくれるようなうまい平均操作ができないのである。 ・・・・ では、相異なった点で場が相互作用するように理論を書き直してみてはどうだろうか。もちろんそのような変更はむずかし いけれど不可能ではない。しかし、まだ一般的証明があるわけではないが、経験によると有限な答えが出るようにするとい つでも、相対論的因果律かそれとも理論のunitarity(これは確率が保存するということ、量子力学で基本的な”完全性の条 件”の表われ)が破れる。今のところ、相対論的因果律と、unitarityと、答えが有限であるという3つの条件を満たす理論は 存在しない。したがってわれわれは、前の2つの条件のどちらか、または両方の条件をゆるめなければならない。むずかし いのはしかし、巨視的な領域でボロが出ないように条件をゆるめることである。ボロを小さい領域に閉じ込めておかなけれ ばならない。 ・・・・ 以上。 (註: 青色は杉岡がつけました) 非常に明快な説明です。 物理学者がいかに苦しんでいるかが手にとるようにわかります。物理専攻の学生さんは、できれば上記本を手にとって全 部(が無理なら後半だけでも)を読んでほしいものです。 上の説明から、現代物理学が、いかに相対性理論の枠にとらわれているかがわかるでしょう。 相対論的不変性とは、ローレンツ変換共変(不変)性のことですが、全ての物理理論がこれにがんじがらめにしばり付け られています。当然ながら、場の量子論も上記のようにしばり付けられていて、非常に不自由な思いをしているわけです。 これを、外せば、どれほどすっきりすることかわかりません。 さらに高橋博士は、別の著書「電磁気学再入門 QEDへの準備」(講談社サイエンティフィク)で、発散の問題に関して、 つぎのように述べておられます。 「電磁気学再入門 QEDへの準備」p.161~162 「・・残念ながら、この過程をまじめに計算すると、中間状態の光子の運動量に関する積分が発散する。にもかか わらず、とにかく電子の質量は、電磁場との相互作用によって変化する。この変化した質量が実は、実際に観測 される電子の質量であるとするのが、くりこみ理論のアイディアである。 発散する積分まで含めて、観測質量でおきかえるというのは、正直いって不愉快である。質量の発散の問題は、 しかし、古典電磁気学から引き継がれたもので、そのことは第4章でも簡単にふれた。QEDが提唱された直後、 1930年頃にまた同じ問題が指摘された。そして、いまだに解決していない難問中の難問である。誰かがそのう ちに解決しなければならない最も基本的な問題なのであろう。」 (註:QEDとは朝永振一郎、シュウィンガーらによって発展させられた量子電磁力学、通称”くりこみ理論”のこと。分かりに くい人は、場の量子論と同種の理論と考えてください。) この文章が、上記の本の一番最後を飾っているところをみると、ぜひだれかに解いてほしいという博士から後輩たちへの 熱いメッセージともとれます。 このメッセージを無駄にしてはなりません。具体的に実行するのは、これを読んでいるあなたです。 相対性理論は間違っているのですから、今後は、ローレンツ変換共変性を考慮せずに理論を構築していく必要があります。 堂々とそれを実行してほしいものです。 学生、研究者の方に、期待しています。 あなた方は、改革者となるわけですから、それなりの波風は受けると思いますが、それもしばらくの間ですので、勇気をも って前進してください。 6年ほど前だったでしょうか、京都の書店で一冊の本を買いました。書名は、「ディラック 現代物理学講義」(P.ディラック 著、培風館)。 偶然みつけた本だったのですが、ディラック先生が1975年、ニュージーランドやオーストラリアの大学で行った講義を収 めたもので、量子力学の発展の過程やまた自身の研究テーマなどが生き生きとのべられていて、非常におもしろいもので した(内容は高度ですが)。 その中で、いまだにどうしても忘れられない文章があります。 心にずっとひっかかってきた箇所なのですが、そこには、場の量子論の発散の困難について、ディラック独特の意見がの べられており、上記高橋博士の見解とも関係するきわめて貴重な意見となっているのです。 