長崎キリシタンの反ユダヤ主義
獨協大学教授 佐藤 唯行
イエズス会通じ偏見抱く
異端審問激化した16世紀末
われわれ日本人が近代以後、ユダヤ人迫害に手を染めず、反ユダヤ主義勢力を国内に抱え込まなかった事実は、世界に向かって誇るべきところである。しかし「南蛮貿易の時代」にまで遡(さかのぼ)ると状況は異なるようだ。「日猶の友好・親善」という通説を覆す注目すべき歴史像を提示したのは、ポルトガル出身の歴史学者で東京外大特任准教授のルシオ・デ・ソウザだ。ソウザは新著『近世日本におけるポルトガルの奴隷貿易』(2019年、オランダ・ブリル社刊行)の中で、大航海時代の日本に渡来した南蛮商人の中にイベリア半島を追われた隠れユダヤ教徒が含まれていた事実を明らかにしている。次に同書に依拠しながら、彼らに対して長崎の日本人キリシタンたちが示した反ユダヤ主義とも言える行動を紹介してみたい。
隠れユダヤ教徒が来住
16世紀末、ポルトガルでは本国のみならず、その植民地でも素性を隠して潜伏する隠れユダヤ教徒を摘発する異端審問が激化していた。その目的は財産を没収し、死刑を宣告することであった。そうした中、植民地ゴア、マラッカ、マカオを逃げ回っていた隠れユダヤ教徒ルイ・ペレスと二人の息子が1588年、長崎に来住したのだ。領主・大村純忠によりイエズス会領として寄進された長崎にはポルトガル商人の居住地(島原町)があり、また異端審問制度がいまだ確立されていなかったため、隠れユダヤ教徒にとり格好の避難所となっていたからである。
ペレス家は他のポルトガル商人と異なり、日本人女性を妾(めかけ)として囲うこともなく、日本人と日本文化に常に敬意を払って暮らしていた。また偽名を名乗ることでユダヤ出自を隠す努力も怠らなかった。そのため当初は日本人から好感を持たれていた。状況が一変するのはマカオを経由して毎年長崎へ来航する新来のポルトガル商人が発した「誰それはユダヤ出自らしい」という噂(うわさ)話であった。ペレス家には聖母・聖人像は一つもなく、同家の者は十字架の前を通る際に帽子を脱ぐ作法を怠っているという風評が飛び交い始めた。また豚肉を食べなかったこともユダヤ教戒律遵守(じゅんしゅ)の証しに違いないとの疑惑を招く契機となった。
1590年頃の長崎では、ペレス一家がユダヤ人であることは多くの者に知れ渡っていた。
当時、長崎在住の日本人キリシタンたちは、同地に滞在するポルトガル商人の中には「本物のキリスト教徒」と、表面上キリスト教徒のふりをして暮らす「隠れユダヤ教徒」という異なる2集団が存在することを認識し、また両者の違いを区別できたのだ。さらに日本人キリシタンの間には「本物のキリスト教徒」の一員である自分たちにとっても「隠れユダヤ教徒」は許し難い敵であるという意識も育まれていたのである。恐らくはイエズス会宣教師が発する言説を通じ、偏見が植え付けられたものと推察できる。
日常的な差別も行われていた。日本人キリシタンの子供らが「ユダヤ人」とののしりながら、街の通りでペレスを追い掛け回しているのだ。このような振る舞いはユダヤ出自の者に対する所業としてはありふれたものであったと長崎在住の某ポルトガル商人は述懐している。家を貸していた家主がペレス家の素性に不快感を募らせ、ペレスは立ち退きを余儀なくされるという事件も起きている。家主は篤信の日本人キリシタンであったからだ。またキリスト教徒にとり肉食が禁止されている四旬節にペレス一家が肉を食べていたことが知れ渡ると、日本人キリシタンが抱く同家への嫌悪感は頂点に達したのだ。
蔓延した否定的な見方
日本人キリシタンたちがその信徒数と勢力において全盛期を迎えていた16世紀末という時代は、同時にカトリック世界における隠れユダヤ教徒への迫害が猛威を振るった時期でもあった。当時、カトリック世界の東端に位置した九州長崎に生きる日本人キリシタンに対しても、カトリック世界で蔓延(まんえん)した否定的ユダヤ人像はイエズス会を通じ伝えられ、無視し難い影響力を及ぼしていたことをソウザの研究は明らかにしているのである。
(さとう・ただゆき)
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