68.守りの生贄
ヴィオレットがユランを連れて向かったのは、一軒の時計屋さん。さっきの場所からは少し離れてしまったから、ここを出たらそのまま修繕の受け取りに行く事になるだろう。休憩は出来なくなるが、元々ユランは疲れていないし、ヴィオレットがこちらを優先したなら異を唱える思考は欠片もない。
そして直前の会話からも、ここに何をしに来たかは聞くまでもなく明らかで。
「私の時計もここで買った物なの。腕時計以外も取り扱ってるし、デザインも豊富だから」
「へぇ……ヴィオちゃん、この辺来た事あったんだね」
「そう、って言いたい所だけど、実は初めてなの。私の時計を選んでくれたのはマリンだから」
「あぁ、そういう事」
ヴィオレットもユランと似た様な理由で腕時計が得意ではない。装飾品が苦手という事もあるし、ヴィオレットが持っている腕時計はそもそも本人の趣味趣向を完全に無視した物だ。かつて父が使っていた物を修理するか、全く同じデザインを特注するか……男性的な物が圧倒的に多い。そしてサイズも、ヴィオレットの細い手首ではすり抜けてしまう。
マリンが今の懐中時計を用意してくれるまでは、彼女とお揃いのシンプルな腕時計を使っていた。合皮のベルトに金属の時計部分がくっついているだけの、シンプル過ぎるくらいなデザインだが、自分が持っているサイズもデザインも合っていない物よりはずっと良い。
ただそれでも手首を拘束される様な感覚はどうしても慣れなくて、着け忘れが多発している内にマリンが今の懐中時計を見つけてきてくれたのだ。
「これなら鞄につけるか、ポケットに入れておくか出来るでしょう?」
並んでいる沢山の文字板を眺めながら、ユランに合いそうな物を探す。
自分の時はマリンに任せて正解だったけれど、ユランの物を選ぶのは何となく心が弾む。自分の物を選ぶ時は似合う似合わないを判断するだけだが、ユランが気に入る物を探すとなるとそれだけ責任があって、だからこそ楽しい。相手がユランだから、というのが大きいのだろうけど。
ユランの好みを把握しているから、というより、彼ならもし可笑しな物を選んでも責める事なく笑ってくれると思うから。
「手が大きいから、あんまり小さいと使い難いわよね」
「そうだねぇ……でも、ヴィオちゃんが選んでくれたのなら大事にする」
「そういう事を言ってるんじゃなくて」
元々自分がある程度先導するつもりではあったけれど、ニコニコしながらヴィオレットの後ろをついて回るユランは、完全に選択権を委ねるつもりらしい。最早時計ではなく悩んでいるヴィオレットにしか目が行っていない。
「貴方が使う物なんだから、ちゃんと使い易い物でないとダメでしょう」
そう言って、目についた物を手に取った。デザインに対するこだわりの少ないユランには機能性が重要になってくる。丈夫で、手に馴染む物が。
(うーん……)
似た様な大きさが並ぶ時計達は、自分の手のひらには丁度良いけれど、ユランならば小さいだろうか。多少は存在感がないと、忘れられ放置された腕時計達と同じ末路になってしまう。腕時計をよくなくすなら、ユランには時計を持ち歩く習慣自体があまり育っていないだろう。
できれば長く使って欲しいし、気に入って貰いたい。正直欠片も必要のない心配だが、ユランの内心を知らないヴィオレットにとっては当然の考えだろう。
「俺の手に合わせたら凄い大きさになると思うよ?」
「まぁ……そうよね」
ヴィオレットの目線の高さで、ユランの大きな手のひらが揺れる。ヴィオレットの手どころか、顔もすっぽり覆えそうなくらいに大きな手は、身長を考えれば妥当ではあるけれど。ヴィオレットには手のひらサイズに感じた懐中時計が、ユランに渡った途端子供の玩具の様に見える。
「ポケットに入れて取り出し易ければそれで充分だよ。大きすぎても困りそうだし」
他人事の様に言っているが、使うのはユラン本人だと本当に分かっているか……分かっていて全面的にヴィオレットに任せているのだから、質が悪いというか。仮にどれだけ奇抜で不便な物を選ばれたとて、ユランにとって最高のブランドはヴィオレットが自分の為に選んだ事なので、何一つ問題はないのだけれど。
ヴィオレットからすれば、普段時計をよくなくすユランに時計を贈るのだから、少しくらいヒントが欲しい。
ぷくん、と少し頬を膨らませて、笑顔を崩さないユランをジトっとした目で見上げた。拗ねた様な表情その表情にユランが何か言うよりも早く、その腕を両手で掴んで自らに引き寄せる。
「ユランも、気に入ったのがあったらちゃんと教えてよね」
「…………」
不意打ちで近付いた目線は、きょとんとしたユランの表情がよく見える。目をぱちぱちとさせて驚いてはいたけれど、不快感を抱いた様子はない。子供の悪戯を許容するかの様に、くすくすと笑みを溢すだけだった。
「うん……じゃあ、一緒に選ぼうか」
「そもそも使うのはユランなんだからね?」
