1-3

 眠るのが怖かった。


 これまでの2晩と同じように夜中具合が悪くなる気がしたからだ。


 その予感は当たった。


 そうが目をさまして最初に気づいたのは、右腕の感覚がないことだった。


 体の下敷きになってしびれているわけではない。むしろ左腕の上に重なっていて、左腕の方が痛い。


 暗闇で、目が慣れる前から不思議と右腕に存在感があった。


 左手でそこに触れてみる。スウェットシャツのそでがあるはずなのに、触れない。


 触れたのは硬いものだ。すこしざらざらしていた。


 蒼は跳ねおきた。掛布団に閉じこめられていた汗の臭いが立ちのぼる。


 ぼんやりと何かが光っていた。赤と青の光が脈打つように明滅している。


 彼はどこかの光が反射しているのかと疑った。光源をさがすが、見当たらない。スマホは充電完了したことを知らせる緑のランプをけているだけだし、カーテンは閉まっていて窓の外から光が差しこむこともない。


 右肩をつかみ、腕を撫でおろしていく。二の腕は何ともない。ひじのあたりからおかしくなった。手触りが人間の体とはまるでちがう。硬くて、爪を立ててもへこまない。腕が完全におおわれて隙間はなかった。


 手首にかけて細くなっていく。だがそれは人体の自然な輪郭とはちがった。その先はさらに細く、指があるはずのところより先まで行って鋭くとがっているようだった。


 彼はベッドからおりた。動くと頭が痛かった。耳がかっかと熱い。


 電気をけると、それがはっきり見えた。


 肘から先が黒い金属に包まれている。ヨーロッパの騎士が馬上試合で着けるやりのようだ。LEDのライトでも埋めこまれているみたいに赤と青の光が並ぶ。彼は以前テレビで見た光る海月くらげを想起した。


 それがどうやって腕についているのかわからない。ぎ目のようなものは見つからなかった。


 彼は手首のあたりをつかみ、ひっぱってみた。いくら力を入れてもがれてはくれない。


 手を離し、振りまわしてみる。奇妙なことに重さを感じない。先端が椅子の背もたれに当たった。何のごたえもなく斜めに切断される。彼は床に転がった背もたれの半分を手に取って見た。断面は最初からそうであったかのように滑らかだった。


 背もたれを右腕に叩きつける。金属の内側には自分の腕があるはずだが、何も感じない。何度叩いても表面にきずひとつつかなかった。


「クソッ……何だよこれ」


 背もたれを捨て、金属を壁に押しつける。こぶしを握り、思いきり殴りつけた。


「消えろ消えろ消えろッ」


 衝撃が腹に来た。


 彼は吹きとばされてベッドに倒れこんだ。


 天井から黒い砂が降ってくる。この2日、体についていたものと同じだ。


 右手を顔の前にかざす。あの金属はもうついていない。殴ったために爆発したのか。


 彼は起きあがった。さっきまで腕を押しつけていた壁が大きくへこんでいる。


 部屋を出て階段をおりようとしたところで突然吐き気に襲われた。いつくばり、床に吐く。日中それほど食べていないのに、とめどなく出てくる。床の上でひろがって手にも膝にもついてしまった。


 手の甲で口元を拭い、立ちあがる。ふらつきながら階段をおりた。涙が出る。自分がどうなってしまったのかわからない。


「お母さん、ちょっと来て」


 両親の寝室のドアをノックする。返事はない。


 蒼はドアを開けた。


 目ざめてからのことがすべて悪夢であるような気がした。


 あの赤と青の光がまた目の前に現れた。彼の腕のときのように整列しておらず、星屑ほしくずのように群がっていた。


 暗い中で点滅する光に、彼は目を閉じた。壁を手さぐりし、電気のスイッチを押す。どんなものが明らかになるにせよ、自分のタイミングでそれを目にしたかった。


 まぶた一枚かして明るい。彼は一度深呼吸して目を開けた。


 母が寝ていた。眠ってはいない。目を大きく見開いている。どこも見てはいない。


 顔から血の気が失せて真っ白だった。白いTシャツを透かして赤と青の光が見える。


 母の体が光っていた。


「お母さん……?」


 蒼はベッドに近寄ろうとして足を止めた。


 母の体に何かある。枯れた杉の葉に似た色の髪の間にそれは見えた。


 磯の岩につくフジツボのようにも、木の幹に生えるきのこのようにも見える。


 黒い何かが母の体を覆っていた。シーツに黒い砂が散らばっている。


 蒼は手を伸ばし、母の顔の前にかざした。母の目は動かず、呼気こきてのひらに触れない。あるはずのぬくもりが感じられなかった。


 首筋に付着したものに触れる。硬い。ざらざらしている部分は蒼の腕にできたものと似ている。だが表面はあれほどなだらかではなく、ぶつぶつと突起ができてぎざぎざに荒れていた。


