60.沈殿
その日の放課後、きちんとクローディア達にはメアリージュンの事を話し了承を貰った。
出来る事なら聞かずに断ってやりたかったが、そんな事をしたら朝の反論も含めて自分を叱る理由を与えるだけだ。そして父が勝手に決定したとはいえ、あの男にとってはヴィオレットが約束を違えた事実だけが認識されるに決まっている。そもそも彼らが断るという選択肢は存在しない。
勿論彼らが少しでも躊躇うそぶりを見せたなら、その時点で撤回するつもりだった。父には不評を買うだろうが、そんなもの今更だ。小言や説教は覚悟しなければならないけれど、元々自分が原因で巻き込んでしまったのだから、甘んじて受け入れるつもりだった。
幸いにも、クローディアを筆頭に快く引き受けてくれたのだが……それはそれで複雑という矛盾。断られても面倒はあったが、受け入れられたらそれはそれでメアリージュンと共にお勉強をしなければならない。どちらに転んでもヴィオレットに益が無いとは……慣れてしまっている自分が恐ろしい。
「ヴィオちゃん、疲れてない?休憩にしようか」
「大丈夫よ。まだ始めたばかりだし……ありがとう」
クローディアとメアリージュンが目の前で仲睦まじく話しているせいか、先程からユランはずっと心配そうにそわそわしている。
それが自分の為である事は分かっているし、実際過去のヴィオレットであったなら、近寄った二人を真ん中から引き離してメアリージュンに怒鳴り付けるくらいはしただろう。
未来を見てきた今では、そんな真似で自らの首を絞める愚かさを分かっている。クローディアに対する想いが変化しているせいか、嫉妬心なんて欠片も芽生えては来ない。
「すみません、ミラ様。これで正解ですか?」
「ん?どれ……あぁ、うん。大丈夫、あってるよ」
「ありがとうございます」
ミラニアがいるお陰で、勉強の質問でクローディアに話し掛ける必要はない。勿論能力的にはクローディアの方が順位も上ではあるのだけど、元々ヴィオレット自身もそれなりに優秀だ。天才であるメアリージュンがいる事で無能の烙印を押し付けられてはいるけれど。
「……ヴィオちゃん、やっぱり休憩にしようよ。俺疲れちゃった」
「え……」
「外の空気吸いに行こうよ……ね?」
「……仕方がないわね」
「やったっ」
「ミラ様はどうなさいますか?」
「俺は……遠慮しておくよ。クローディア達には俺から言っておくから」
同じ室内だが、二人は集中しているせいでこちらの話は届いていないらしい。
クローディアもそうだが、メアリージュンも天才の部類だ。年齢は違えど、優秀な人材が寄ればそれだけ建設的な意見交換が出来る。ヴィオレットがメアリージュンよりも劣る事は今さら抗い様のない事実だ。
「……ありがとうございます。行こう、ヴィオちゃん」
「え、えぇ……」
何となくピリッとした空気がミラニアとユランの間に流れた気がしたけれど、気のせいだったのだろうか。ミラニアの微笑みは変わらないし、何よりこの二人の間には親しみもないと同時に蟠りもない……はずだ。
ユランに促されるまま、生徒会室を出た。
それだけで何となく肩から力が抜ける。メアリージュンと同じ空間にいると、どうしても夕食の席を思い出して気持ちが沈んでしまうらしい。ヴィオレットにとって、メアリージュンはどうしても父を連想してしまうから。見た目は自分の方が似ているというのに……父の愛が常にメアリージュンを囲ってい様に感じるからだろうか。
「あちゃぁ……雨酷いねぇ」
中庭を渡る外廊下から空を見る。夜の黒よりは暗く、晴天の青は見る影もない灰色の空。降り注ぐ雫が視界を霞ませて、いつもならば先の先まで見渡せるはずなのに、今はボヤけて一寸先も朧気だ。
その空が、自分の髪に似ていると思う。
曇天の世界は嫌われる。それが、ヴィオレットという存在に重なって。
雨は、曇天は、嫌いだ。
「恵みの雨、ってやつだね」
ふふ、と笑って手のひらで雫を受け止める。屋根をすり抜けてユランの前髪を濡らす雨にも嫌がる様子はなく、子供の様な笑顔は楽しそうにすら見えた。
「ユランは雨が好きなのね」
