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【社会】

残る基地「望んだ沖縄か」 本土復帰47年 「辺野古」対立続く

沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場=2018年9月16日

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 沖縄県は十五日、一九七二年の本土復帰から四十七年を迎えた。敗戦後の米軍統治にあらがった人々は「即時・無条件・全面返還」を掲げて、復帰運動を繰り広げた。だが、在日米軍専用施設は約七割が沖縄に集まり、県面積の8%超を占める。令和の時代となっても、基地負担は重いままだ。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設を巡っては、県と政府の対立が続いている。

 昨年十月就任の玉城(たまき)デニー知事は辺野古移設に反対し、普天間の県外・国外への移設を求めている。今年二月の県民投票は、辺野古沿岸部の埋め立て「反対」が七割超を占めた。政府は土砂の投入を続けており、三月からは区域を広げている。

 玉城氏は対話による基地問題の解決を掲げるが、政府との溝は深い。

 沖縄本島では十七日から三日間、各地の市民らが、米軍基地のない沖縄の実現を求めて「平和行進」を展開。十九日には宜野湾市で、辺野古移設反対などを訴える「県民大会」を開く。

◆復帰運動家「闘い終わらない」

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 「多くの米軍基地が残っている。望んだ姿ではない」。沖縄で本土復帰闘争に身を投じた石川元平(げんぺい)さん(81)=写真=は、四十七年前の返還とその後を振り返り、悔しさで胸を詰まらせる。「われわれの代で沖縄の願いを勝ち取らなければいけなかった。できることは、まだある」と闘争を語り継ぐ。

 一九七二年五月十五日。日本政府主催の復帰記念式典が、那覇市で行われた。隣接する公園で、基地を残した返還に抗議する人々が集会を開いた。米軍支配に反発し六〇年に結成した「沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)」の一員として、集会に参加した。

 どしゃ降りの雨の中、日の丸が掲げられた市街地の国際通りでデモ行進。「こんなはずじゃない」。悪天候は、当時の心境そのものだった。

 生まれは沖縄本島北部。国民学校に通っていた太平洋戦争末期、激しい地上戦となった沖縄戦に遭遇する。山小屋に約三カ月間潜んだ末、米軍に投降。一時、収容所生活を送った。

 五五年、石川市(現在のうるま市)の女児が米兵に乱暴、殺害される事件が起きた。五九年には同市の小学校に米軍戦闘機が墜落。児童ら十七人が死亡、二百人超が負傷する。五〇年代後半に中学の代用教員となったが、六〇年から教職員組織の活動などに専念。「基地に虐げられたくない。祖国に帰りたい」と、即時・無条件・全面返還を掲げる復帰協に加わった。

 「分断線を踏みつぶしてやりたい、と思った」。六三年から六年にわたり展開した海上集会。沖縄と鹿児島県・与論島の間の北緯二七度線を挟み、先に本土復帰した奄美群島をはじめ各地から駆け付けた人々と、木造船の上でエールを交わした。

 日本復帰で、教育を受ける権利などを明記した憲法が適用されるようになったのは、良かったと思う。だが、今も在日米軍専用施設の約70%が、沖縄に集中している。

 沖縄県教職員組合の委員長だった九五年、米兵による少女暴行事件が起きた。自宅がある宜野湾市では、米軍普天間飛行場(同市)の大型ヘリコプターが二〇〇四年に沖縄国際大に墜落し、一七年にはヘリの窓枠が近くの小学校に落ちた。子どもや若者が危険にさらされる現状に、自責の念さえ抱くこともある。

 鬼籍に入った復帰協の同志らに代わり、基地なき沖縄を目指して、抗議や講演活動を続ける。「闘いは終わらない」。五月十五日は、自らを奮い立たせる日だ。

 

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