2018年09月06日

ホワイトウォッシングを喜ぶ日本/サイードの「オリエンタリズム」と「オリエンタリスト」としての日本人

映画論(ホワイトウォッシングと日本 編)




まずは「ホワイトウォッシング」の実例と、アジア系アメリカ人の反応をご覧ください。
下のリンクでは「ホワイトウォッシング」がなぜ問題なのかという点を、アメリカの実例から確認しています。
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関連レビュー:「ホワイトウォッシング」問題を徹底解説
日本人を白人が演じた実例集
アジア系アメリカ人の「ホワイトウォッシング」反対意見

ここで再度、ハリウッドの「ホワイトウォッシング」に対する、アメリカ社会のマイノリティーの主張を個人的に要約すると、以下のようになるかと思います。
他人種との摩擦や衝突そして差別がある社会では、マイノティーを代表する「ヒーロー=英雄」とは、一種の「心の救い・拠り所」として輝いている。
その「マイノティーヒーロー=人種的英雄」とは、その少数者・被差別者側にとっては「人種的財産=人種的アイデンティティ」となっている。
その「人種的財産=人種的アイデンティティ」を他民族に盗用されることで、マイノリティーは社会的な抑圧だけではなく、精神的にも混乱を受ける。
さらには自らの人種が、白人などマジョリティーから植民地支配された歴史的経緯を蘇らせ、その支配と簒奪の再現を許す事を意味し、自ら劣等であると認めてしまう事にもつながる。

しかし、それが日本人にとっても同様の問題なのかというと、どうも違うように思えてなりません・・・・・

そんな、日本人と「ホワイトウォッシング」の関係を、以下考察していこうと思います。

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<目次>
日本人の反応「ホワイトウォッシング」
「オリエンタリズム」と「ボストン着物イベント中止問題」
日本人が「ホワイトウォッシング」を歓迎する理由
希望としての「ホワイトウォッシング」

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ホワイトウォッシング・日本人の反応


現在「ホワイトウォッシング」を非難する声は、アメリカのマイノリティーから発して、今やアメリカのマジョリティー(白人層)も、理解を示す(無視しえない)ようになっています。

それを端的に示すのがハリウッド映画『ゴーストインザシェル』で、この主人公・草薙素子という日本人をスカーレット・ヨハンソンが演じたことで、アメリカのマイノリティーのみならず、白人を含めた海外アニメ・ファンから「そこは日本人だろう!」とツッコミが入ったのでした。

しかし、そんな激しい反応を示す海外の論調とは打って変わって、じっさい盗用された日本人の反応は実にノンビリしたものです。
<『ゴーストインザシェル』ホワイトウォッシュ問題・日本人の反応>
【00:24 質問】ゴーストインザシェルの草薙素子をスカーレット・ヨハンソンが演じるのをどう思うか?
【01:03 質問】このキャスティングは実際に、アメリカで批判されています。なぜだと思いますか?
【01:36 質問】多くの人々は、日本人(アジア人)である役を白人が演じ、そして、ハリウッドではマイノリティーが通常演じる事ができないとして、批判されています。この批判をどう思いますか?
【03:00 質問】あるアジア系の俳優(エドワード・ZO)が『デス・ノート』の主役の日本人役でオーデションに挑戦しましたが、しかしアジア系の俳優を探してはいないと言われました。これをどう思いますか?
【04:33 質問】ナルトのような、ある種の日本のアニメは、日本が舞台なのに金髪で青い目です。その理由をどう思いますか?
【05:45 】みんなリアルな日本人の事を知りたければアクセスしてねLearn Japanese with Yuta: http://goo.gl/TMxmsF

ここで聞こえてくるのは「有名女優使ってくれれば、アニメも日本も有名になってうれしい」なんていう、一見ミーハーな意見のようにも聞こえます。
しかし、アメリカやヨーロッパに住むアジア系やマイノリティーや、外国のガチの『ゴースト・イン・ザ・シェル』ファンからは、裏切者なんて言葉が聞こえてきそうです・・・・

