幕府軍艦 「観光丸」(復元)

2009年、横浜で開港150周年を記念して開港博が開催されました。
しかし、フランスから招いたという特撮用クモ型ロボット以外はまったく話題にならず、入場者は予定を大きく下回るという惨憺たる結果に。

開港博の出し物として、期間限定で長崎のハウステンボス所属の観光丸が来ると聞いた私は、それだけを見たさで横浜開港博を見に行きました。
2400円という入場料は高い。しかし、長崎へ行ったと思えば安いものです。

幕末史上最も有名な船といえば、日米修好通商条約の使節として勝海舟たちが太平洋横断(1860年)に使った「咸臨丸」でしょう。
「咸臨丸」に比べれば、「観光丸」の知名度はあまりにも低い。「観光」という名前から受ける印象として、遊び半分のいい加減な船名という感じがしますが、「咸臨丸」に先駆けて導入された蒸気船であり、「咸臨丸」より活躍期間が長く、乗船した人も多彩であり、後世への影響で「咸臨丸」に優っている船であるといえます。

観光丸はオランダで建造された蒸気・帆走兼用の船です。
全長65.8m、幅9.0m、約350トン。
両舷に水車のような水かきをつけた「外輪式」といわれる駆動方式で進みます。

1852年、オランダで建造された当時の名は「スービング号」といい、オランダの植民地インドネシアへ配属されました。

1853年、アメリカのペリーが来航。翌年、日本が開国することになると、鎖国期間を通じて唯一の通商国だったオランダは、他国と差をつけようと、オランダ皇帝の名でスービング号を幕府へ献上。
1855年、「観光丸」と改名されます。

「観光」という名の由来ですが、こんにちの我々の感覚からすると、「旅行」「遊び」「レジャー」というような、ヤワなイメージがありますが、本来は「易経」にある「国の光るを観る」に由来するもので、未来志向の志の高い名前だったのです。

長崎海軍伝習所の教官だったオランダ人士官、カッケンディーケの著書「長崎海軍伝習所の日々」(平凡社・東洋文庫)によると、観光丸は1年に1回くらいのペースでボイラーをオーバーホールしています。また、僚船・咸臨丸は、建造後わずか5年程で蒸気機関が酷使に耐えられず、帆船に改造されています。これらのことからすると、当時の蒸気船は頻繁に改修を要し、機関寿命が短かったことをうかがい知れます。
史実でも、観光丸は明治初期に老朽化で解体処分されています。船体寿命は20年くらいだったのでしょう。


この復元「観光丸」は1987年オランダ建造。
昔の観光丸の図面が残っていたので、サイズや外見をほぼ忠実に再現できたというから驚きます。
なお、動力は蒸気機関ではなくディーゼル機関です。

横浜に停泊中の各部写真

外輪部が結構場所をとっています。

観光丸のロゴがステキ。
しかし、幕末の観光丸にこんなマーキングはきっとなかったでしょう。

船首像にはラッパを吹き鳴らす女神像。
昔は船首像を付ける習慣はなく、旧観光丸にはこんなものはなかったそうです。

蒸気船とはいいながら、大きなマストが目立ちます。

19世紀中頃の蒸気船は帆走を主にしていました。
当時は壊れやすい蒸気機関もあいまって、帆走併用が前提であり、決して蒸気だけでずんずん航海できる船ではなかったのです。

中公新書「長崎海軍伝習所」によると、幕府伝習生の第一期生のうち水兵候補生は、和船の百石船乗りから重点的に選抜されました。ベテランの船乗りとして、即戦力を期待されていたのです。
しかし、和船と洋式帆船では帆の構造があまりにも違いすぎ、彼らは観光丸の帆架け訓練では高い所へ登れず、まったく役に立たなかったそうです。

帆船のことはよく知りません。なんでこんなに縦棒や横棒がたくさんあるんでしょう。

乗船場所です。

一回につき100人くらいが乗っていました。

後進して埠頭を離れる観光丸。
方向転換して前進に転じたところ。
後進する姿のアップ。
外輪が水車のように激しく水を掻いています。

外輪式は陸上車両のキャタピラのようなもので、方向転換に関しては抜群に有利。左右の外輪を逆に回せば、その場で方向転換できます!
しかし、外輪式は、スクリュー式に比べてパワーロスが大きく、また、軍艦として使うには両側面に大きな弱点を晒すものであり、そのため19世紀後半には急速に姿を消していきました。
木製の帆船→木製の蒸気帆走併用の外輪走行船→鉄製のスクリュー走行船という世代交代が19世紀の100年足らずで達成されたのです。20世紀の船の進歩は、19世紀に比べれば小さいと言わなければなりません。

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