紹介しますので、研究者の方はぜひ参考にしてください(ディラックがこんな意見をもっていたなんてあまり知られていない でしょう)。 長いですので、ポイントの部分だけを抜粋しました。”・・・・”は中略を意味します。 「ディラック 現代物理学講義」 1975年9月15日、ニュージーランド、カンタベリー大学でのディラックの講義録 量子電磁力学 ・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、量子電磁力学のこの部分はまったく満足のいくものです。・・・・しかしながら方程式の解を得ようとしますと、問題に ぶつかります。 解を得るために、式(2.2)のシュレーディンガー方程式 i<h>∂ψ/∂t=Hψ (2.38) から出発します。(杉岡註:<h>は、プランク定数hを2πで割ったもの。通常のあの記号が書けませんので、このように書き ました) 初めの状態を定義して、解を得ることを試みます。そうすると第一次補正項はうまくいくのですが、第二次補正項を求めよ うとしますと、値が無限大になってしまう積分に遭遇してしまいます。どのような初期状態をとってみても、解を求める途中で このような無限大になる積分がいつも出て来ます。 この状況は大変混乱を引き起こし、式(2.38)のシュレーディンガー方程式は解を持たないという結論になると私は考え ています。ともかく何十年も、多くの研究者がこの問題を研究して来ましたが、私の考えるところでは、この方程式は解がな いというのが答えです。 大変簡単な場合を考えてみましょう。つまり電子も陽電子も光子も、したがってどんな粒子もまったく存在しない状態から 出発するとしましょう。そして摂動法を用いますと、粒子がない状態から出発して、粒子が生成されることがわかります。この ことは式(2.38)のハミルトニアンが電子、陽電子、光子の同時発生を引き起こす項を含んでいるからです。これらの粒子は 運動量は保存するが、エネルギーは保存せずにすべて同時生成されます。その結果初期状態は何も粒子がない状態に止 まっていないことになります。粒子は第一次近似(第一次摂動)で生成されるのです。そして第二次近似をしますと、無限大 の量が現われます。こうして、この大変簡単な場合ですらも式(2.38)は解を得ることができません。 さて粒子が一つもないところが真空であると言うかもしれませんが、このことは正しくありません。と言うのは真空は定常 状態でなければならないからです。真空はシュレーディンガー方程式のある定常解に関連してたくさんの粒子が存在する 状態でなければなりません。しかしこのシュレーディンガー方程式の解として真空を表す解すら知られていないのです。 このことは大変不幸な状況でこの理論を用いて何も計算することができないと言うかもしれません。しかしながら、実験 的観点から我々は真空を計算することを望みませんから、この状況は実際にはそれほど悪いものではありません。実験家 は真空そのものと我々の計算を比較する何の情報も与えてはくれません。実験家は真空からの差だけに関心を持っている のです。 そこで、真空を表す状態ψ・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・ このような条件のもとでは無限大の困難はそれほど悪くはありませんが、それでも第二次近似でハイゼンベルグ方程式 を解こうとしますと、無限大になる量が生じます。この無限大は電子の余分な自己エネルギーとして説明でき、この自己エ ネルギーがたまたま無限に大きいことになったのです。こうして質量の繰り込みという考えに導かれました。 方程式に最初に入れる電子の質量は測定されている質量と同じでないと言えるかもしれません。そして、電子と電磁場 の相互作用を取り入れると、その相互作用は電子の質量を変え運動方程式に入れた最初の質量パラメーターと異なる値 を与えるのです。 この考えは質量の変化が小さい場合や、一歩譲ってその変化が小さくなくても有限である場合は、物理的にもっともらし いものに見えます。しかし、質量の変化が無限に大きいとき物理的意味付けをすることは非常に困難になります。まさしく、 方程式を解くときに生じる無限大は質量への無限大の繰り込みとまったく同じ性質のものです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ このような困難にもかかわらず、この方針で多くの計算がなされました。