個人的には、そもそも『ゴースト・イン・ザ・シェル』の少佐は人工ボディーですし、日本人が造形すれば間違いなく白人風に成りそうだし・・・・・・
更に正直いえばスカーレット・ヨハンソンのファンだし・・・・・・・・

冗談はともかくとして、実は日本人は、むしろ「ホワイトウォッシング」を望んでいるんだろうと、個人的に感じられてなりません。

上の動画で見るように、一般的な日本人の反応として「ホワイトウォッシング」に拒否反応は少なく、むしろアニメにせよ食文化にせよ、海外で広く日本由来の文化が伝播されることを喜ぶ傾向があるように思います。

それゆえ、日本のアニメが海外で実写化されると聞けば、それが多くの眼に触れるよう、むしろ大物ハリウッド俳優の「ホワイトウォッシング」を期待さえしているような印象があります。

しかしどうして、アメリカのマイノリティーの語る「人種固有の財産の盗用」に対し、日本人は関心を持たないのでしょうか?
それを検証する上で、一つの例を挙げさせて頂きます。
<ボストン美術館の「キモノ試着イベント」が中止>

white_boston.jpgアメリカのボストン美術館には1876年ごろ描かれた「ラ・ジャポネーズ」というモネの絵画が所蔵されています。
これは、日本芸術を愛したモネが、妻のカミーユに扇子と着物を着せた姿を描いた作品で、1870年代のヨーロッパにおける日本趣味「ジャポニスム」を代表する絵画です。
そして美術館では、日本やヨーロッパで行い盛況だった「キモノ・ウェンズデー」と銘打つ企画で、来館者に着物を羽織ってもらうというイベントを2015年7月にアメリカでも実施しました。

これに対して、「Stand Against Yellow Face(立ち上がり抗議する黄色人種)」という団体が異を唱え、そのFacebookページには、その主張が語られています。
「着物の起源、歴史、使用方法、そして当時の日本社会での重要性について説明されていない」
「日本人ではない美術館職員は、訪問者に着物を放り投げるように渡し、"コスチューム"イベントだと思っている。これはアメリカ国内のアジア系アメリカ人としての私たちのアイデンティティや経験、そして歴史に対する侮辱であるばかりか、社会全体に固定観念を植え続け、今の私たちの声を否定し続ける影響もある。博物館の職員と訪問者が、こんな白人至上主義の"コスチューム"イベントにはよく考えて参加するよう望む」
「オリエンタリズムの影響で南アジア、東アジア、そして中東の伝統的なさまざまなカルチャーがエキゾティックになる。そしてその結果、現在まで攻撃的な姿勢がオリエンタリズムの人々に向かい続ける」
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この反対をうけ、ボストン美術館側も「キモノ試着イベント」を中止しました。

これに対し、アメリカのみならず、世界中から、「それならTシャツやジーパンを着ることはどうなのか」、「全て自らの人種的属性のモノ以外使えないなんて行き過ぎだ」「何を主張したいのか分からない」と、非難の声が上がっています。

この「キモノ試着イベント」の中止は行き過ぎだという反応は、概ねの日本人にとっても同様で、反対派の主張がどこか納得いかないというのが本音だと思います。
さらには、日本文化を広めさせないための、韓国中国の陰謀説までネットでは囁かれているようです。
これは、「着物」が世界に広がって嬉しいと言う、「ホワイトウォッシング」の容認と同様の日本人心理と、それを妨げられた憤りが有るように思います。

