62.今、触れる
サロンに戻ったユラン達を出向けたのは……予想外の人だった。
「戻ったか」
「クローディア様……?」
部屋に入ってすぐのテーブルには、ヴィオレット達が使っていた勉強道具が置かれている。その奥にメアリージュンが使う方のテーブルがあり、部屋が広い事もあって少し距離があるのだが、入り口からはどちらも視界に入るのだ。
休憩前は奥にいたはずのクローディアが、今は何故か自分達が使っていたテーブル……ミラニアがいた席に座っている。
それだけでなく、室内にはクローディア以外誰もいない。ミラニアも、メアリージュンも。
「あの……ミラ様達は」
「図書室だ。メアリージュンは学園の授業になれていない所があるみたいでな、教材ならここよりも図書室の方が充実しているから」
「そう、なのですか……」
クローディアのいう事は理解出来る。メアリージュンが天才であるのは事実だが、だからといって何の苦労もなく順応出来るかと言われれば違うだろう。
特にこの学園は一般から随分と離れた場所だ。平民であった時は触れる事のなかった物が当たり前に転がっている。
テスト勉強ならば過去問が揃っているこの場で事足りるが、これからの授業に適応していくならばあらゆる知識の集う図書室が適切だ。
それは、理解出来るのだけど。
「あの、では何故クローディア様がここに……?」
「俺までいなくなったら、お前達が戻ってきても入室出来ないだろう」
「いえ、そうではなくて」
「……?」
首を傾げるクローディアに、嘘はない様に思えた。本気でヴィオレットの言いたい事が分からないのだと。
つい、口調が強くなりそうな自分を律する。ヴィオレットの疑問が欠片も分からないのは、クローディアの性ではない。むしろヴィオレットの心の問題に近い。
ヴィオレットが驚いたのは、クローディアがここにいる事……というより、メアリージュンに付いていかなかった事。
ミラニアがいるなら自分はいなくていいと判断したのは、理解した。だからこそ、何故その時にミラニアを残す選択をしなかったのか理解出来ない。
自分とユランが休憩しているうちに何があったのか。自分達がいた時は二人と三人に別れていたが、ミラニアが一人になった事でクローディア達に合流したのだろうか。だとしても、ミラニアとメアリージュンの人選になるとは思えない。
あの時、メアリージュンを教えていたのはクローディアであったし、クローディアもどことなく楽しそうに見えた……それはヴィオレットの記憶と知識による先入観かもしれないが、二人が惹かれ合うという事実がある以上勘違いではないと思う。
「メアリージュンと一緒に行かなくて良かったのかな、と」
「……ミラが残った方が良かったか?」
「そんな事はありませんっ……、けど」
「メアリージュンを教えていたのはクローディア王子だったので、彼女に付いて行くならミラ様より貴方かと」
どう説明したものか迷っていたヴィオレットに助け船……かどうかはともかく、代弁してくれたのはユランだった。
スッとヴィオレットより一歩前に出て、その視界に自分の顔が映らない様に。クローディアを前にした時のユランは、いつもより表情筋が硬い。口許はいつもよりずっとわざとらしい笑みを描いてはいるが、口ほどに物をいうらしい目に関しては自信がないから。
何より、クローディアはユランが得意ではいし、ヴィオレットにも好印象を持っている訳ではない。そんなクローディアが二人を待っている現状がとても異質に思えて。
「俺が本来約束したのは、ヴィオレットの勉強を見る事だ」
約束……ユランに頼まれた、大切な約束。
クローディアを敵視しているといっても過言ではないユランが、本当なら絶対にしたくないはずの願いをクローディアに委ねたのだ。
「メアリージュンの参加は、そのヴィオレットに頼まれた事だからな……基礎は教えたし、彼女ならそれで充分だろう」
特別な感情の感じられない、平坦な感想。嫌っている事はないし、恐らくクローディアはメアリージュンに対してそれなりに好印象を抱いていたはずだ。