自分からのご褒美という名目ではあるが、だからといってヴィオレットが選んだ物を何も言わずに受け取る必要はない。むしろ、折角隣にいるのだからユランの希望をどんどん出すべきだ。自分で選びたいとも思うけれど、それ以上に喜んで貰いたい。
そしてきっと、一緒に選んでいる時間が一番楽しいはずだから。一人で選んで、ただ贈るよりもずっと。
「ヴィオちゃんのはどんなの?」
「私?私は……」
説明するより見せた方が早いと、鞄のポケットから自分の懐中時計を引っ張り出した。
ハーフハンターやデミハンターと呼ばれる形で、蓋の中央部分がドーナツ型に抜け、そこにガラスが嵌め込んである。銀色のシンプルな作りの中で、針の中心にある水色の宝石が艶やかに煌めいていた。
マリンが選んだ物ならヴィオレットによく似合うはずだと思っていたが、ヴィオレットが持っているそれはどことなく……マリン自身を連想する様に思うのは、気のせいだろうか。
「お守りなんですって」
「……あぁ、それで」
澄み切った海の様なそれは、恐らくアクアマリンの石だろう。お守りとは言い得て妙だ。
己の名と同じ石だからか、その石の持つ言葉の事なのか。恐らくどちらも考慮した上での選択だろう。ユランはマリンの事をほとんど知らないが、ヴィオレットを大切に想うその一点に関しては信頼している。そしてそこさえクリア出来ているなら、他の部分はどうでもいいのだ。
何より、ヴィオレットが心から信頼している相手なのだから、下手に勘繰ってヴィオレットの不評を買いたくはない。
「良かったね、ヴィオちゃん」
「えぇ」
嬉しそうに微笑んで、両手で包み込む姿は大切だと言葉にせずとも伝わってくる。
人から物を貰う機会が極端に少ないせいもあるだろう。それもヴィオレットを想い、考えて選んでくれる人なんて、それこそマリンとユランくらいしか思い浮かばない。思えば初めて『ヴィオレット』としてプレゼントを受け取ったのは、ユランからだった様に思う。クリスマスだ誕生日だと、子供がプレゼントを貰う機会は多いが、自分はその全てに縁がなかったから。
「どうせなら俺もお揃いにしたかったけど、止めとこうかな」
「え……あぁ、ユランが使うには少し小さいかしら」
「そうもあるけど……うん、別のにする」
「……?」
ヴィオレットの懐中時計は、どことなくマリンを連想させるデザインではあるもののきちんとヴィオレットの好みの範疇だ。そしてヴィオレットは、元々装飾が多い物を好まない。大きさや繊細なデザインは女性寄りの印象ではあるけれど、男が使っていても違和感は少ないだろう。そもそもユランに周囲の印象を気にする様な神経は無い。
お揃いなんて魅力的な事、本来ならば飛び付いていた。ヴィオレットだってきっと笑顔で了承してくれる。
でもこれは、この贈り物は、マリンがヴィオレットの為だけに選んだ物だから。彼女がヴィオレットの事だけを想ったそれに、便乗する様な真似はすべきではない。同じ様にヴィオレットを想う者同士、弁えるべき礼儀がある。
仮にユランがマリンの立場だったなら……ヴィオレットの為に選んだプレゼントを、マリンの喜びの為に使用されたら。怒りはせずとも、何かしらの不快感は覚えただろう。
献身に生きるマリンと、心酔と敬愛に身を浸すユランが同じ想いを抱くかは別として、己がされて快くないなら止めておくのが賢明だ。
「ユランに似合うと思う物は沢山あるけど……これって思うのが中々ないわね」
「ヴィオちゃんが選んでくれるなら何でも嬉しいけどねぇ」
「そういう事を言ってるんじゃなくて、どうせなら貴方の好みにあった物が良いじゃない」
真剣な眼差しで悩む横顔に、ユランは自分の口元が緩んでいくのが分かった。
元々好き嫌いという概念自体が希薄なユランの好みなんて、多くの人が把握していないか誤解しているか。どちらにしても、多くの人間がユランという人間を見誤っていて。ある意味ではヴィオレットもユランの本性を誤解しているのだけれど……僅かな好みや苦手が分かるくらいには、ユランという人間の価値観を把握している。
今、ヴィオレットの頭の中はユランの事で満たされている。彼女が、自分の事だけを考えている。
その事実に、喜悦に、埋め尽くされた心が破裂してしまいそうだ。
時よ止まれと願うのは、きっとこういう瞬間。
「ユラン、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよー」
「その返事は聞いてない時よ、もう……好きなの、無いの?」
「んー、俺は使い易さ重視だから、デザインで選ぶってなると……」
拗ねた様だった表情が一転して、こちらを気遣うそれに変わった。それがこの楽しい時間の終了を告げる。これ以上はヴィオレットに要らぬ心配と不安を与えるだけだ。
時が止まれと思った所で、そんなもの叶いはしないと知っている。時間を売るこの店では、ユランの願いはただただ滑稽だ。