つまりは日本人は「ホワイトウォッシング」を求めているのです。

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サイードの「オリエンタリズム」


しかし、世間で叩かれているこの「キモノ試着イベント中止事件」のアジア系アメリカ人の主張は、実にもっともな言い分もあるようです。
その主張を丹念に読んでいくと、それはサイードという文学批評家の論じた「オリエンタリズム」という概念に沿ったものだと感じます。
<「オリエンタリズム」概要>
パレスチナ出身のアメリカの批評家、エドワード・サイード(1935-2003)の著書『オリエンタリズム』Orientalism(1978年)において、今日的で新たな意味がこの言葉に附与された。後者の概念で使われるときには、翻訳ではそのまま「オリエンタリズム」と表記されることが多い。
伝統的に西欧で継承されてきた「オリエンタリズム」という概念は、東洋人のイメージとして好色・怠惰、自分の言語や地理等を把握できず、独立国家を運営もできず、肉体的にも劣った存在というイメージを作る。こうしたオリエンタリズムはロマン的・異国情緒的・軽蔑的にすぎず、それは西欧(オクシデント)の文芸や絵画上の流れの一つだった。サイードはオリエンタリズムを、オリエントに対するヨーロッパの思考様式であると同時に、支配の様式でもあると見なす。すなわち「知」と「力」が結合して、オリエンタリズムは支配の様式にもなる。(wikipediaより)
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<サイード自身の語る「オリエンタリズム」>
【意訳】長期に渡って、私自身の歴史は一貫してある種の不平等にあった。私は、アラブ人として生きる経験と、芸術に見る人物画との中間にあると感じた。私が語っているのは、大変偉大な画家達のことだ。分かるだろうか、群れたり、怒ったり、家を共有したり、東洋を描いた小説家の全てもそうだ。イスラエルの洞窟やバレエ。でも事実、そんな形で表現される東洋とは、私自身の人生の経歴からすれば小さな要素だ。それで、私は歴史を書こうと決めた。


white_boston.jpg実は、ボストン美術館の「着物イベント」はこの「オリエンタリズム」だという主張だったのです。
このアジアの文化を白人が弄ぶことの中に、アジア人蔑視と、西洋文明の優越感と、西洋の東洋支配(植民地支配)が潜んでおり、さらにそのイベントを通じて「オリエンタリズム」を強めるから止めるべきだというのが、彼らアジア系アメリカ人の主張のようです。

サイードの文脈に従って言えば、現代社会は「優越する西洋」と「従属物としての非西洋=オリエンタル」に二分されており、着物を着る行為は「西洋=支配者」が「非西洋=服従者」を確認し、「非西洋」の姿を通して「西洋の優越・支配」を強化し賦活する行為だという事になります。
この文脈で見れば「Tシャツやジーパンを着る」行為は、西洋(優越者=マジョリティー)文化を身にまとう事に、歴史的被支配や被差別が含まれない(西洋文化にたいする侮蔑的意味が無い)がゆえに問題とはなり得ないでしょう。

それは西洋(優越者)の所属文化を使用すること自体が、現代世界に強いられた基本システムであり、たとえマイノリティーが避けようとしても逃げられない現状があるからです。

ここで整理するため、「着物イベント」がサイードの「オリエンタリズム」によってなぜ批判されるか、個人的な解釈でまとめてみたいと思います。
現代社会は、今現在もイジメた人(西洋=植民地支配者)たちが、牛耳っている。
イジメた人(西洋=植民地支配者)たちは、イジメられた人たち(非西洋=被植民地)の姿を見て、自分たちの強さと優越を無意識に確認している。
しかも、そのイジメ(植民地支配や差別)をイジメた方が気づいていないし、今もそのイジメが世界を覆って不均衡が生じているのに気付いていない。
だからこそ、そのイジメを思い起こさせるようなアジア文化の白人盗用、「着物イベント」が平然と行われている。
それゆえ、このイベントがそんな「オリエンタリズム=西洋の優越の確認」に基づくものだと認め、ボストン美術館は反省し謝罪しろ。

という事かと思いました・・・・・・

そして、その主張を認めざるを得ないからこそ「ボストン美術館」も、イベントを中止したという事でしょう。
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こんな、サイードの「オリエンタリズム」理論に従えば、日本人という非西洋に属する立場であれば、当然「着物イベント反対」を支持すべきです。

