1-4
何日も
部屋の電気は
ベッドの中にいると、両親の思い出が蘇ってくる。彼はそれでまた泣いた。思い出はふたりに関するものに限らず、町全体にひろがった。あの夜、彼が亡くしたのは両親だけではなかった。彼は町を亡くした。
役所のスピーカーが、この町が避難区域に指定されたことをくりかえしアナウンスしていた。彼はそれをベッドに横たわったまま聞いた。
玄関のチャイムを鳴らす者があった。蒼が出ないでいると、「どなたかいらっしゃいませんか」と呼びかけてドアを叩いた。蒼は動かなかった。
自分は病気で死ぬものと思っていた。いまでも夜になると熱が出る。金属の
だが彼は生きている。死なない、と体がいっている。
ある日、階下におりてトイレに入った。
水を飲もうと台所に向かったとき、何かの声を聞いた気がした。
蒼は立ちどまり、耳を澄ました。
また声がする。外からだ。
玄関でスニーカーを履き、外に出た。足がふらつく。夕空に山々が巨大な影となっていた。また声が聞こえる。
犬だ。となりのあの馬鹿犬が
隣人の
蒼は表の門から入った。車が2台停まっている。広い家庭菜園があって、そのそばの犬小屋から茶色の柴犬が出てきた。蒼を見て吠えるが、いつもより声に力がない。
「おまえ、ずっとここにいたのか」
蒼は声をかけた。犬は
「待ってろ。食い物と水を持ってきてやる」
蒼は皿を拾いあげた。玄関に向かいかけ、足を止める。
「やっぱおまえも来い」
犬の鎖をはずしてやる。他人の家にひとりで勝手に入るより、家族に同行してもらった方がいい。
玄関の鍵はかかっていなかった。「お邪魔します」と声をかけ、靴を脱いであがる。よその家だが、何だか懐かしい匂いがした。
しばらく来ていなかったが、間取りは記憶していた。迷わず台所までたどりつける。
流しの下にいろいろしまってあったことを思いだし、戸を開けると、缶詰などがある。カップラーメンも見つけた。無性に食べたくなる。温かいもの、固形のものはしばらく口にしていない。
ドッグフードは2種類あった。どちらも封が開いている。
「おい、どっちがいいんだ」
呼びかけるが、返事はない。蒼は廊下にもどった。
犬が前足でトイレのドアをひっかいている。
「何だよ。何かあるのか」
蒼が引きあけると、妙に重かった。何かが倒れてきて、床に叩きつけられる。
「うわっ」
彼は悲鳴をあげ、逃げようとして壁にぶつかって転んだ。
和田のおじさんが床に転がった。
蒼の知る彼は黒髪だったが、いまは真っ白になっている。生え際の頭皮が水っぽく
季節はずれの
「ああクソッ……クソックソッ」
蒼は
背負うのは両親の死だけで精一杯だ。他の死体は荷が重すぎる。
仰向けになり、手で顔を覆った。吐き気と涙がまた襲ってくる。背中に当たる床のフローリングがよそよそしく冷たい。
犬が鼻を鳴らしていた。蒼は顔をあげた。
飼い主の顔に犬は鼻を近づけ、目頭から垂れる汁を
「おい、何やってんだ。やめろ」
蒼は立ちあがり、首輪をつかんだ。「行儀よくしてろ」
そのまま台所にひっぱっていく。ドッグフードの袋を見せると跳びついて食いやぶろうとするので、奪いとる。蒼はすこし考えて、カップラーメンを手に取った。缶詰を適当に取り、スウェットパンツのポケットに詰める。ドッグフードは脇に抱えた。
廊下は狭くて、死体で塞がれていた。仕方なく
「おじちゃん、こいつ連れてくから」
彼は足元で尻尾を振る犬を見おろした。「あと、食い物もらってく。こいつと俺の分」
小さい頃、この家にいておじさんが仕事から帰ってくるとすこし緊張した。別に怖い人ではなかったのに、なぜそのように思ったのだろう。いまとなっては不思議だ。
玄関に食料を置き、彼は寝室に向かった。
押入の
彼は毛布をひっぱりだした。廊下にもどり、おじさんの体にかける。フリースジャケットを着ている彼の首筋に黒い金属がのぞいている。背中が大きく膨れて
「おじちゃん、ごめん。何もしてあげられなくて」
顔まで
彼の家の方に駆けていった犬がまたもどってきて、彼を
隣家では庭で飼われていた犬だが、彼は中に入れた。