外場として電子や磁場が存在するとき、電子の 放出演算子η(e)に関係する電子のエネルギーがどう変化するか計算されました。そして(もちろんのこと無限大になる項は 差し引いておかなければなりませんが)、どちらの外場も電子のエネルギーに微小な補正を生じることがわかりました。この 微小な補正は水素原子のエネルギー準位のラム・シフトや磁場内で電子が持つ余分な磁気能率、すなわち異常磁気能率 を与えると解釈されます。そして確かにこのような計算は実験値と良く一致する結果を与えます。 このことでほとんどの物理学者は大変満足しています。彼らは”量子電磁力学は良い理論であり、これ以上思い患う必要 はない”と言っています。しかし私はこの情況に大変不満足であると言わなければなりません。つまりこのいわゆる”良い理 論”は人為的な方法で方程式の解に現れる無限大の項を無視しているからです。これは分別のある数学ではまったくあり ません。分別ある数学では、微小になる量を無視するのであって、それが出て来ては欲しくないとか、無限に大きいからと いう理由で無視することはできません。 先程現われた積分が無限ではなくある有限の値になるように積分の上限を取ることで切断を導入して、ラムシフトや電子 の異常磁気能率の計算を分別のある形にすることができます。つまり、電子と電磁場の相互作用をある値(νmax)以上で は切断してしまうのです。この切断振動数をエネルギーに直すと約10億電子ボルト程度に取るのが適当です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 第一次近似の精度の範囲で、この切断を用いても、結果的に依然として前と同じラム・シフトと異常磁気能率が求まります。 無限大になる量を取り除いた理論、分別ある理論が得られたのです。 しかし、不幸にも、この理論はもちろん相対論的不変性を破っているのです。というのは何らかの切断を導入し、その結 果νがある値以上を取ってはならないという限り、それは非相対論的条件を持ち込み、理論の相対論的不変性を傷つける ことになるからです。こうしてその相対論的不変性を犠牲にすることだけで、量子電磁力学を一つの分別ある数学にするこ とができました。私はこの犠牲は無限大の量を無視し数学の標準的な規則から逸脱するよりは悪くないと考えています。 私はこの点で今日のほとんどの物理学者と意見が合いません。私は数学の標準的法則から逸脱することを見過ごすこと ができないのです。もちろん、この量子電磁力学の研究を本質的に妨害しているものは基礎方程式が正しくないということ です。無限大の量が何も理論に生じないように、また、通常の規則に従い、困難に患わされず基礎方程式を巧みに解ける ように基礎方程式を書き変える、ある根本的な変化があるべきです。この要求を達成するには、大変根本的なある変化が 必要になるでしょう。というのは、現在の理論でハイゼンベルグの運動方程式はどの面でもまったく満足できるものですか ら、簡単な変化ではだめだからです。この変化はボーアの軌道理論から量子力学へと発展した道筋と同様、徹底的な変 革になるであろうと私は感じております。 以上。 (註:青色は杉岡がつけました。) 上を読んで、ディラックはやはり偉い学者だったと思わざるをえません。 安易な妥協策に甘んじる学者たちと違い、その困難の本質から目をそらすことがありませんでした。量子電磁力学を築い た朝永振一郎博士は、自らが作った理論を「きみ、あれは一種のトリックだよ」と語ったといいます。 最後で述べているように、ディラックは、発散の困難の原因を突きとめる一歩手前まで肉薄していました。 それでもなお相対性理論の正しさは信じきっており、相対論的不変性(ローレンツ変換共変性)の呪縛から抜け出ることは できませんでした。 しかし、これをよんでいる読者は、”徹底的な変革”がなんであるか、その答えをすでに知っています。 それは、相対論的不変性という制約を物理学の世界から無くすこと、であったのです。 相対性理論の永久放棄ということが、ディラックの言う根本的な大変革であったわけなのです。 |