 吐き気がこみあげてくる。蒼はそれをみこもうとした――まだだ。まだ早い。ここでをあげてはいけない。


 彼は奥のベッドに目をやった。父の姿はない。


 掛布団と毛布が向こう側に落ちている。


 彼はベッドをかいし、それらをまとめてベッドの上にひっぱりあげた。


 その下から現れたものを父と認識するのに時間がかかった。


 登山で日に焼けた太い腕は確かに父のものだった。ただ、金属が無数に張りついてうろこのようになっている。部屋着の赤いTシャツには富士山のイラストが描かれているはずだったが、両手で掻きむしり引きさかれてしまっているため見えない。裂けたところからあの赤と青の光がのぞく。反りかえりねじれた体はベッドと壁の間を押しひろげようとしているかのように見えた。


 顔が黒い金属に覆われていた。並んだ突起がはじけ、松ぼっくりのようになっている。大きく開いた口は暗い洞穴だった。


 蒼は手で顔を拭った。涙に濡れていた。


 部屋を出て廊下を歩く。こみあげてくるものがあったが、吐き気ではない。叫び声でもない。低いうなり声だった。


 居間にはいつものソファ、いつものテーブル、いつものテレビがあった。いっそまるっきりかわっていてくれればよかった。そうすれば、あれは母でなく、父でなく、自分もいつもの自分でなく、やがて来る朝もいつもの一日に続く朝でなくて済む。悪夢のような光景を夜に閉じこめておける。


 彼はソファに腰をおろした。息が切れている。Tシャツのすそをひっぱり、涙と鼻水を拭く。


 時計を見る――午前2時。


 のどが渇いていた。台所に行き、ミネラルウォーターを飲んだ。シンクに誰かの使った皿が残っている。


 行動をもうすこし先延ばしにしていたかった。動けばが家の外に及ぶ。外の者が家の中を見ることになる。蒼の見まちがい、気のせいでは済まなくなる。


 蛇口から水滴が1粒落ちた。かす者はない。だが自分で決めなくてはならない。


 蒼は固定電話の受話器を取り、119番にかけた。


 相手が出るまで時間がかかった。


『消防です。火事ですか、救急ですか』


 電話の向こうは何やら騒がしかった。


「救急です」


『場所はどこですか』


 蒼が住所を答えると、オペレーターは「富士谷ふじやちょう……」とつぶやいた。


『どなたがどうされましたか』


「父と母が……寝てたんですけど、金属みたいのが体に――」


『わかりました。救急車を向かわせます。あなたのお名前といまお使いの電話番号を教えてください』


 蒼が答えると電話は切れた。


 症状をすべて伝えていないのにすべて了解したようだったのが気にかかった。もっとも、あれ以上に詳しい説明を求められても無理だったろう。彼もいまここで何が起きているのか理解できていない。


