61.不変の供給
「……ん?」
謝る、謝罪、何かを詫びる気持ち。三秒で判断出来るが、ユランには全く心当たりがない。
言い淀んでいる所を見ると、ヴィオレット自身も考えが纏まっていないらしい。視線をさ迷わせて、指先に力が入ってる。毅然とした態度を崩す事の少ない彼女には珍しい。
「えっと……俺、何かされたっけ?」
「された、というか……」
上手く説明出来ず、言葉が途切れた所で、ヴィオレットは自分の発言を後悔した。
ヴィオレットが謝罪したかったのは、メアリージュンの事……延いては先日の父の発言。
あの日感じたのは、ユランが自分の為にしてくれた事のなのに、という意味で怒りだった。
ユランとクローディアの関係を知っているから、容易に想像出来る。いくらヴィオレットの為とはいえ、彼に頼み事をするにはきっといろんな葛藤があったはずだ。だからこそ嬉しかったし、その想いに報いたいと思った。
ユランの想いも、ヴィオレットの感謝も、あの男は欠片も慮らず、言葉一つで叶えようとするのかと。
自分に対する言葉なら黙っていられるのに、思わず反論してしまうくらいには許せなかった。ヴィオレットだけでなく、ユランの事まで軽んじられた様に感じた。
その時の怒りが、ユランを前にしたら罪悪感に姿を変えて。
謝りたいと思った。あんな事を言わせて、姉という立場に巻き込んで、その心を踏みにじらせた事を。
自分の言葉になんの責任も乗っていない父の非礼を、詫びたかった。
ただそれを口にした途端、自分の考えなさに後悔した。
「え、っと……メアリージュンの、事で……」
「あぁ……別に大丈夫だよ?教えてるのは俺じゃないし」
「あぁ、うん……そう、よね……」
ユランならそう言うだろう。想像した通りの答えだけれど、ヴィオレットの言葉が真実でない以上、それに満足する事は出来ない。
考えなしに自分の罪悪感を優先したが、そもそもユランは父の発言なんて知るよりが無いのだ。メアリージュンが何か言った所で、彼女は父の発言を百パーセント親の愛情、善意だと思い込んでいる。事実、父の発言はメアリージュンの対する過保護なまでの愛情から来たものであり、その為なら他を蔑ろにしても良いという傲慢な代物だ。
ヴィオレットが言わなければ、ユランは何も知らない。わざわざ伝えて不快にさせる必要なんて無い。
今さらそれに気付いた所で遅いのだが、幸いユランはヴィオレットの異変には気付いていても言いたかった事は何も伝わっていない様で。
誤魔化せば、きっと彼は聞いて来ないだろうと。
「ユランがいいなら、良いの。突然人を増やしたから、少し気になっただけ」
自分は、上手く笑えているだろうか。口角は上がっているけれど、それだけでは笑顔に程遠い。表情全体が見えない様に、出来るだけ俯いた。前髪の隙間から見える程度なら、不格好な笑顔もマシになるんじゃないかって。
「……引き留めてごめんなさい。そろそろ戻らないと、休憩だけで終わってしまうわね」
サロンを出てどれくらい経っただろうか。あまり長く席を開けていれば、折角の勉強会が無駄になってしまう。万が一心配でも掛けよう物なら、あの優しい異母妹がどんな面倒なフラグを立てるか……正直想像するだけで面倒臭い。
軽くユランの腕に触れて帰路を促した。そのまま隣をすり抜けて、背中ならどんな表情をしていてもバレないからって。
「っ……!?」
離れようとしたヴィオレットの手が、一回り以上大きな温もりに引き留められる。前につんのめりそうになった体を軽い力で引き寄せられて、今度は後ろに倒れそうになった後頭部が──固いけれど暖かい何かに触れた。
ぽふん、と空気が抜ける様な優しさで、ヴィオレットの背後を支えるのが何のか。仰ぎ見るよりも先に声が降ってくる。
「大丈夫……大丈夫だよ、俺は」
「…………」
抱き締められている訳ではない。腰に腕を回す訳でも、引き寄せて全身を密着させる訳でも。すがり付く訳でもなく。
ただ、ほんの少しだけ触れるだけ。ほんの僅かな体温を交換して、伝えるだけ。
「俺はね、ヴィオちゃんが思ってるよりも図太いんだ。ヴィオちゃんが思うよりずっと、傷付かないんだよ」
昔、傷付いて死にそうだった幼いユランはもういない。ヴィオレットに救われた日から、ユランの心はずっと強固になった。弟の様に可愛がってくれるヴィオレットに甘えていたのは事実だが、逆を言えば周囲の目も考えずに甘えられる程度には図太くなったという事で。
有象無象の印象も、言葉も、どうだって良い。
ヴィオレットが良いなら、許してくれるなら、受け入れてくれるなら、別にいい。他の全ては、どうだって良い。
「俺は大丈夫。心配してくれてありがとう」
ヴィオレットが何を考え、何を気にしているのか、全てを察した訳ではない。むしろほとんど分からない。
ただ彼女が、異母妹の事で自分に何かしらの負い目を感じているという事だけは理解した。
何も気にしなくていいのに。何も、思わなくていいのに。ユランにとってメアリージュンは、道端の石ころ程度の価値もないのだから。
ヴィオレットが関わると石ころでも抹消したくなる過激な考え方は持っているけれど、ヴィオレットを抜いて考えた時のメアリージュンにユランは欠片の興味も関心もない。今日に至っては、メアリージュンに付いているお陰でヴィオレットとクローディアのツーショットを見ずに済んでいるくらいだ。
「俺は元々ヴィオちゃんと一緒に勉強が出来ればそれでいいし、他に人が増えても減っても関係無いからねぇ」
黙って俯いているヴィオレットに、軽い口調でおどけて見せるけど、歴とした本心だった。
その肩に触れて、預かっていた体を返却する。勝手に繋いだ手もほどいて、その顔を見ない様に隣に立つと、促さなくても歩き出した。二人で、同じ歩調で。
「……ユランが図太いのは、知ってるわよ」
「えー、そうかなぁ……多分ヴィオちゃんが思ってる十倍は図太いと思う」
「図太くない人間は、王子相手に意見したりしないわ」
「それ、まだ根に持ってたの……?」
「感謝もしてるけど、肝が冷えたのも事実だから」
「反省もしてないし後悔もしてないからなぁ……」
「せめて反省はしてくれないかしら」
交わされる会話は軽くて、いつも通り。さっきまでの距離の近さの名残なんて欠片も感じさせないのは、その関係性故なのだろうか。ユランが与えるものを、ヴィオレットは何の疑いもなく受け取るから。
それでいい。何も変わらなくていい。ユランがヴィオレットに注ぐ慈しみは、何も特別なものでは無いのだから。
ただそれでも、ヴィオレットの胸に巣食っていた黒い悪感情は、確かに薄くなっていた。