天真爛漫を連想させる笑顔、ただ笑っているだけで人から好かれるメアリージュン。それは彼女の雰囲気や、性格から来る素晴らしい長所だと、今では思う。
かつてのヴィオレットにとっては何よりも憎むべき要素だったが、今ではその長所を存分に伸ばしてくれて構わない。
そんな長所によって、クローディアもメアリージュンに惹かれているのだと、思っていたのだが。
(出会ったばかりだから……?でも以前だってほとんど一目惚れに近かったのに)
クローディアが自分を選んだ……そんな大袈裟な話では無いのかもしれないが、ヴィオレットにとってはとても衝撃的な出来事だ。
以前のクローディアは、少々視野が狭い傾向にあった。メアリージュンに対する一途さの表れではあったけれど、一つの感情に支配されやすいタイプとも言える。
以前の自分は、確かにメアリージュンを目の敵にして虐げてきた。
大嫌いで、憎らしくて、本当に本当に──死んで欲しかった。
その憎悪が膨らんだ原因の一つは、クローディアの一途さだった。
メアリージュンを想うが故に、ヴィオレットを忌み嫌うクローディア。そんな彼の心を手に入れたくて、更にメアリージュンへの憎悪を募らせるヴィオレット。
最低の悪循環の中で、結局自分はクローディアの心に欠片も触れられなかったのに。
「…………」
「ヴィオレット……?ミラの方がいいなら、今からでも交代するが」
「っ……!い、いいえッ、……クローディア様が良い、です」
「……それなら、良い」
呆然としたヴィオレットを気遣う様に苦笑いを浮かべたクローディアを制し、急いで弁解する。
クローディアの様子には戸惑うが、彼がメアリージュンではなくヴィオレットを選んでくれたのは事実。それがメアリージュンに対する想いがまだ芽生えていないからなのか、ユランとの約束があるからなのかは分からないが、そう長く続く効果ではない。
ならば、今だけでもその恩恵に預かりたい。何せクローディアは教え方が上手いし、元々頭の良い人だから質問にもすぐに答えてくれる。
ミラも優秀な事は確かだが、クローディアが教えてくれるなら、交代を望む必要性を感じない。
「では、始めよう。ミラとはどこまで進めたんだ?」
「あ、はい……」
ユランの隣を抜けて、休憩前まで自分が座っていた席に着く。出た時とほとんど変わらない配置、教科書のページもそのままだ。
「ここまでは、休憩前に終わらせました」
「ではこの続きを……理解に問題はなかったか」
「ミラ様に説明して頂きましたので、大丈夫だと思います」
「あいつの説明は噛み砕き過ぎて分かりにくくないか?」
「そうですか……?私はとても分かり易かったです」
自然に会話を続ける二人を、ユランがジッと見つめる。背中を向けているヴィオレットは気付いていないが、向き合っているクローディアは、顔を上げるとすぐにその姿が視界に入る。
動かないその影に、チラリと目だけで様子を窺った。
「ぇ…………?」
憎悪を孕んだ目付きで睨まれているのか、凍てつく様な視線で貫かれるか……少なくとも、嫌悪を露にした表情で見られていると、思っていた。ヴィオレットと話しているクローディアに、ユランが好意的であるはずがない。
そして実際、好意とはかけ離れた表情がそこにはあったけれど。予想していた物には、どれも当てはまらず。
「──ヴィオちゃん、もうちょっと詰めてー。俺が座れない」
「あ、ごめんなさい」
「俺のが場所取っちゃってるから、こっちこそごめんね」
「ユランは大きいから、仕方ないわ」
にこにこにこ、多くの人間が好む笑顔で、ユランは笑っている。ヴィオレットも、クローディアと話している時よりもずっと素の表情で。
それは、クローディアもよく知る二人の関係性。馴染んだ掛け合いは、学内だけでなく社交界でも見かける事の多いそれ。
いつもと変わらない、ユランの姿。一瞬前の姿が見間違いに思えるくらい、とても楽しそうに、幸せそうに笑っているけれど。
間違いでない。気のせいでも、ない。
ついさっき、この男は。
迷い彷徨く幼子の様に、今にも泣き出しそうな顔をしていた。