 全身に汗をかいていた。Tシャツが冷たい。頭も痛い。


 彼は2階にあがった。床のしゃぶつを避けて自室に入り、Tシャツをかえる。スマホをスウェットパンツのポケットにつっこむ。


 1階におりて頭痛薬を呑んだ。水といっしょに呑むのがまだるっこしく思えて、そのままみくだく。渋くて舌の付根が痛くなった。


 救急車のサイレンが聞こえてきた。彼は玄関に走った。


 サンダルを履いて外に出る。赤色灯が湖の方からやってくる。


 それは家の前をとおりすぎ、谷の奥へと走っていった。隣家の犬が馬鹿みたいにえる。


 よく見る救急車とはちがう気がした。白と赤ではなく、闇に溶けこむ色をしている。


 蒼はしばらくその場に立っていた。街灯がすくないので星がよく見える。否応いやおうなく星空は美しかった。


 やがて赤色灯とサイレンが谷の奥からもどってきた。今度は家の前に停まる。


 トラックのような救急車だった。キャビンの上にひとつ、箱型荷台の上にひとつ、赤色灯がまわっている。荷台の横っ腹に赤十字がペイントしてあった。


 キャビンと荷台から計3人が降りてきた。迷彩服を着て、ヘルメットをかぶり、赤十字の腕章を巻いている。顔がマスクで覆われていて、表情はうかがえない。


「患者さんはどこですか」


 助手席から降りた男がいう。


「こっちです」


 蒼は彼らを先導して家に入った。男たちはブーツに迷彩柄のシューズカバーを装着してあがりこんだ。


 両親の寝室の前で蒼は待った。男たちも入ってこいとはいわなかった。


 1人ずつたんで運ばれていく。蒼はうつむいてそれを見ないようにした。


「きみ、そこ――」


 先ほどの男が蒼の左手を指差した。「怪我してるね」


 見ると、手の甲から血が出ている。右手の槍を殴ったときのものか。


「きみは体に異状は?」


「熱があって、頭が痛くて、さっきちょっと吐いちゃって――」


 蒼はすこしいいよどんだ。「金属が腕についてました。もう消えましたけど」


 男は蒼の肩をつかんだ。大きな掌だった。


「きみも救急車に乗って」


 闇に溶けると見えた救急車はオリーブグリーンに塗装されていた。荷台の内部はもっと薄い緑で、折りたたみ式のベッドが左右に2段ずつ備えつけられている。


 蒼が乗りこんだとき、すでに父と母は上下に分かれて寝かされていた。反対側には別の人が横たえられている。そちらを蒼は横目に見た。首のうしろから1本、蒼の右腕についていたもののように尖った金属が突きでている。そのため仰向けにできず、うつぶせにされていた。


 救急車が走りだし、蒼はベッドの間の床に座った。助手席の男よりも若い男が蒼に両親の名前をたずねた。蒼は自分の名前もあわせて答えた。男はそれをメモする。


 車はすこし走って停まった。外に出て蒼は、そこがどこだかすぐに悟った。懐かしい場所だ。


 市立富士谷中学校のグラウンドに人が集まる機会といえば秋の運動会くらいだが、そのとき200mトラックと中央のスペースは空けられる。


 いま、このグラウンドはテントに埋めつくされ、その間を人が行き来し、設置された照明が夜空を照らし、ヘリコプターが飛び、時知らず舞いこんだ祭りのように活気づいていた。


 男たちが父と母を担架に乗せてブルーシートの上におろした。


 別の男が近づいてくる。服装は救急車の男たちと同じだが、ヘルメットはかぶっていない。


 彼はひざまずき、母の目にライトを当てた。父の方は顔が金属で覆われているため、手首に指を当てる。


「2時46分、ごりんじゅうです」


 父と母に向かって手を合わせる。救急車の男たちも立ったまま合掌した。


 医師とおぼしき男はドイツの国旗に似た配色のカードを取りだし、ゴムひもで父と母の手首につけた。黒い部分を残して下半分を切りとる。


 彼は同じものを蒼の右手にもつけた。下部を切りとることはしない。


「あなたのご両親は亡くなられました。お悔やみを申しあげます」


 そんなことはいわれなくてもわかっていた。寝室ではじめて見たときすでにそれとわからぬほどかわりはてていたのだ。


 涙が流れていた。いつからなのかはわからない。


 医師の目が真っ赤に充血していた。近くに置かれた投光器の白い光が顔のしわをいっそう深く見せる。えきの泡が白く渇いて口の端にこびりついている。


 きっと今夜は何度も死体の瞳孔どうこうを調べ脈を取り、死亡宣告をしてきたのだろう。見渡せばブルーシートの上は死体だらけだった。死んでいることは見ればわかる。金属の鱗に覆われ、金属に顔の形をかえられて人間は生きていられるはずがない。


 それでも父と母は特別に――特別に生きのびてほしいとまではいわないが、これまで蒼にとってそうであったように特別に、彼らが積みかさねてきた日々に見合う穏やかな形で終わってほしかった。


 父と母が担架で運ばれた。蒼は校舎の中で治療を受けるよういわれたが、両親につきしたがった。


 トラック型の救急車が次々に人を運んできて地面に降ろす。それを医者が選別していく。校舎の方に運ばれていく人はいるが、蒼のように自分の足で歩ける者は1人もいない。すなぼこりが立つ。白い光に誇張されて寒々しい。