台所の床に皿を置き、ドッグフードをあける。
「ん? ちょっと多すぎたか」
適量を知るためパッケージの文字を読んでいると、犬は飛びついて食べはじめた。あまりに勢いがいいので、多すぎる分を袋にもどすこともできない。もうひとつの皿に水を入れてやる。
電気ケトルでお湯を
沸騰したお湯をカップラーメンに注ぐと、ふわっとうまそうな匂いが立ちのぼった。3分待つよう
まだ
口の中が
見ると、床の上で犬が彼を見あげている。
「何だ。もう食いおわったのか」
犬は心なしか、先ほどよりも顔つきが穏やかになったように映る。蒼はスープを飲みほすと、コップに水を
歯を磨いて蒼は2階にあがった。ついてきた犬が床で乾いた
ベッドに倒れこむと汗の臭いがした。
彼はベッドの端に寄り、すこし湿ったような感触の毛を指先で撫でた。
翌朝、まだ暗い内に起きだした蒼は、シーツをベッドから剥いで風呂場に向かった。着ているものといっしょに洗濯機に放りこむ。スウェットの上下はずっと着たままだったのですこし汗臭くなっていた。
シャワーを浴びる。何日ぶりだろう。首筋に砂がついている。犬が戸をひっかくので入りたいのかと思って開けると、
風呂からあがって、セーターを着、ジーンズを
台所に行き、米を
洗濯が終わったので2階のベランダに干す。
スマホを点けようとしたらバッテリー切れだったので充電ケーブルを
廊下の吐瀉物を
洗い物を済ませて外に出た。
犬に
これまで動物を飼いたいと思ったことはなかった。犬も猫もハムスターも金魚も興味がない。いつも自分のことで手一杯だった。
それでもこの犬のくるりと巻いた尻尾を振って歩く姿はかわいらしい。ときどきこちらをふりかえって気を
蒼はほほえみ、
犬を追って斜面をおり、川岸に出た。澄んだ水に紅葉が流れていく。濃い色の葉が底に沈んでいる。砂地の川底に波が淡い影を落とした。
犬が口をつけて水を飲む。蒼も手で
幼い頃よく遊んだ川だった。この水に触れるのは何年ぶりだろう。手を合わせてざぶりと掬い、顔を洗った。夜にかいた汗と熱の
彼は靴を脱いで裸足になった。ジーンズの
水位は足首のすこし上くらいだった。体温が奪われてこの先にある湖へと流れていく。
彼は思いたってセーターとその下に着ていたTシャツを脱ぎ、岸に放った。足をジーンズからひっこぬき、ボクサーブリーフも脱ぎすてる。そのまま全裸になって流れの中へと歩いていった。
一番深いところでも水は膝までしかなかった。川の上は風のとおり道になっていて、体に当たると鳥肌が立った。彼は肌を撫でた。数日間ろくに食べなかったせいで筋肉が
彼はしゃがみ、腰まで水に浸かった。上流の方を向くと、冷たい水が脚の間に流れこんで
静かだった。この町の底に響いている音の
彼は水を掬って顔に叩きつけ、強くこすった。腰を折り、頭から水をかぶる。体のすべてが濡れる。
彼の中にあった悪いものがすべて洗い流されると思った。あの見たこともない病気は外から来たものだ。それは清めることができる。この体には居着かせない。
水に浸かったまま彼は周囲を眺めわたした。山の紅葉がきれいだ。じっと見ていると葉の1枚1枚が識別できそうだが、気を抜くと山を覆う1枚の
幼い頃もよくこうして川の真ん中にしゃがんでいた。ずっとここで長い年月をすごしてきたような気がする。
この町はどうなってしまうのだろう。住人を失い、かわりはててしまった。
ずっとこの町で暮らすものと思いこんでいた。そうやって生きていくことが夢だったのだ。
やりたいことや夢を父にきかれて答えられなかった。いまならいえる――聞いてくれる相手はもういないが。
この町ももう死んだ。
土地はある。家もある。川も山もある。だがもう町の
彼はもう泣かないと決めた。夢は終わりかけている。涙を流している暇などない。
すべてを失ったあとで、かわらずにこの町は美しい。だから生きていける。
彼は川底に手を突き、腕立て伏せのような姿勢で全身を流れに沈めた。押しながそうとする力に
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