どれくらい時間が経ったのかは分からないが、ユランが頼んだ直しの受け取りもある。これ以上時間を掛けるのは得策ではない。
ならば適当な理由を付けて、この場は何も買わずに店を出るのも良いだろう。選べないと言えばヴィオレットは納得するだろうし、それを口実に後日また彼女と出掛ける事だって出来る。
打算にどれだけ濡れていても、弟のフィルターがある限りヴィオレットはそれを受け入れてくれる。そんな知恵を働かせて、今日は帰ろうと告げる──つもりだった。
「あ……」
「ヴィオちゃん……?」
ふと、視線を逸らしたヴィオレットが、吸い寄せられる様に二歩三歩。今まで見たいたのとは別の棚の前で立ち止まり、膝に手を付き一つの懐中時計を観察して。
探る様だった目は、何かに納得すると小さな喜びに煌めいた。
「やっぱり……」
「どうしたの?」
「これ、私の時計だわ」
「……?」
私の時計とは、一体どういう意味なのか。悪戯っ子の表情で笑うヴィオレットに訪ねても、恐らく答えてはくれないだろう。
不思議に思いながら、ヴィオレットが指差す先に視線をやる。それだけで、彼女の言っている意味が簡単に理解出来た。
ハンターケースと呼ばれるタイプの懐中時計。その蓋部分一杯に、大きさの異なる独特な花弁で構成された花が咲き誇る。水に溶けてしまいそうな薄い紫の宝石が、美しい花畑を作っていた。
「なるほど……確かに、ヴィオちゃんの時計だね」
あしらわれているのは、菫の花。宝石の色は、ヴィオレットカラー。
確かにヴィオレットの名を冠にした、ヴィオレットの時計……といっても間違いではないだろう。ヴィオレットの名は両親ではなく母の父、つまりはヴィオレットの祖父なのでその由来を聞いた事はないけれど。
菫の花に自らを見出だす程度には、ヴィオレットは自分の名前が嫌いではない。
「急にごめんなさい、目に入ったからつい……」
「ううん、気にしないで」
つい見入ってしまったが、今日の目的はユランの方であってヴィオレットの時計探しではない。マリンからのプレゼント前であれば流れて購入していただろうけれど、今はもう他の時計は必要ないとすら思っている。
そしてユランの方は……流石にこのデザインを使いたくはないだろう。
色味が淡いからか、モチーフが菫だからか、蓋全面を覆う花畑でも派手な印象はない。繊細な美しさと愛らしさが上品ではあるけれど、男性が使うには愛らし過ぎる。何より繊細な飾りを、ユランはあまり得意としていない。
ならばこれも、ユランへの贈り物には適していない……はずだった、本来なら。
「ね、ヴィオちゃん。俺これにする」
ヴィオレットが背を向けるより先に、ユランの手が菫の懐中時計を摘まみ上げる。少し眺めの鎖は、ポケットに入れても首から下げてもいいという利便性からだろうか、ジャラっと金属同士が擦れる音がした。
目線の高さまで上げたそれを、嬉しそうに、幸せそうに眺める表情は、ビー玉を太陽に透かす子供みたいで。ユランの纏う空気に、より一層甘さが増した。
「え、っと……」
「俺へのご褒美、これがいい」
戸惑うヴィオレットに、もう一度念を押す。彼女の考えている事は手に取る様に分かるけれど、これが欲しいというユランの本心は揺らがないし、譲らない。
ヴィオレットが、自らとの繋がりを見出だした。それだけで、ユランには特別な物になる。そして特別になれば、今度はそれを他の誰にも渡したくなくなる。
独占欲にも似た、でもきっと、もっと重く深い感情。
「これ、俺のお守りにする」
「ご利益あるかしら……」
「あるよー。これなら俺、絶対なくさないし忘れない自信あるもん」
「それはご利益なの?」
仕方ないわね、と。いつものお姉さんな笑顔で許容する。ユランの言葉に、姉を慕う延長を見たのだろう。
本当はそんな可愛らしい次元ではないのだけれど……ヴィオレットは、知らなくていい。彼女が見たい物、思いたい事を、信じればいい。それを真実にするのがユランの使命であり意義だ。
「貴方が気に入ったのなら、それが一番だものね」
「うん、ありがとう!」
爪を研ぐ。あらゆる事柄を準備する。
焦らず、でも確実に。彼女が幸せになる城を、誰にも傷付けられない要塞を。ヴィオレットの為だけの楽園を、築かなくてはならない。
ヴィオレットは知らなくていい。何も知らず、その日を迎えてくれればいい。あの家でヴィオレットを待たせる事だけは吐き気がするほど不服だけれど、急いて事を仕損じたら、全てが泡になって消えてしまう。
どんな事でもしよう。どんな物でも利用しよう。彼女が、己の想いだけで選択出来る様に。何の憂いもなく、介入もなく、願望のままに手を伸ばせる様に。
人も、想いも、ユランの持つ全てを捧げて。
ヴィオレットの為に、その幸せの贄にしよう。
もし、仮に、この想いが届かず恋心が暴走したとしても。贄にした想いが何にもならず息絶えたとしても、構いはしない。
ユランがヴィオレットを傷付ける事だけは、絶対にないのだから。