 父と母の担架は体育館に運びこまれた。続いて足を踏みいれた蒼は目の前の光景に立ちすくんだ。


 遺体が床を埋めつくしていた。バスケやバレーのために引かれたカラフルなラインが隙間からのぞく。天井の照明は暗く、に服するためにあつらえられたようだった。


 蒼の手が自然と胸の前で合わされていた。


 神も仏も深くは信じていない。その合掌は死者たちに向けてのものだった。この場で軽はずみな行いはしないという誓いの仕草だ。


 並べられた足と頭の間を父と母は運ばれていく。蒼はあとを追った。


 横たえられた遺体の中には大きな体の者も小さな子供もいた。男も女もいた。人間の形を留めている者も、黒い金属におかされつくした者もいた。


 黙りこくり、息をひそめ、同じ方向に頭を向けていること以外はちがっていた。


 父と母は演壇の前に並べて寝かされた。運んできた男たちが一礼して去る。


 蒼は父と母の足元に腰をおろした。どちらがどちらの足か、大きさですぐわかる。


 ふたりの体から赤と青の光は消えていたが、蒼の瞼の裏にははっきりと残っていた。


 自分と同じ病気で両親は死んだ。両親は死に、自分は生きのこった。


 母に謝りたかった。進路のことでけんしたままで終わってしまった。母が怒ったのは自分のことを心配してくれていたからだ。いつも作ってくれた料理はもっとよく味わって食べるべきだった。プロテインやサプリなんか呑むんじゃなかった。


 父に感謝したかった。休みの日にはよく山に連れていってくれた。抱っこされて風邪をうつしたという話は知らなかったが、自分の記憶にないところ、気づかない部分で支えてくれていたのだ。


 蒼は手を伸ばしてふたりの足に触れた。がさがさした足の裏を撫で、甲の形を指でなぞった。掌で包むと、硬くて冷たかった。


 両親の足をこうしてじっくり触ることなどいままでなかったので、不思議な気がした。


 ふたりの足は蒼のそれによく似ていた。トレランシューズを買うときに何度も試し履きして自分の足の特徴を把握した。甲高といわれる日本人にしては甲が低いのは父に似ている。親指と人差指の長さがそろっているのは母に似ている。


 父と母から、この体はできている。体の末端に触れただけでそれとわかる。


 蒼は立ちあがった。床に並ぶ死体を見おろす。


 罪のない人たちが死んでいた。


 それぞれの人となりは知らない。もしかしたら悪い人間がいたかもしれない。蒼には知るすべがなかった。


 だがこうしてわけもわからぬまま死んで、こんなところで見送る人もないままに捨ておかれるほどの罪を彼らが犯していないことは明らかだった。そんな罪はこの世に存在しない。こんなことは誰の身にも起こってはならない。


 蒼は歩きだした。たくさんの足が彼に向けられていた。たくさんの顔が彼を見あげた。どれもどこかの誰かに似ているはずだった。


 この体育館を出ても自分の一部はここに留まりつづけ、死につづけるだろうと蒼は思った。息の白さがいとわしかった。


 グラウンドの活気は増していた。運びこまれた死体がまた多くなっている。歩く蒼を気にかける者はいなかった。


 中学校の敷地から出て彼は手首のカードをはずし、丸めて捨てた。街灯がすくなく、道は暗かった。闇に紛れて彼はしゃがみこみ、また泣いた。


   ◀▶   ◀▶   ◀▶


 病室に看護師が入ってきた。


 沙也さやの点滴とモニターを確認し、数値を書きしるす。


「蒼くん、何の話してるの」


 彼女にたずねられ、蒼はほほえんだ。


「昔話をちょっと」


 廊下に出ていく彼女を見送って蒼は、いつ彼女は看護師になろうと決めたのだろう、看護師の仕事をしっかりとこなせるようになるまでどのくらいの時間を要したのだろう、と考えた。


 となりのソファでは大槻おおつきがことばをなくしていた。


 こうした反応には慣れている。この話はもう何度もした。


 ハルカは窓枠に肘を突き、外を見ていた。


 彼女の腕に太陽の光が当たっている。見る間に日焼けしてしまいそうで、蒼はそれを見つめつづけた。


 沙也のモニターが規則的に音を立てる。彼女の生命で時間を刻んでいる。


 誰も観ていないテレビをハルカが消した。

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