彼らアメリカのマイノリティーは、いわば「白人至上主義」と戦う、最前線のアジア人戦士達なのですから。
さらに日本人は、文化盗用としての「ホワイトウォッシング=イエローフェイス」にも、拒否の声を挙げなければならないでしょう。

しかし、実を言えばこれは、サイード自身がそうだったように、日々差別され、日々白人に威張られている、アメリカなど人種間の軋轢を常に感じる社会にいるマイノリティーだからこその主張だという気もします。
逆に言えば、単一民族の、島国にいる、多人種との摩擦など実感できない日本人にとっては、アジア文化を白人社会が盗用する事に「西洋の優越=イジメの構造」が潜んでいるなど想像もつかないというのが正直な感想でしょう。

つまり日本人は「文化盗用」や「ホワイトウォッシング」に、白人の「イジメの構造」が潜んでいる事に気付かないからこそ、「ホワイトウォッシング」を許しているのだと思ったりします。

しかし、それは日本人がお気楽なだけではなく、この「イジメの構造」に気づかない理由があると思えるのです・・・・・・・

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日本人が「ホワイトウォッシング」を歓迎する理由


日本人は「ホワイトウォッシング」も「着物イベント=文化盗用」も、むしろ「日本が世界に認められて」うれしいというのが本音ではないでしょうか?
しかし、実は日本でも問題とされた文化盗用「ホワイト(イエロー?)ウォッシング」があったのです。
その騒動の元になったのは、2005年のハリウッド映画『SAYURI』です・・・・・・・
<映画『SAYURI』予告>

映画公開前から、ハリウッド映画『SAYURI』は日本で激しい批判が出ました。
それは、主演のチャン・ツィイーとコン・リーが中国人で、ミシェル・ヨーも中国系マレーシア人だったからです。

この日本人の、中国女優「ホワイトウォッシング」に対する反感の根底に「アジア人蔑視」があるとすれば、白人の「ホワイトウォッシング」を喜ぶことの裏には「西洋讃美=白人崇拝」があるはずです。

実はここには、サイードが言う「オリエンタリズム=西洋優越支配体系」を信奉する「オリエンタリスト=西洋優越主義者」に、日本人がなっている事を意味していると思えるのです。

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つまりは、日本人自身がアジア人でありながら「西洋の優越」を認め、それ以外の「非西洋の劣等」を是認しているからこその「アジア蔑視」ではないですか?
これは、サイードの言葉を借りれば「西洋文化の優越が意味するのは、他文明を西洋文化の枠組みの下で、不適応で、価値の無い体系として、裁断すること」であり、それゆえ世界を支配する優勢な西洋文化の元では、他文明は必然的にその価値を減じる事になります。
つまりは植民地支配という形で世界分割が成された時、その支配する優勢な「西洋文化」は他文明を貶め、機能不全に陥らせ、植民地支配をより容易なものにするのです。

それは、「西洋文化」が「西洋の優越」を、教育、宗教、思想という「知」と、政治、経済、軍事、権力という「力」の両者が同時に機能することで、西洋自身に自信を与え、逆に非西洋文化の力を削ぐからです。
そして、ついには支配される非西洋の側も、その「知」と「力」の支配下に飲み込まれる中、自分たちの文化が劣っていると自ら信じる事になります。
それゆえ、西洋文化を獲得しなければならないと、己の文化を捨て他文化に、その身を投じさせることにもなるのです。
実をいえば、明治日本が求めた「文明開化」とは「西洋文化」への全面的な転向であり、それゆえ「西洋崇拝」という名の「アジア否定=自己否定」が生じたと言えるでしょう。