「うーん、考えたことないけど……でも雨の日のちょっと暗い空とか、音とか匂いは好きかなぁ。何だか世界が洗われて、新品になっていく感じがして……どうせなら一緒に虹が見れると良いんだけど」
ユランはただ、雨の話をしているだけ。それなのにまるで自分を肯定されている様に聞こえるのは、ヴィオレット自身がそうのぞんでいるからだろうか。
あまりにも優しい顔で微笑んでいるから、そんな夢を見たくなったのだろうか。
「雨、上がりそうにないわよ」
「それはそれで、世界に二人だけみたいで嬉しいよ?」
降り注ぐ雨音が遠くからの音を遮って、隣にいるユランの呼吸しか聞こえない。この広い校舎の中にはまだ沢山の人が残っているはずなのに、雨が気配を消してくれる。
世界に二人だけどは……まさにその通りだ。
誰もいない、ヴィオレットを否定する人が一人もいない世界。ユランだけが側に佇んでる世界は、きっととても心地良いけれど。
それはきっと、ヴィオレットの為の世界でしかなくて。
「私と二人なんて、詰まらないだけでしょう」
ヴィオレットだけが安らげる、そこにユランの気持ちはあるのだろうか。自分が安心するためだけに、ユランを犠牲にする世界では、ないだろうか。
俯いた顔にかかる髪は、世界と同じ曇天の色。暗い場所ではより暗く、明るい場所でも鈍く色付くそれを、大きな手が取っ払う。
擽る様に耳を掠めて、開かれた視界に、雨の中の太陽を見た。
「──世界で、一番幸せだよ」
眩しさに目を細める様に、願望に、手を伸ばす様に。柔らかさよりも、美しさが勝る笑顔は、ヴィオレットが初めて見るユランの一面だった。
目元がほんのり染まって、眼球は艶やかさを増している。幸福を噛み締める姿は、子供であって大人だった。掴めない夢を見る幼さと、掴めないと割り切れるくらいには現実を知っている。
ただの仮定、絶対に叶わない想像。世界に二人切りなんて、実現する日の来ない夢物語。
それでも、ユランにとってはこの上ない理想郷。
「…………」
葉の上で弾けた雨水の様な瞳が、驚きに大きく開かれる。ユランの発言があまりに意外だったせいか、その内に含まれた多くの意味を図りかねている様だった。
その姿に、ユランは内心で自分のラインを塗り替える。
ヴィオレットの中での自分を、少しずつ変えていく為に。最終地点は決まっている、今はまだ弟で甘んじるべきだ。しかしそこに固執しては、いざという時ヴィオレットはユランの庇護を受け入れてくれなくなってしまう。
弟の中に男としての想いを混ぜて、少しずつ少しずつ。ヴィオレットに気付かれない、少しの違和感だけを残して忘れてしまうくらいの欠片を。
積もらせていく。ヴィオレットの中に、満たしていく。
そしていつか、全てが整ったその時に。積もり積もったユランの想いが、ヴィオレットの身体中を巡ればいい。
──そしてまだ、その時ではない。
「まぁその幸せも、サロンに戻ったら解けちゃうんだけどねー」
口調を軽くして、表情も意図的に変える。柔らかく優しく幼く、幸いユランの顔の作りを持ってすれば簡単な事だ。
両手を組んで、ぐっと上に伸びる。長身で、足の長いユランにとっては、大衆には使いやすい家具でも少々窮屈に感じてしまう。縮こまっている自覚はなかったが、思ったよりも体の筋が凝っていたらしい。
「そろそろ戻ろっか。あんまり長居してると体冷えちゃいそうだし」
「ぁ……そう、ね」
「……まだ、戻りたくない?だったら他の、図書室とか」
歯切れの悪い返事に、ユランが真っ先に心配したのはクローディアと、共にいるメアリージュンの事だ。二人を見るのが辛いのか、それともメアリージュン単体かは分からないが、それでもヴィオレットが戻りたくないならユランの取るい行動は決まっている。
ここでは雨風の影響もあるが、室内であれば何も問題はない。
「違っ、……違、うわ、そうじゃなくて……」
「……?」
図書室、サロン、ここから一番近くて生徒会室から出来れば遠い方がいいだろうか……そんな考えを打ち止めたのは、どこか焦った様子の声だった。
「違うの、私……ユランに、謝りたく、て」