そういう点では、実に日本ほど「西洋覇権」に対し、自発的に身を任せた民族はいないのではないかとすら思います。

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それゆえ、日本人の「西洋崇拝」からすれば、西洋が日本を受け入れてくれたという証明として「ホワイトウォッシング」や、「日本文化盗用」があるのであり、むしろスカーレットヨハンソンの草薙素子こそ、真に日本人が望む理想なのだと思えてなりません。(写真:「リカちゃん」人形の造形も「白人種の容姿=ホワイトウォッシング」と感じられる)

つまり、アメリカのマイノリティーが自分たちの文化を守るために、必死に「オリエンタリズム」と戦っているとしたら、日本人はいち早く「西洋文化=日本文化の自己否定」を受け入れ、以降「オリエンタリスト=西洋の優越を認める者」として生き続けてきたのだと言えるでしょう。
『SAYURI』の例は、その「オリエンタリスト」としての日本人が、優越すると思っている日本文化を、他のアジア人に盗用されたくないという心理が働いていませんでしょうか・・・・・・
つまり「日本=西洋的優越者」という自己認識を、日本人役を他のアジア人に演じられることで、自ら蔑視しているアジア人だったと思い知らされて怒るという図式だと思えてなりません。

そしてまた、中国でも『SAYURI』に出演したチャン・ツィイーとコン・リーの2人は批判に晒され、反日的意見も反映され「魂を売り、祖国を裏切った」とさえ言われ、中国国内での『SAYURI』上映は政府によって禁止されました。
その中国の拒否反応には、戦争時に侵略した日本人を、中国を代表する女優が演じる事に対する拒否反応があるのは間違いないでしょう。

しかし、日清戦争から始まる両国の関係の基礎に、西洋帝国主義の圧力が有ったと考えれば、日本のアジア侵略も「オリエンタリスト」として自己規定させられた「オリエンタリズム」に原因があるようにも思えるのです。

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そう考えれば、個人的には、やはり「西洋の優越」の下で分断されてしまったアジアの痛みと、それに無自覚な東アジアの現状を感じたりします。

さらに言えば、本来、世界が「西洋の優越」で覆われているとき、「非西洋」は団結し「反オリエンタリズム」で対抗すべきでしょう。
しかし、現在の世界を見ると「イスラム教徒」に対する危険視や、アフリカ諸国に対する蔑視など、「非西洋」諸国自体も大なり小なり「オリエンタリスト」として自らの位置を確認しているのが現実でしょう。

そしてそれは、西洋世界の「オリエンタリズム」が、いかに有効に機能して来たかの証明でもあるはずです・・・・・
この非西洋にとっての「オリエンタリズム」に反対を唱える上で、やはり日本人も「ホワイトウォッシング」や「文化盗用」に断固反対をすべきなのでしょう・・・・・・

と書きながら、実は、個人的にはそうは思えないのです・・・・・

その理由は次の記事で述べさせて頂きました。

関連レビュー:「ホワイトウォッシング」と「グローバリズム」
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posted by ヒラヒ・S at 17:39| Comment(2) | 映画情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
仮に、アフリカの美術館で同じような騒ぎになったとしても
日本人の多くは、抵抗感や不満を覚えると思うのですが
これはブラックウォッシングを望んでいるということですか?
Posted by at 2019年02月11日 07:20
コメントありがとうございます。
上で書いたのは、ボストン美術館で起きた反対はアメリカ・マイノリティーの白人達への怒りに端を発しており、しかし、その怒りを日本人は共有していないと思われ、その理由が日本人自身が西洋の優越を認め自ら西洋人になりたい(ホワイトウォッシングを求めている)からではないか?という事でした。
従って、映画『SAYURI』で中国人が日本人を演じる事に忌避感を持ったように、アフリカ系の美術館で日本文化を弄ぶような展示があれば同じく忌避感を持つのではないでしょうか?
問題はボストンの白人達の行動には日本人は許容し、アジア・アフリカのマイノリティーが同様の事をした時、拒否感を感じるのかという事です。
ここにサイードのいう「オリエンタリズム」の構造があるように思えるという文章でした。


Posted by ヒラヒ at 2019年02月12日 09:00
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